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●「ドゥーリトル初空襲」から白浜艦砲射撃へ〜情報を操作し続けた大本営●

≪『学校が兵舎になったとき』青木書店(1996年)≫


開戦以後、日本軍が急速に戦線を拡大した一九四二(昭和一七)年四月、米軍は突如、日本本土奇襲作戦にでた。ドゥーリトル中佐指揮する本土初爆撃に大混乱した大本営は、報道を統制し国民には撃墜したと虚偽の発表をすることになる。以後、大本営の報道は真実を語ることはなかった。ところで房総半島の南端白浜には、アメリカ軍B29の侵入や艦隊の侵攻をキャッチする重要なレーダー基地が設置されていた。四五年七月に入り、米軍は沖縄を制圧後、本土侵攻の事前作戦にでた。アメリカ機動部隊は一八日、白浜レーダー基地に対して艦砲射撃を加えた。日本軍当局は本土決戦を前にして、地域住民には潜水艦からの攻撃と虚偽の発表をしていた。


【ドゥーリトル東京爆撃特攻作戦】

四二(昭和一七)年四月一八日、長狭中学校の校庭や校門周辺に、たくさんの生徒や先生たちがいるなか、見たこともない色や型の飛行機がただ一機、海の方から飛んできた。そして校舎すれすれの超低空をゆっくり西へ飛んでいった。生徒のなかに「敵機だぞ!」と叫んだものもいた。南房総の鴨川に現れた一機の双発爆撃機こそ、ノース・アメリカン中型爆撃機B25であった。

この「ドゥーリトル東京初空襲」とよばれる東京爆撃特攻作戦は、アメリカによるハワイ真珠湾奇襲の報復作戦であった。この作戦は海軍の支援によって、日本の哨戒線を突破し、銚子犬吠埼から約七四〇㎞地点より、陸軍爆撃隊B25一六機を航空母艦から発進させ、東京などを爆撃後、アメリカの同盟国である中国の麗水航空基地に着陸させるという計画であった。

ドゥーリトル中佐を指揮官とする爆撃隊が乗り込んだ空母ホーネットは、四月一八日の攻撃当日の朝六時三〇分、日本の特設監視艇第二三日東丸に発見されたので、当初の作戦である夜間爆撃を昼間爆撃に変更し、計画より遠方の約一二〇〇㎞の地点から、B25の一六機搭乗員八〇名は、ドゥーリトルを一番機として一四二mの甲板を発進した。日本海軍は米機動部隊の本土来襲に対しては、監視艇を中心とする哨戒部隊と木更津を基地とする航空部隊の二本立てで早期発見する方策であった。この日六時三〇分の機動部隊発見の報により、連合艦隊は八時二〇分、米機動部隊が来襲した場合の作戦計画を発令し、態勢を整えつつあったが、空母艦載機による攻撃と予想し、通常半径約五五六㎞からみて、来襲は一九日未明と判断した。


【安房の空へドゥーリトル爆撃機侵入】

当日、木更津基地より発進した四機の索敵機のうち、第四索敵機が、九時三〇分にB25一機を発見したと報告しているが、空母には双発機搭載はないと判断され、報告は信用されなかった。日本上空は晴れていたが、米機動部隊は前線に包まれ、視界は五㎞程度であった。こうして木更津や館山航空基地などに待機していた海軍の艦載戦闘機九〇機、中攻機八〇機、艦爆三六機、飛行艇二隻での反撃はできなかった。ところで一二時すぎ、東部軍司令部に茨城水戸北方の菅谷防空監視哨より「敵大型機一機発見」との報告が入った。ドゥーリトルら一三機は、作戦通り、巡航速度二七〇㎞で、海上高度三〇mという超低空で侵入し、一二時三〇分頃より東京、横浜、横須賀を爆撃した。また三機は名古屋、神戸を空襲した。大阪も目標であったが、間違って名古屋が爆撃された。本土初空襲は被害こそ少なかったが、日本の指導部に大きなショックを与えたのであった。

侵入経路をみると、一番機ドゥーリトルや二番機は鹿島灘より茨城水戸方面に侵入し、北東部より東京へと五時間近く飛行し、一二時三〇分に攻撃している。五・六・七番機は、房総半島中央部を南下しながら横断し、鋸山付近からは北上し浦賀水道を通過後、東京湾北東部を爆撃している。八時頃離艦した一一・一二・一三番機の目標は、横浜・横須賀方面の攻撃であった。そのなかの一機が証言にある鴨川上空に超低空で侵入したのが、一一時前と思われる。

