地域研究「近世安房にみる朝鮮」-「朝鮮通信使」と万石騒動
【朝鮮通信使関係】
1607年 第1回慶長度 朝鮮通信使(修好・回答兼刷還)
1617年 第2回元和度 朝鮮通信使(大坂平定・回答兼刷還)
1624年 第3回寛永元年度 朝鮮通信使(家光襲職・回答兼刷還)
1636年 第4回寛永13年度 朝鮮通信使(泰平之賀)
日光山遊覧
「雄誉上人伝記」4巻
「寛永十三年丙子朝鮮人来朝し、日光山拝参の序房総の旧跡見物の砌上々 官上官の輩満で、当院に入額筆を嘆美し、上人の行跡を聞き謹んで影像に 拝せり南無」
1643年 第5回寛永二十年度 朝鮮通信使(家綱誕生)
1655年 第6回明暦度 朝鮮通信使(家綱襲職)
1668年6月 酒井忠国(幕府大番頭・奏者番兼寺社奉行) 勝山に陣屋
1682年 第7回天和度 朝鮮通信使(綱吉襲職)
酒井忠国、洪世泰と筆談(記録「筆語」)
1711年 第8回正徳度 朝鮮通信使(家宣襲職)
1719年 第9回享保度 朝鮮通信使(吉宗襲職)
1748年 第10回寛延度 朝鮮通信使(家重襲職)
1764年 第11回明和度 朝鮮通信使(家治襲職)
1811年 第12回文化度 朝鮮通信使(家斉襲職)
【万石騒動関係】
1705年4月 老中土屋相模守正直「朝鮮御用」準備指令
1707年 川井藤左衛門が商人として江戸へ(屋代家に)
富士山が噴火し宝永山ができる
1708年 大坂城番 川井、仕官なり大坂に同行する
川井藤左衛門が御用人上席家老相談役となる
(知行百五十石)
1709年 北条陣屋に御勝手御用として来る
北条鶴ヶ谷の森林(神木)を伐採する
一般酒税免れる
北条海岸の川防の堤を築く
3月 酒運上や箔運上を廃止する
5月 徳川家宣(文昭院)、6代将軍となる
11月 寺社奉行・大目付け・御勘定頭を「御用掛かり」
1710年 安房領内の田植え期に酒など振る舞う催し
滝川の堰を修復する
館山平野の新田開発をはじめる
川防の堤のため北下台より砂利を無断運搬(訴訟に なる)
1711年 屋代忠位辞職、屋代家が江戸に下屋敷
(千駄ヶ谷 幕府鉄砲組烟硝倉の近く)
2月29日 在府諸侯江戸城に召集し、朝鮮通信使の来聘接待に 関する指示がでる
在国諸侯老中奉書
7月 5日 新井白石、越後国村上領百姓の出訴事件につき建議
8月10日 阿波国美馬郡山村の一揆
8月15日 幕府、諸大名に民衆が困窮しないよう戒告する
8月25日 新井白石が朝鮮使迎接役に拝命
9月 4日 川井藤左衛門が安房領内を新法で「検見」する
9月16日 朝鮮通信使が大坂に到着。26日出発
10月 7日 川井藤左衛門、27ヶ村に前年の倍の年貢を申し渡す
10月 8日 川井、江戸屋敷に帰る
10月9-18日 惣百姓北条陣屋に年貢軽減を嘆願する
10月11日 新井白石従五位下筑後守に叙任
10月12日 村上領百姓出訴事件評定
10月17日 朝鮮通信使が川崎に入る。新井白石が出迎える
10月18日 朝鮮通信使が浅草東本願寺に入る(浅草寺も使用)
10月20日 新井白石の接待
10月22日 腰越村の仁左衛門と加茂村の久右衛門が江戸屋敷に 出頭するよう命令をうける
10月24日 両人江戸に到着し、川井藤左衛門より呼び出され強 迫される(首謀者として元代官の行貝弥五兵衛の名 をだす)
10月26日 新井白石の接待
10月27日 林大学頭が来訪
10月28日 屋代領内四百石以上の名主7名が江戸屋敷への出頭命令をうける
11月 1日 朝鮮通信使 国書を家宣に捧呈
11月 2日 名主だけでは心もとないと、安房27ヶ村の惣百姓たちも一緒に江戸に出向き到着する
11月 3日 朝鮮通信使への「賜饗の式」
11月 4日 徳川家宣に曲馬の披露
11月 5日 新井白石と趙泰億の「江関筆談」(一回目)
11月 6日 新井白石と趙泰億の「江関筆談」(二回目)
11月 6日 川井藤左衛門と三井孫助が墨付を与える
(「朝鮮人来着の砌と申、其上、腰押候ものも・・・」と ある。全体的に威圧的な内容であったので百姓が不 信をもつ)
