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安房高等女学校からみる百年前の災禍

〜台風被害とスペイン風邪のパンデミック〜

愛沢伸雄=NPO法人安房文化遺産フォーラム代表

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1917(大正6)年10月1日に台風が襲来した。「東京湾台風」と呼ばれ、千葉県の市川・船橋・浦安や東京都の深川・築地・品川など沿岸部では大変な高潮水害が起きている。

『安房南高校75年のあゆみ』によると、《午前一時頃より午前四時ころにかけて台風襲来す。体操室屋根が吹きとばされ、寄宿舎は大きく傾くなど多大の被害を受く。郡内の被害状況は死者・行方不明者41人、家屋全壊923戸、学校全壊8を数えた。寄宿舎生は荒れ狂う強風のなか、暗闇のなかで帯と帯とに手をかけあって、安全な場所へと命がけで移動し、幸いにも負傷者を出さずに済んだ》 という。


奇しくも、台風災禍の翌1918(大正7)年秋から、未知のウィルス蔓延によるパンデミック(世界的感染拡大)が始まっている。不思議なほど現代社会に近似している。いわゆる「スペイン風邪」として知られるスペイン・インフルエンザであり、当時の世界人口20億人のうち5億人以上が感染し、死亡者数は2,000万人とも4,000万人ともいわれる。

日本国内では、1921(大正10)年春までに3つの流行の波があり、大正期の人口5,500万人のうち半数近い2,500万人が感染し、推定38万人が亡くなっている。1918(大正7)年秋から翌年3月 にかけての第一波、1919(大正8)年12月から翌年3月にかけての第二波、そして1920(大正9)年12月から翌年3月にかけての第三波である。

先人たちはどのように災禍と向き合い、対処してきたのだろうか。未曽有の出来事であった割に、世界史的にも取り上げられることはあまりない。地域での伝承や資料もほとんど聞かないが、安房南高校の資料から、安房高等女学校における感染者や対策の様子をみることができる。

これらの記録から先人の姿を学び、私たちも今の危機的状況を乗り越え、未来に教訓を残していきたいと願っている。

安房南高校の『創立60周年記念誌』や『75年のあゆみ』に掲載された年表には、《大正7年11月20日流行感冒で欠席者多し。20日より27日まで臨時休校とする》《大正9年1月19日流行感冒予防のためマスクを使用》《1月23日流行感冒予防ワクチンの接種を行う》などと記されている。この貴重な記述は、大正期の校友会雑誌や日誌などの資料からまとめられていると。

1919(大正8)年12月発行の校友会雑誌『10周年記念号』のなかに、「流行性感冒の猖獗(しょうけつ)」という記事が掲載され、第一波での安房高女の罹患概要が報告されている。猖獗とは「悪い物事がはびこり、勢いを増すこと、猛威をふるうこと」の意であり、当時「スペイン・インフルエンザ」に関わる新聞見出しの定番であった。

《大正七年の秋に入るや我國各地方に悪性の感冒流行し死者頗多し。此病たるや當に我國のみならず歐洲を始め各國に流行するが故に世界感冒(せかいかぜ)の名さへ負はせて之を恐るゝこと一方ならず。本縣にては先づ東京に近き方面より入り來り次第に各地に蔓延し猖獗を極めたり。我房州はその侵入比較的遅く十月末頃より患者の續出を見るに至りしが本校にては十一月上旬まで格別にそれらしき患者もあらざりしに、十一日の運動會過ぎて後、生徒の缺席著しく?加し其缺席者は流行性感冒に罹りしもの多數を占めたり。是に於て極力豫防を圖り衛生上の注意怠らざりしか其傳染力は非常に迅速にして十一月十三日には缺席生徒十名なりしが十八日には五十六名となり、翌十九日には生徒六十四名職員二名の缺席を見るに至り、かくては全校生徒職員に及ぼさんと無きにあらず又社會衛生上より見るも適宜の豫防策を講ずべきの必要に迫りしかば十一月二十日午後より斷然臨時休校する事に決したり》