「館山湾那古上空には一一時過ぎに現れ、海軍城山陣地より高角砲が発射されたが、命中しなかった。館山湾を低空で一周して北上していった」と館山市沼在住の鶴岡五郎氏は証言する。もしこの時間が正確なら、ドゥーリトル爆撃隊が初めて日本軍より攻撃されたのは、館山上空といえる。


【本土決戦下の「白浜」艦砲射撃】

館山市史や安房高校史には、一九四五年七月一八日夜に白浜町が艦砲射撃をうけ、住民に被害があったと記録されている。この艦砲射撃については、当時の日本軍当局から住民に対して、「潜水艦からの砲撃」と発表されている。この砲撃は、野島崎灯台のある島崎地区への着弾が多かったことから、国際法上禁止されている灯台を狙ったものともいわれた。しかし灯台北方一キロの城山にレーダー基地があることは公然の秘密であった。当時、安房高女生であった黒須禮子さんは「野島崎灯台一帯の海が明るく、灯台の左側の黒い船から花火のような灯の塊がパッパ、パッパと飛んでくる。一、二秒してズズーンという地鳴りを伴った砲音」と証言している。安房地域一帯に、深夜鳴り響いた砲音の大きさから、潜水艦の砲撃とは思えないのに、軍当局はなぜ虚偽の報告をしたのか。

敗戦後の米軍報告書には、七月一八日二三時五二分から五分間にわたる白浜城山レーダー基地への艦砲射撃概要とその効果が記載されている。それによると第三艦隊司令官から派遣命令をうけた、第三八機動部隊第三五・四任務群の巡洋艦四隻と駆逐艦九隻が、一六キロ海上から夜間レーダー照準によって、六インチHC砲弾二四〇発を打ち込んだとある。だがレーダー基地には命中せず、付近の島崎村に三七発が着弾し、六名死亡一七名が負傷したという。軍当局が村民たちには、潜水艦からの砲撃と説明したとの証言が書かれている。ところで、白浜レーダー基地への艦砲射撃は、戦局のなかでどんな意味があったのであろうか。


【「沖縄戦」後の米軍本土侵攻事前作戦】

四五年六月二一日に米軍が「沖縄全島確保宣言」後、ハルゼー大将が率いる一〇五隻の米海軍太平洋艦隊第三艦隊第三八機動部隊は、七月一日に本土侵攻事前作戦にでた。その任務は日本軍に残っている艦艇や航空兵力を壊滅させるとともに、戦争継続に関わる軍事施設・基地を破壊することで、本土侵攻作戦をスムースにすることにあった。一〇日には、艦載機が関東の航空機基地を目標に空爆をおこない、米機動部隊による本格的な攻撃が開始された。そして一四日朝に、釜石の製鉄所に対して戦艦による本土初の艦砲射撃をし、一五日には室蘭の製鉄所に、一七日夜、鹿島灘から日立、水戸に艦砲射撃を実施した。

この一六日からは、連合国首脳がポツダム会談で対日作戦を話し合い、アメリカは、原爆実験の成功を背景に、戦後世界での対ソ連との対応を模索していた。対日作戦でも第三艦隊が、ソ連参戦前に日本本土の制海制空権を完全に確保する必要があった。本土侵攻作戦上、東京湾口南方一六キロ海上地点に接近し、海軍の水上水中特攻作戦を警戒しながら、白浜だけではなく、千倉・布良のレーダー基地や、高射砲などの射撃用レーダーを探索したと思われる。米軍は高性能なレーダー技術をもち、電波逆探知など高度な電波戦術で日本軍を圧倒し、本土侵攻に備えていた。

ポツダム会談期間中も、B29による無差別爆撃は熾烈を極め、早期無条件降伏のために第三艦隊の任務が遂行されていた。のちハルゼーは回想のなかで「当時、私は日本は一〇月には降伏するものと考えていた」と述べている。軍当局が住民に潜水艦からの砲撃と虚偽の説明をしたのは、米軍の本土上陸が近いことが知られると、安房の住民たちが浮き足立ち、軍の統制に従わない可能性があると見ていたかもしれない。七月に入り、安房での決戦部隊の動きが激しい。結局、大本営は情報を操作しつづけながら、「一億総特攻」を住民に強要しようとしたのであった。


≪参考文献≫

吉田一彦著「ドゥーリトル日本初空襲」三省堂1989年

米国戦略爆撃調査団「対日戦すなわち太平洋戦争に関する最終報告書」第37巻

09年3月12日 12,554

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