11月 7日 安房の惣百姓たちは朝鮮通信使が来ている江戸の屋代 屋敷前で門訴するという大騒動にでる
(「朝鮮人来着の砌と申、腰おし候ものも相知候故、 ・・・・」との内容で切り返す。屋代家の騒動は通信使でお祭り騒ぎの江戸中において評判になったと思われる)
川井と三井は年貢軽減を約束した捺印のある墨付を 発行し、騒ぎを押さえ、早々に惣百姓たちが安房に引き上げていくことをねらう
11月 8日 墨付を手にし約束通り惣百姓たちは江戸を引き上げる
11月10日 安房に到着する
11月11日 墨付の預かり証書を山本村へ
(1日ごとに村を移して保管)
川井藤左衛門、墨付を取り戻すため北条陣屋へ
朝鮮通信使への「辞見の式」
11月12-17日「国書請改始末」(国王名の犯諱)
11月13日 名主27名を陣屋に出頭させる(6名投獄)
墨付を稲村弥市郎宅に保管
弥市郎の妻端江を陣屋に出頭させる
衆議し、江戸での駕篭訴を決意する
11月14日 「神文」をつくり血判す(車連判状)
11月15日 血判者たちが江戸に出発
11月17日 江戸に到着
11月18日 「復書の式」
11月18-20日老中秋元但馬守に駕篭訴却下される
11月19日 朝鮮通信使が江戸を出発
新井白石辞職を申請、許されず
11月21日 屋代家の縁者室岡甚四郎宅にいくが、叱責される
11月22日 老中阿部豊後守に却下される
川井、北条陣屋に来て、6名の名主の刑を決定する
領内13か寺の僧侶が嘆願する
11月26日 3名の名主が萱野三角芝で斬首される。
日運寺日義上人駆けつける
行貝弥五兵衛父子、北原で斬首される
11月28日 3名の斬首の報が江戸の惣百姓に伝達される
惣百姓たちは追訴訟を決定する
阿部豊後守は追訴訟を取りあげる
勘定奉行大久保大隅守や平岩若狭守が審議する
12月11日 江戸大火(評定所類焼)
12月20日 阿部豊後守、屋代家一族に対して百姓取扱いに付いて証文を出す(屋代一門の仲介妥協案を百姓拒否)
12月25日 評定下り要求通る。川井藤左衛門は投獄される
(第1回評定)
後日、惣百姓たちは帰国する
1712年1月13日 江戸馬喰町旅人宿伏見屋庄左衛門方より出頭命令が来る
1月16日 名主24名が江戸に出発する
1月18日 江戸に到着
2月 6日 第2回評定
2月10日 加賀国大聖寺藩年貢減免一揆
3月21日 第3回評定
4月25日 裁判所に出廷
6月 川防の砂利運搬の違法は屋代方が敗訴となる
7月21日 「文昭院殿御実紀」14巻に屋代家騒動の記録あり
7月22日 出廷の令来る
罪状が決定し、惣百姓たちの訴訟は勝利する
帰国する
毎月25日に「三義民」の供養申し合わせる
10月14日 将軍徳川家宣没
1713年4月 家継、7代将軍となる
1719年 第9回享保度 朝鮮通信使(吉宗襲職)
1748年 第10回寛延度 朝鮮通信使(家重襲職)
1764年 第11回明和度 朝鮮通信使(家治襲職)
1811年 第12回文化度 朝鮮通信使(家斉襲職)
【万石騒動と「三義民」】
1711年10月9-18日
陣屋への門訴の内容は、本年の年貢割当を撤回し、年貢高も過去十年間のいずれかの年の率にもどしてほしいという要求であった。すでに江戸に帰っている川井の意を受けた郡代と代官は、当然拒絶したばかりではなく農民たちをおどかした。二名の有力名主を江戸屋敷によびだした川井は、事件収拾の手がかりとして首謀者をさぐった。後日さらに七名の名主をよびだし、強圧な態度にでた。
六百余名の農民たちは「名主ばかりにまかしておいては不安だ」と江戸へのぼって、直接江戸屋敷の門前で「蓑笠」姿で訴状をかざすことになる。
安房から新井白石や「朝鮮通信使」のいる江戸へ
1711年
10・17 正徳度「朝鮮通信使」が川崎に入り、新井白石は朝鮮使迎接役として出迎えた。
10・18 通信使は宿泊所の浅草東本願寺に入った。
2月、幕府は在府諸侯を江戸城に召集し、通信使来聘接待に関しての指示を出している。当然古参の譜代越中守忠位にも何らかの「御用掛かり」を命じていたかもしれない。
