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里見氏城跡「稲村」と「岡本」を国史跡指定へ

文化審が文科相に答申

中世山城の変遷知る貴重な遺産

(房日新聞2011.11.19付)

国の文化審議会(西原鈴子会長)は18日、戦国時代から江戸初期にかけて房総南部を拠点とした里見氏が本拠としていた、館山市稲の「稲村城跡」と南房総市富浦町の「岡本城跡」を国史跡に指定するよう文部科学相に答申した。中世の城としては、里見氏に及ばないながらも下総地方を拠点とした千葉氏の居城であった酒々井町の本佐倉城が平成10年に指定を受けており、県内ではこれに次ぐ2例目の指定となる。特に稲村城跡については、一時、城跡域を貫く道路計画が浮上し、市民グループの保存運動で迂回するルートに変更した経緯もあり、史跡指定の報に関係者の喜びもひとしお。これを受けて両市教委は今後、城跡の歴史的背景を考慮しながら遺跡の位置づけや役割を明らかにし、遺跡環境の保護を前提とした保存管理計画を策定。さらに公有地化をはかりながら復元整備を進め、貴重な文化遺産として地域振興への活用が期待されている。

戦国時代、東京湾の制海権をめぐって西岸に対峙する後北条氏としばしば競い合った里見氏は、10代約170年にわたって南房総の地に君臨した。初代義実(よしざね)が白浜城(南房総市白浜町)に本拠を構えて以降、その時々の状況に応じて数次にわたって本城を移動させているところに特徴がある。北条氏の居城であった小田原城は、すでに昭和13年に国史跡に指定されているが、一方の房総の雄である里見氏については、代が替わるごとにその居城を変えてきた経緯もあり、重要性は認識されながらも、これまで史跡指定までには至っていなかった。

そうした中、新たに指定されることになった稲村城は、16世紀前半、3代義通(よしみち)が居城とした城で、4代義豊(よしとよ)が分家筋にあたる5代義堯(よしたか)に攻め滅ぼされた天文2〜3年(1533〜34)の「天文の内乱」の舞台となった城。館山平野中央部南辺の標高64㍍ほどの丘陵端に位置し、北を流れる滝川を自然の濠とし、「城山」と呼ばれる主郭部は、東と南の二辺に高さ約3㍍の土塁を持ち、北と西の斜面は、丘陵の側面を掻き落とし、障壁とする切岸手法を駆使し、防御としている。主郭の規模や切岸の範囲は、同時期の房総半島の城の中では抜きんでていると評価されている。文化庁が、保護が必要としている範囲は約2万8000平方㍍だが、このうち今回指定するのは地権者の同意を得られた約65%にあたる1万8000平方㍍。

岡本城は、義堯の孫にあたる8代義頼(よしより)が16世紀後半に本拠とした城。同町豊岡の東京湾を望む標高66㍍ほどの丘陵上につくられ、城跡の規模は東西600㍍、南北300㍍におよび、この地域の城の中では抜きんでた規模を持つ。中心部分は3つの曲輪からなり、山頂の主郭の北東に広がる曲輪は、港としての機能を持っていたと推定されている。平成19年の調査では、すべての調査区から城郭に係る造成の痕跡が認められ、西側の曲輪からは大規模な火災の痕跡も確認され、文書資料に見られた岡本城炎上を裏付けることができた。対象範囲は約8万9000平方㍍で、今回は同意を得た約86%の7万6400平方㍍が指定された。

2つの城は、ともに当時の地形を良好に残しており、房総半島における中世山城の変遷や、この地域の社会・政治情勢を知る上でも貴重な文化遺産であるとしている。

なかでも、稲村城跡については、背後に県が計画した工業団地への進入路として城跡内を走る新設道が市道認定され、着工は時間の問題となっていた矢先に、市民グループが「里見氏稲村城跡を保存する会」を発足。保守的な政治風土のなかで、粘り強い反対運動が結実して市議会への反対請願が採択され、城跡を回避したルートに変更され、破壊を免れたといういきさつがある。保存運動の先頭に立ち、草刈りやウオーキングなどを通じて市民らに城跡の歴史遺産としての理解を深めてきた同会の愛沢伸雄代表(60)は、「目的のひとつでもあった国史跡の指定は素直にうれしい。しかし、これは第1ステップであり、地域の人たちが史跡に誇りを持ちながら活用に向けた息の長い取り組みが必要で、これからも協力していきたい」と話していた。

11年11月19日 9,334

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