一週間の休校中に職員が校内を消毒し、再開後しばらく欠席者が多く続いたものの、1月ぐらいで平常に戻ったという。その間、精勤者が著しく少なくなったうえに、満足な授業もできなかったので、年度の成績に多大な影響があったと述べられている。ただ、生徒には1名の死亡もなく不幸中の幸いであったと報告では締めくくられている。

当時の新聞は、10月下旬になって世界各地の大流行の状況を記事にし、「世界的感冒」を伝えるとともに本格的に東京や地方の流行、学校や軍隊での罹患の広がりを報道していった。そのなかで行政当局も動き出し、安房高女資料には 《北条警察署から流行性感冒に罹りたる生徒幾人ありやと電話にて尋ね越したり》《郡役所ヨリ流行性感冒ニツキテノ注意要項通牒シ越シタルニツキ生徒一般へ告知セリ》 という記載をみることができる。

未知の感染症であるインフルエンザには確固たる予防法や治療法がなかった。瞬く間に「スペイン・インフルエンザ」は全国に広がり、第一波では11月に死亡者数のピークを迎えたが、年末には小康状態となり、千葉県では罹患者が約18万人、死亡者は640余名となった。

1919(大正8)年12月から翌年3月にかけて第二波がはじまり、安房高女の新年最初の職員会では「流行性感冒豫防注意」を協議して、翌日には生徒向けに校医の講話「流行性感冒豫防ノ注意」を開催した。1月16日には 《流行性感冒豫防ノ為メ生徒ニ成ルベク『マスク』ヲ使用スル様》 にという呼びかけから、すぐに《生徒ハ口覆器ヲ必ズ使用スルコトヲ命ズ》 という強い伝達となっていった。この時期、欠席が20余名(うち感冒10名前後)と増え、1月23日には校医が生徒や職員、その家族に第1回目の《豫防ワクチンノ注射》、5日後には第2回目の注射が実施された。第3回目は《家庭ノ意見モ聞カシメテ志望者ノミ》としている。

日誌で注目されるのが 《教場内ニテハ特別ノ授業ノ外必ズ呼吸保護ヲ使用セシムル如ク注意スルコト》 とあり、冬場であっても教室の換気を促していることである。また、学校行事などについては、《新聞記者ヨリ学藝会及父兄会ノコトニツキ問合セ来リタレバ流行性感冒ノ為ニ公開セズ單ニ学校内ニテ開ク旨ヲ行フ》 とし、大勢の人が集まる機会を制限している。

罹患が下火になったのか、2月16日になると 《ますくヲ学校内ニテ強制的ニ使用スルコトヲ止ムル旨ヲ生徒ニ通告ス 但シ汽車通学生ハ車内ニテハ必ズ使用セシム》 とマスク使用を緩和したが、3月に入ると 《生徒中ニ流行感冒ニ罹レルモノ増加シ本日ノ欠席三十三名ニ達セリ》 とあり、再び増加したなかで、学校長は午前授業を短縮するたけでなく午後は休業とし、急遽 《マスクヲ用ヒ含漱ヲ勵行スルコト》を指示したのである。含漱とは「うがい」である。その後に生徒の欠席が少なくなったようで、日誌には「流行性感冒」に関わる事項がない。罹患が急速に下火となり、安房高女の第二波は収束し年度が終了したと思われる。

1920(大正9)年1月、東京では「スペイン・インフルエンザ」の第二波が猛威を振るい、死者数が激増して「地獄の3週間」と呼ばれた。新聞紙上には予防や治療の記事があふれたものの、基本的な対策は「マスク」「うがい」「手洗い」「人ごみを避ける」以外にはなかった。

安房高女でも、急性期には休校しながら、感染拡大を防ぐため、「密閉・密集・密接」を避けるよう伝達指導したのであろう。こうして、2年半におよぶ嵐のようなパンデミックは過ぎ去った。

20年10月1日 1,406

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