11・1 徳川家宣に朝鮮国王よりの国書が奉呈される。
11・2 安房の農民たちが意を決して江戸に到着した日であった。五百余名の朝鮮通信使を迎えて、江戸は物々しい警備であったが、いつもながら異国の人々を一目見ようと、江戸はお祭さわぎであった。
11・6 二名の名主を通して農民たちには、川井、三井両家老名の墨付がも たらされた。だがこれは「・・朝鮮人来着の砌と申、其上、腰押候ものも相知申候故・・」という内容を含む一方的なもので、農民た ちは不信をもった。
11・7 「乍恐書付を以御訴訟申上候云々」の訴状での門訴が、「・・朝鮮人来着の砌と申、・・」と悲壮な叫び声をもって訴えたことは、賑わう江戸の噂になった。朝鮮通信使という賓客がいる時、これが公儀に知れることは、屋代家にとってまずいことであった。川井らは、いったん農民たちの要求をのんだふりをして、年貢減免の高免状引換えのための墨付を与え、国元に帰すことにした。
11・8 農民たちは船で江戸を引き上げた。
「正徳の治」といわれる新井白石の改革は、各種の評定のあり方や公平ある民政のために「仁政」の理念をもとめたものであった。だから彼は民衆・農民や被疑者の立場を正当に理解することにより、公平な判決の実現に努力していたといわれる。たとえば、この年七月に越後国村上領百姓出訴事件を建議し、十月百姓側の勝訴を裁定した。白石はこの事件を通して、法規をただ形式的に適用している奉行や役人たちの硬直した裁定に問題をみいだいていた。そのためにも財政難のもとで、不正で腐敗した役人たちの横行を押さえ、幕政に対する民衆・農民の信頼回復が早急に求められていたのであった。そのなかで朝鮮通信使応接という国家的行事は、幕府の権威を維持するためも必要であった。
1711年
11・17 農民たちは再び江戸にのぼり、必死に幕府老中や屋代家親類に川井の非を訴えたが、とりあげられなかった。
11・19 朝鮮通信使が江戸を出発している。
11・26 北条陣屋では川井が、獄中の六名にたいして三名の斬首、残りを追放の刑にし、農民たちを屈服させようとした。江戸で処刑の報を聞き、川井への復讐を決行しょうと主張する者もいた。「神文」の精神を生かすため、もう一度追訴訟することを誓った。
11・28 農民たちの必死の駕篭訴は、幕府を動かし、老中阿部豊後守は訴状を取りあげた。屋代家の一族は、あわてて訴訟の取り下げの仲裁を申し入れてきた。
12・25 幕府評定所での裁きは、ほぼ農民たちの訴えを認め、年貢は例年どうりになった。
1712年
7・22 屋代越中守忠位は領地没収のうえ、とりつぶし同然となり、川井藤左衛門とその子の定八は死罪に、そして郡代と代官は追放と決定した。だが、農民側も入牢した六名の名主のうち、処刑されなかった三名に対して追放が命ぜられた。
【「大巌院」雄誉上人と朝鮮通信使】
雄誉(霊巌松風)上人と大巌院
「雄誉上人略伝」「浄土宗高僧伝」
雄誉上人 著書「精義集」「傳法指南」
1554年4月8日 駿河国沼津出生
(今川家一族・沼津土佐守氏勝三男友松)
1564年2月15日 沼津浄運寺増誉長円上人について出家する(肇叡)
1568年 下総国生実の竜沢山玄忠院「大巌寺」道誉貞把上人に学び、霊巌と改める(15歳)
1574年 道誉死去。2世安誉虎角上人、徳川家康の帰依をうける
(寺領100石)
1587年(34歳)雄誉「大巌寺」三世住職
1590年 雄誉、増上寺報謝法門席後、生実住職やめ、大和(奈良)に上る (近江国福寿寺、円通寺再興・)
里見義康、北条征伐(小田原攻め)に遅参したため、家康が秀吉に謝罪。義康、家康の配下になる(家康の関東転封)
家康、称名院を「増上寺」(浄土宗)と改め、菩提所にする
1591年 永亀山肇叡院霊巌寺(弟子念誉廓無)3年在住
1592年 山城国宇治専修院称故寺創建・滝鼻村に西光寺創建
朝鮮侵略(文禄の役) 義康、家康に従い九州名護屋に出陣
家康、伏見で雄誉と会見(関東に下ることを命ずる)
1593年2月 雄誉、奈良から関東に下る
