安房の米騒動(『米騒動』民衆社2004年)
1918(大正7)年8月、新聞の見出しには「米価騰貴の影響 外米又は麦を使用す」と書かれ、千葉県内においても「米価は日一日と?騰するばかりだ、・・・・町民の生活状態も漸次困窮を告げ外米或は麦等を使用するもの激増」(11日付東京日日)と、庶民の暮らしが極めて苦しくなってきたと報道されています。
このような状況のなかで千葉県知事は談話をだし「百四十万の県民が二タ月間消費しても尚他に供給する丈けの余裕がある」と豪語し、また余裕ある米を「県外に輸出し又県内の在米不足地方に送荷して米を一般に潤沢ならしむべきかに就て、十三日各部主席郡書記を県庁に召集し・・・・各郡の統一を図ったがその内容は語ることが出来ない」と語っているのです。さらに続けて「況んや本年は目下の処豊作である、・・・・県下に未だ米の暴動が起こらぬのは幸いである、・・・・米の生産力が極めて少ない安房郡は定めし在米僅少であらうと思つたが案外大いのに驚いた、それは郡民が生産米の不足を自覚して金で蓄めず現物を以て備荒貯蓄をしたう為めである」とまで述べ、今年は豊作だから心配いらないとの極めて楽観した見通しを語りながら、肝心な米価暴騰の対策では、各郡の具体的な施策の「内容は語ることが出来ない」との態度でした。
翌日の報道によると、警察部高等課は最近の県内情勢を「漁村の生活は平時に於て常に困難にして敢て怪しむに足らず、職工は就職口多く却つて労力不足の為め・・・・暴動の如き不穏の形勢なし、・・・・安房郡民は多少の雑穀を有せるが尚藁細工、ビール包、木材運搬白土採取等をなし敢て困難ならず、内湾漁民は近来不漁にて甚だ困難に陥り、窮余外米に南瓜を混ぜて食せり、・・・・」と報告しています。日常的に厳しい生活状況であった漁民のなかでも安房郡では「近来不漁にて甚だ困難に陥り、窮余外米に南瓜を混ぜて食せり」と指摘しているところをみると、南房総沿岸の漁村で不漁が続く場合には暴動がおこる可能性が高いと示唆したと思われます。ですから知事談話で「県下に未だ米の暴動が起こらぬのは幸いである、・・・・米の生産力が極めて少ない安房郡は定めし在米僅少であらうと思つたが案外大いのに驚いた」と安房郡の不穏な状況を把握しながら、漁民たちの動きを牽制していたともいえます。
同じく15日付の東京日日新聞によると、県当局は県内の在米調査をした結果から「在庫米所有者に対し自家の消費米を除ける残米を市場に提供する事に決し、各町村吏員をして貯蔵米所有者に諭示せしむる・・・・同時に、県が斡旋の下に外米を円満に供給する」とし、各郡に「在庫米提供諭告」という訓示をだすとともに、外米の供給を米価暴騰を押さえる具体策のひとつにしていきました。県当局の指導のもと、各郡の資産家が在庫米放出や寄付金の協力に努め、廉価な米が供給され「窮民救済」を図ったといいます。安房郡においては「鴨川町漁業組合にては十五日夜役員会議の結果十六日帰着せる外米三百袋を約八百の細民に一升十五銭にて廉売することとなり」という外米供給の対策が取られたことが18日付で報道されています。
にも関わらず、安房郡の漁民たちは騒動をおこしました。まず勝山町(現鋸南町勝山)の勝山警部補派出所の記録によると「八月十八日午後八時半頃、勝山町内宿の漁師の女房連約五十名、突如として同所米穀商某方を訪れ、米穀を東京方面に移出せざらんことを要求せり。此の集合に接するや、勝山町派出所の警部補は馳せて現場に至り、彼等を鎮めて家に帰らしむると同時に・・・・人心安定策として、郡衙に交渉し、外国米十袋を同区民に送り分配せしめ、且同町白米商をして、白米廉売を実行せしめたるを以て、間もなく人心鎮定して事なきを得たり」と記載されています。
そして、20日付東京日日新聞では湊村内浦(現天津小湊町内浦)の騒動を伝えています。「安房の米 暴動鎮る 前掛で覆面した 女房連を検挙す」という見出しとともに「既記安房郡湊村内浦に於ける米暴動事件に就き所轄鴨川分署より警官数名出張数名の暴徒を取押へたるが、群衆中には漁夫の嚊連が前掛けにて面部を包み暴れ廻りたる者多く尚検挙を続けつつあるが、善後策の為急遽村民大会を開き、同日より内地米一升三十銭にて廉売する事となりたる結果、人心稍緩和されたる模様なり」と、漁民の女房たちも「暴徒」となったことが報じられました。これを見る限り、行政当局は急遽村民大会を開き不満を抑えて暴動の拡大を回避したようですが、鴨川では外米とはいえ「一升十五銭」で供給しているのに、内地米が「一升三十銭」で納得させたところをみると、湊村内浦ではかなり法外な米価で販売していたと考えられます。