(浄土宗内で論争問題はじまる=煩悩の滅罪と不滅罪)
1594年 家康、再び「大巌寺」住職を命ずる
8月 上総国松平紀伊守家信援助で堂宇建設(1599年完成)
1595年 東京雄松院(霊巌寺塔頭別院・開山堂)雄誉(42歳)肖像画
1597年 朝鮮侵略(慶長の役)
1598年 家康、芝に増上寺移築(菩提寺)
1598年8月 秀吉没す
1600年 関ヶ原の戦い
1603年 増上寺存応上人滅罪論とる。雄誉上人不滅罪論主張するが、存応の政治力に負ける。大巌寺追放?論争問題で安房国大網にたく居
2月12日 家康征夷大将軍
雄誉上人、「金台寺」を旅宿(里見義康の伯父豪誉九把住持)
9月 もと禅宗寺院を浄土宗に改め「大巌院」(雄誉50歳)
仏法山大網寺大巌院建立(山下郡館野大網村)
9代里見義康「大網」を寺領として寄進
浄土知恩院末 本尊・・・阿弥陀仏
(額「大巌院」を納め、鎌倉より仏工をよび等身の寿像作製)
10月 家康、京都知恩院を菩提寺にする(703石寄進)
堂宇の拡張造営始まる(1619年完成)
1605年 3月 5日 朝鮮使者を伏見城に引見
4月16日 秀忠第2代将軍就任
1606年 秀忠の前で元服 秀「忠」より「忠」義
1607年
五井守永寺創建=松平紀伊守家信亡母里安禅定尼のために一宇 (1615年佐貫善昌寺・湊湊済寺・小糸三経寺・姉が崎最頂寺・下湯江法巌寺・生実大覚寺の創建)
5月 6日 第1回 慶長度通信使
11月16日 里見義康(1573年)生死去 10歳千寿丸
1608年11月15日 江戸城で浄土宗廓山(正誉)と日連宗日経と宗論
1609年 10代里見忠義の帰依(円頓の妙戒授与) 永世42石朱印
(大網村19石 真倉村13石 高井村10石)
上総国佐貫城内藤政長、善昌寺住職に懇請(所化寮造営)
1613年 6月16日 「紫衣」勅許制定で、浄土宗が独立宗に
1614年9月 忠義改易(1622年29歳倉吉で死去)
1615年8月 祖跡参拝(61歳) 佐貫善昌寺を出発・浦賀に渡る
鎌倉光明寺(良忠上人の墓・浄土三世良忠は上総国で布教)
沼津浄運寺・伊勢山田天機院・赤桶心光寺・深野来迎寺創建
山田霊巌寺逗留・大坂・美作国(岡山)誕生寺参詣・伯耆国 (鳥取)赤崎専称寺創建
1616年4月 徳川家康没す
1617年8月26日 第2回 元和度朝鮮通信使
9月 雄誉、西国行脚の途中に伯き国里見忠義を訪れる
出雲国(島根)別願院創建・松江極楽寺創建
石見国(島根)三隅庄極楽寺創建・長門国(山口)下関
豊前国(福岡)小倉・筑後国善導寺7日間不眠念仏
安芸国(広島)・厳島神社
1618年 京都知恩院(満誉尊照上人)7日間参篭
伊勢山田に松風山「霊巌寺」創建
1619年 上総国佐貫到着(旅の4カ年、寺門を興したこと30余寺)
1621年 上総国を根拠地にしていたが、江戸よりの招待が多くなる。
江戸・茅場町に草庵をつくり(江戸と上総との中継地)説法
堀庄兵衛、向井忠勝から沼地の埋立を許可(仮堂作る)
江戸 道本山「霊巌寺」創建(1627年霊巌島完成)
1622年 後水尾上皇への説法
1623年7月19日 江戸城中にて徳川秀忠・家光のために説法(70歳)
7月27日 家光将軍承襲
1624年(元和10年3月14日建立)南無阿弥陀仏「四面塔」
施主山村茂兵夫妻「建誉」逆修
(梵字・篆字・ハングル・漢字=四海同隣)
2月30日に改元され元和10年は「寛永元年」となる
12月19日 第3回寛永度朝鮮通信使
1629(寛永6)年 江戸霊巌寺 諸堂完成・佐貫勝隆寺から本尊
6月25日 浄土宗総本山知恩院第三十二世住持(76歳)
1633年 1月9日 知恩院大火
4月7日 雄誉江戸参府、家光より再興の命
12月 再建工事
(大梵鐘鋳造発願し門末寺院に勧進帳と募財)
1636年 9月15日 大梵鐘完成
12月13日 第4回朝鮮通信使
12月17ー21日 通信使 日光参詣 24日江戸着
大巌院に通信使立ち寄り、「大巌院『額』」ほめたという
1639年5月 知恩院御影堂の立柱
1641年1月19日 落慶供養
3月 雄誉、江戸参府
6月 家光に「自然法問」講義
9月1日 江戸 霊巌寺で没す(88歳)
1657年 江戸明暦の大火 霊巌寺焼失
1658年 霊巌寺深川に再建
1670(寛文10)年 竹岡「松翁院」に「四面塔」建立(尊誉)
【大巌院「四面石塔」の謎】
・韓国内では「ハングル」の四面石塔は発見されていない。
・李氏朝鮮後期に「浮屠塔」として僧侶の墓地に建てられたことがある
・「四面石塔」施主 「山村茂兵」とは誰か
「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修大巌院檀蓮社雄誉干時元和十年三月十四日房州山下大網」
1592-96年朝鮮侵略(文禄の役)里見義康、家康に従い九州名護屋に出陣
1597-98年朝鮮侵略(慶長の役) 京都に
秀吉、毛利輝元に命じて朝鮮の有名陶工を招来することを指示
毛利、李勺光(李敬の兄?)を連れて大坂で秀吉に拝謁
李、毛利預け(朝鮮より弟李敬夫婦?と一族郎党を呼び寄せる)
1598年8月18日 秀吉の死
1600年 関ヶ原の戦い
1604年 毛利、萩に入府 李に城下松本中之倉で窯を設けさせる(松本窯)
領内に点在していた古い窯を復興(深川窯など)
李、職名を御細工人として藩 (氏を「山村」、名を作之允)
初代 山村作之允
2代 山村新兵衛(松庵)「焼物所総都合〆」の職 1641年死
高弟 山崎平左衛門(山村家支配)・蔵崎五郎左衛門
(深川三之瀬窯)
3代 山村平四郎光俊
4代 山村弥兵衛光信
5代 山村源次郎光長 毛利宗広
1774年 山村家断絶
秀吉「朝鮮侵略」と朝鮮人
朝鮮人文化人 (朝鮮本・活版印刷術の伝来=日本朱子学の形成)
儒学者 李真栄・李梅渓(紀州)
1593年 文禄の役
李真栄、浅野長政の軍兵によって拉致され名護屋(23歳)
1604年 朝鮮より「探賊使」僧惟政(松雲大師)・ソンムンイク
(1390名の捕虜刷還する)
1606年 真栄、刷還を希望するが受け入れられず
1607年 第1回朝鮮通信使(1418名の捕虜を刷還する)
真栄、大坂へ連行され物乞いをするも、重病になる
和歌山海善寺岸松庵の「西誉」(朝鮮人僧)に助けられる
仏門になじまず、再び大坂へでて、易者になる
1614年 大坂冬の陣で大坂を離れ、再び西誉をたより、和歌山へ
和歌山久保町で寺子屋
宮崎定直の娘と結婚、全直(梅渓)・立卓の2子誕生
真栄、号を一陽斎とする
1617年 李梅渓誕生
1619年 家康の10男「頼宣」、3男二代秀忠より紀州藩55万石
1602ー71年
1626年 紀州藩徳川頼宣の侍講(真栄56歳)
1633年 真栄63歳死去(海善寺に墓)梅渓17歳
1655年 第6回明暦度朝鮮通信使
頼宣に随伴して梅渓、江戸へ。「扶桑録」南龍翼
聞見別録人物条に李梅渓
儒学者 噂 希得
「看羊録」1597年(拉致され抑留された報告書)
近世日本儒学の開祖 藤原 と親交
洪浩然(佐賀)
陶工 李参平(有田焼)
坂 高麗左衛門(萩焼) 初代 李 敬 毛利輝元「坂窯の由来記」
朝鮮人帰化僧 誕生寺 「日延」(のち不受不施派として対馬に遠流)
西雲院開基 「宗厳」(京都黒谷山内)
本妙寺 「日遥」上人(熊本)
丸山町 日蓮宗「日運寺」 万石騒動ー日教上人
【大巌院「四面塔」と「ハングル刻字」】
「ハングル」の歴史
李氏朝鮮
1392年 李成桂(1335-1408)建国
1404年 日本と正式な国交(交隣)
1418年 第4代国王「世宗」即位(1397-1450)
国字創制の理由
学ぶ機会のない民衆・農民が自分たちの意志を十分にあらわせ ないという不便さを解決することにあった
「無実の罪をきせられても、文字を知らない民百姓は、それに 抗弁し、釈明する手段がなくてかわいそうだ」
1438ー39年 創字の作業開始(中国の音韻学を参考にアルタイ語系 に属する韓国語の音韻表記の研究)
新羅より「吏読(イド)」ー漢字の音や訓で朝鮮語を表記
1442年12月 基本的骨組み、「字形」ほぼ完成か?
1443年12月 正式に国家事業として開始(正音庁の発足)
(ただし衆論の反対をさけるためか公表せず)
「衆論」=側近の漢学者の根強い反対
(中国を宗主国とする事大主義)
1446年9月29日「訓民正音(28字)」と命名「世宗」により公布
冒頭文「国之語音は中国(語)とは異なるので、その文字(漢文)
(世宗) が相通じず、愚民(民百姓)は、いいたいことがあっても
それを表せない者たちが多い。それを余は不憫に思い、 28字を新制し、ひとびとが習いやすく、日常に用いられるように便利にした」
あとがき 創字の理由ー自然の条理
(噂 麟祉)「わが東方(朝鮮朝)は礼楽と文章などは中国と並ぶが、 方言や里語が中国とは異なる。そのために、学(漢文) を修める者たちは意を表すことの難しさを心配し、獄事をつかさどる者たちは曲折に通じることの難しさをなや んでいる」(中国を宗主国とする事大思想の姿)
1450年 世宗没す。文宗即位(1452年没)事大思想勢力の拡大
端宗即位 文宗弟の首陽大君王位纂奪
1455年 世祖(1417-68)即位 ハングル創制の参加学者政変に
巻き込まれる(新旧の勢力争い)
1504年 10代国王「燕山君」によるハングル関係書籍の焼却事件
民衆による反国王のハングル落書き・投書行動
7月 学問の府「成均館」を遊技城に替える。
(ハングルの教授と学習禁止する)
12月 吏読の使用禁止
1506年 燕山君の廃位運動とクーデタ 中宗即位
9月 世宗の開いた諺文庁廃止(宮廷でのハングル支援失う民族派 の後退=事大派の復活)
ハングル表舞台から消える(宮廷・両班の婦女子に静かに浸 透=ハングル文学のはじまり)
17ー 金萬重(1637-92)ハングル小説の先駆者
18世紀 ハングル文学 宮廷文学から常民文学へ
パンソリ(口踊芸能)話言葉による文体表現としてのハングル
「訓民正音(フンミンジウオンウム)」とは・・民をみちびく正しい言葉
10余種の別称
「諺文(ウオンムン)」 蔑視感情・俗字
「諺書(ウオンソウオ)」 (正字・真書は公文書の漢字・漢文)
「正音(ジウオンウム)」
「反切(パンジウオル)」
「アムクル」 「アム」は雌の意=女文字(口達者と蔑まれる)
「アヘツクル」 「アヘツ」は子供の意(やさしいこと)
「カギヤクル」
「国書(クツクソウオ)」
「国文(クツクムン)」 1894年 甲午改革
「ハングル」 1913年
ハングルの字形=創字時の原形をはみだしていない
28字から24字へ(その4字は表音に影響ない)
【万石騒動年表(朝鮮通信史年表・新井白石年表)】
「日録」三義民33回忌(1743年)
1638年2月8日 忠正 御先鉄砲の頭 安房国安房朝夷1万石(北条陣屋)
与力10騎・同心50人
1651年6月 百人組頭
1660年12月 従五位下越中守
1661年 菊の間広間づめ
1662年4月 死去(69歳)
1663年1月 忠興 死去(45歳)
12月 忠位 従五位下越中守
1681年 太神宮村の一揆(旗本河野三左衛門知行地)
1682年 百姓15名江戸河野家に陳情。老中に越訴6名処刑
1692年2月 百人組頭
1693年8月 大番頭
1703年11月23日 元禄大地震(津波)
1705年4月 (朝)老中土屋相模守正直「朝鮮御用」準備指令
1706年 大坂城番 川井の仕官不許可
1707年 江戸帰 川井、商人として江戸へ(屋代に出入り)
富士山噴火、宝永山できる
1708年 大坂城番 川井、仕官なり大坂に同行
川井、御用人上席家老相談役(知行150石)
1709年 北条陣屋に御勝手御用として来る
北条鶴が谷の森林を伐採
一般酒税免れる
北条海岸の川防の堤を築く
3月 (新)酒運上・箔運上廃止
5月 (新)徳川家宣(文昭院)、6代将軍となる
11月 (朝)寺社奉行・大目付け・御勘定頭を「御用掛かり」
1710年 安房領内の田植え期に酒など振る舞う催し
滝川の堰修復
新田開発はじめる
川防の堤のため北下台より砂利を無断運搬(訴訟に なる)
1711年 忠位辞職 、屋代家下屋敷
(千駄ヶ谷 幕府鉄砲組烟硝倉の近く)
2月29日(朝)在府諸侯江戸城召集 来聘接待に関する指示
在国諸侯老中奉書
7月 5日(新)越後国村上領百姓の出訴事件につき建議
8月10日 阿波国美馬郡山村の一揆
8月15日 幕府、諸大名に民衆が困窮しないよう戒告
8月25日(新)朝鮮使迎接役拝命
9月 4日 川井、安房領内を新法で「検見」
9月16日(朝)通信使大坂到着26日出発
10月 7日 川井、27か村に前年の倍の年貢を申し渡す
10月 8日 川井、江戸屋敷に帰る
10月9ー18日 総百姓北条陣屋に嘆願
10月11日(新)白石従五位下筑後守に叙任
10月12日(新)村上領百姓出訴事件評定
10月17日(朝)通信使 川崎に入る、新井白石が出迎える
10月18日(朝)通信使 浅草東本願寺に入る(浅草寺も使用)
10月20日(朝)白石接待
10月22日 仁左衛門、久右衛門江戸屋敷に出頭命令
10月24日 両人江戸到着、川井より呼び出され強迫
(首謀者として元代官行貝弥五兵衛の名をだす)
10月26日(朝)白石接待
10月27日(朝)林大学頭来訪
10月28日 安房領内400石以上の名主7名江戸屋敷出頭命令
11月 1日(朝)通信使 国書を家宣に捧呈
11月 2日 総百姓江戸に到着
11月 3日(朝)「賜饗の式」
11月 4日(朝)家宣に曲馬の披露
11月 5日(朝)白石と趙泰億の「江関筆談」(1)
11月 6日(朝)白石と趙泰億の「江関筆談」(2)
11月 6日 川井・三井の墨付を与える(高姿勢で百姓の不信)
(「朝鮮人来着の砌と申、其上、腰押候ものも・・」)
11月 7日 総百姓屋代家で門訴
(「朝鮮人来着の砌と申・・」)
川井・三井捺印の墨付発行
11月 8日 総百姓江戸を引き上げる
11月10日 安房到着
11月11日 墨付の預かり証書山本村へ(1日ごとに村を移して 保管)
川井、墨付を取り戻すため北条陣屋へ
(朝)「辞見の式」
11月12ー17日(朝)「国書請改始末」(国王名の犯諱)
11月13日 名主27名を陣屋に出頭させる(6名投獄)
墨付を稲村弥市郎宅に保管
弥市郎の妻端江を陣屋に出頭させる
衆議し、江戸での駕篭訴を決意
11月14日 「神文」をつくり血判す(車連判状)
11月15日 血判者江戸に出発
11月17日 江戸到着
11月18日(朝)「復書の式」
11月18ー20日老中秋元但馬守に駕篭訴却下される
11月19日(朝)通信使江戸出発 白石辞職を申請、許されず
11月21日 屋代家の縁者室岡甚四郎宅にいくが、叱責される
11月22日 老中阿部豊後守に却下される
川井、北条陣屋に来て、6名の名主の刑を決定
領内13か寺の僧侶嘆願す
11月26日 3名の名主、萱野三角芝で斬首 日運寺日義上人
行貝弥五兵衛父子、北原で斬首 (日教?)
11月28日 3名の斬首の報を江戸の総百姓に伝達
総百姓、追訴訟を決定
阿部豊後守追訴訟取りあげる
勘定奉行大久保大隅守・平岩若狭守に審議
12月11日 江戸大火(評定所類焼)
12月20日 阿部豊後守、屋代家一族に対して百姓取扱いに付い て証文を出す(屋代一門の仲介妥協案を百姓拒否)
12月25日 評定下り要求通る。川井、投獄される
(第1回評定)
後日、総百姓帰国す
1712年1月13日 江戸馬喰町旅人宿伏見屋庄左衛門方より出頭令来る
1月16日 名主24名江戸に出発
1月18日 江戸到着
2月 6日 第2回評定
2月10日 加賀国大聖寺藩年貢減免一揆
3月21日 第3回評定
4月25日 裁判所出廷
6月 川防の砂利運搬の違法屋代方敗訴
7月21日 「文昭院殿御実紀」14巻に記録あり
7月22日 出廷の令来る
罪状決定、総百姓訴訟勝利となり帰国す
毎月25日に「三義民」の供養申し合わせる
10月14日 将軍家宣没
1713年4月 家継、7代将軍となる
【万石騒動と「三義民」】
1711年10月9-18日
陣屋への門訴の内容は、本年の年貢割当を撤回し、年貢高も過去十年間のいずれかの年の率にもどしてほしいという要求であった。すでに江戸に帰っている川井の意を受けた郡代と代官は、当然拒絶したばかりではなく農民たちをおどかした。二名の有力名主を江戸屋敷によびだした川井は、事件収拾の手がかりとして首謀者をさぐった。後日さらに七名の名主をよびだし、強圧な態度にでた。
六百余名の農民たちは「名主ばかりにまかしておいては不安だ」と江戸へのぼって、直接江戸屋敷の門前で「蓑笠」姿で訴状をかざすことになる。
安房から白石や「朝鮮通信使」のいる江戸へ
1711年
10・17 正徳度「朝鮮通信使」が川崎に入り、新井白石は朝鮮使迎接役として出迎えた。
10・18 通信使は宿泊所の浅草東本願寺に入った。
2月、幕府は在府諸侯を江戸城に召集し、通信使来聘接待に関しての指示を出している。当然古参の譜代越中守忠位にも何らかの「御用掛かり」を命じていたかもしれない。
11・1 徳川家宣に朝鮮国王よりの国書が奉呈される。
11・2 安房の農民たちが意を決して江戸に到着した日であった。五百余名の朝鮮通信使を迎えて、江戸は物々しい警備であったが、いつもな がら異国の人々を一目見ようと、江戸はお祭さわぎであった。
11・6 二名の名主を通して農民たちには、川井、三井両家老名の墨付がもたらされた。だがこれは「・・朝鮮人来着の砌と申、其上、腰押候 ものも相知申候故・・」という内容を含む一方的なもので、農民たちは不信をもった。
11・7 「乍恐書付を以御訴訟申上候云々」の訴状での門訴が、「・・朝鮮 人来着の砌と申、・・」と悲壮な叫び声をもって訴えたことは、賑わう江戸の噂になった。朝鮮通信使という賓客がいる時、これが公儀に知れることは、屋代家にとってまずいことであった。川井らは、いったん農民たちの要求をのんだふりをして、年貢減免の高免状引 換えのための墨付を与え、国元に帰すことにした。
11・8 農民たちは船で江戸を引き上げた。
「正徳の治」といわれる新井白石の改革は、各種の評定のあり方や公平ある民政のために「仁政」の理念をもとめたものであった。だから彼は民衆・農民や被疑者の立場を正当に理解することにより、公平な判決の実現に努力していたといわれる。たとえば、この年七月に越後国村上領百姓出訴事件を建議し、十月百姓側の勝訴を裁定した。白石はこの事件を通して、法規をただ形式的に適用している奉行や役人たちの硬直した裁定に問題をみいだいていた。そのためにも財政難のもとで、不正で腐敗した役人たちの横行を押さえ、幕政に対する民衆・農民の信頼回復が早急に求められていたのであった。そのなかで朝鮮通信使応接という国家的行事は、幕府の権威を維持するためも必要であった。
1711年
11・17 農民たちは再び江戸にのぼり、必死に幕府老中や屋代家親類に川井の非を訴えたが、とりあげられなかった。
11・19 朝鮮通信使が江戸を出発している。
11・26 北条陣屋では川井が、獄中の六名にたいして三名の斬首、残りを追放の刑にし、農民たちを屈服させようとした。江戸で処刑の報を聞 き、川井への復讐を決行しょうと主張する者もいた。「神文」の精 神を生かすため、もう一度追訴訟することを誓った。
11・28 農民たちの必死の駕篭訴は、幕府を動かし、老中阿部豊後守は訴状を取りあげた。屋代家の一族は、あわてて訴訟の取り下げの仲裁を申し入れてきた。
12・25 幕府評定所での裁きは、ほぼ農民たちの訴えを認め、年貢は例年どうりになった。
1712年
7・22 屋代越中守忠位は領地没収のうえ、とりつぶし同然となり、川井藤左衛門とその子の定八は死罪に、そして郡代と代官は追放と決定した。だが、農民側も入牢した六名の名主のうち、処刑されなかった三名に対して追放が命ぜられた。
【参考論文】愛沢伸雄著
・江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流