
映画「赤い鯨と白い蛇」を観て
上映委員会 橋本芳久
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民話と神話が交錯したような芸題の映画が、館山で撮影されていると知ったのは二〇〇五年であった。正直なところ、初めはその異様な題名にあまり期待をしていなかったのだが、観るたびに新しい気づきと感動がこみ上げてくる。
内房線特急ビューの車内に始まり、南欧風の館山駅西口から鏡ヶ浦、洲崎灯台など、つぎつぎと見慣れた風景がスクリーンいっぱいに広がる。館山の海、浜、山、樹々にそよぐ風、葉のささやき。散歩の道すがら、いつも目にする波左間の六地蔵。すべてが身近で、親しみ深い場面の連続。
そんな館山を舞台にして、年代も環境も違う五人の女性たちが過ごす三日間。それぞれ苦悩を乗り越えて明日に希望をつないで生きてゆく姿には、共通した教訓的なものを感じる。それを導いているのは香川京子扮する保江婆の生き様であろう。
「自分の心に素直な生き方を」「私を忘れないで欲しい」という言葉と大切な品物を保江に託し、敗戦の二日前、特殊潜航艇の青年少尉は命を落とした。彼との約束を守るため、認知症で薄れゆく記憶を懸命にたどりながら、館山の掩体壕や地下壕などの戦争遺跡を歩きまわり、遺品を探しあてる保江。そして、鏡ヶ浦の水平線に沈みゆく夕日に赤く染まった潜水艦と、白い軍服に身を包んだ青年の回想シーンが重なる。これは、亡くなった青年将校への、いや戦争で犠牲を強いられたすべての者への鎮魂の場面として深く心に残る。
香川京子の迫真の演技は、渋さの中に輝きを増して光っていた。戦後まもなく、沖縄の苦しみを描いた『ひめゆりの塔』で主人公を演じた少女が、歳を経て再びいまに生き帰った姿を見た思いである。絶妙な樹木希林、爽やかな浅田美代子などの演技も素晴らしく、真剣さが伝わってきて好感が持てる。
圧巻なのは、ラストに近いシーンである。今まで静かに描かれていたスクリーンが、一挙に激しい動に転じ、八幡神社の神輿祭りの場面となる。宮地真緒演ずる保江の孫娘が、生まれたばかりの赤子をしっかりと抱きしめ、若者達が力いっぱい担ぐ神輿を見つめている。赤子の胸には保江が恋人から貰った七つボタンの一つが光っていた。妊娠し、ボーイフレンドから「俺と結婚したいのなら子供を堕ろせ、産みたいのなら別れろ」と言われていた娘が、結婚できたのかどうかは描かれていない。しかし、明日を担う若者のたくましさ、未来への無限の希望を印象付けるような転換が素晴らしい。
かつて館山の地は軍都であり、人も自然も自由な呼吸すらできない時代があった。戦争が終わり、苦しみから解放された館山の地は、生き生きと輝くばかりの美しさと可能性をよみがえらせた。随所を飾っている館山の美しい自然を背景にして、いのちや平和の尊さ、その可能性と希望が描き出されている。それは自然ばかりではない。安房高女・安房南高校の卒業生であるせんぼん監督の母校の威風堂々とした木造校舎をはじめ、この地に生きてきた人びとの営みがもつエネルギーであるといえよう。
苦悩をかかえて現代を生きる人びとの心を癒し、生きる力を育んでくれる珠玉の作品である。館山市民、いや千葉県民の一人として、せんぼん監督はじめ関係者の皆様に、素晴らしい作品を有難う、と心から言いたい。十月十四日に開かれる南総文化ホールの上映会には、せんぼん監督も駆けつけて講演してくださるとのこと、本当に楽しみである。
一人でも多くの方がこの映画を見ることができるように、上映委員会ではチケットを預かって販売に協力してくださる方を募集しています。事務局(090-6479-3498)までご連絡をください。




お忙しい中、館山の歴史についてきめ細かな講演をいただきましてありがとうございました。
また、フィ-ルドワ-クまでしていただきましたこと、本当に感謝しております。
館山に長く住んでいながら、目から鱗の思いで聞いていました。
お体に気をつけて頑張ってください。


「戦跡考古学」って、ご存じですか? 軍需工場、壕(ごう)、飛行場など、明治〜第2次世界大戦末期に築かれた「戦争遺跡」を対象とした考古学の一分野で、近年、調査や研究が盛んに行われています。こうした成果を踏まえ、「戦争遺跡を国指定史跡に」との動きも出てきました。
(写真:千葉県館山市に残る掩体壕跡)
壕内に照明はない。懐中電灯を借りて見学する=沖縄陸軍病院南風原壕群で
闇の中に、米軍の火炎放射器で焼かれたとみられる黒こげの坑木が浮かび上がる。天井には、朝鮮半島出身の兵士が刻んだと思われる「姜」の文字が……。沖縄県の南風原町(はえばるちょう)で行われている、「沖縄陸軍病院南風原壕群」の公開事業での一こまだ。
同壕は44年、沖縄守備軍だった旧日本軍第32軍の陸軍病院のために造られた。映画にもなった、いわゆる「ひめゆり学徒隊」が働いていたことで知られる。
同町が「戦争の悲惨さを伝える証し」として、この壕を町の文化財に指定したのは90年。94年からは内部などの発掘調査を実施。補強を行った後、今年6月から、30本あったとみられる壕のうち20号に限り一般公開に踏み切った。
公開1カ月で入場者は2000人超。「事前予約制で、1回(約20分)あたり10人しか壕に入れない」(同町教育委員会)ことを考えると、かなりの数字だ。「発掘によって、壕の構造などもわかってきた。調査前と比べ、戦争遺跡への関心も確実に高まっています」と、同町教委の上地克哉学芸員は話す。
◆沖縄から誕生
戦跡考古学という言葉が生まれたのは80年代のことだ。沖縄県立博物館の當眞(とうま)嗣一・元館長が研究誌で、「戦争遺跡や遺留品などの物質的資料に基づき、沖縄戦の実態に触れる必要」を説いたのが始まりだった。
だが、「新しい遺跡」のため、考古学者の間ではなかなか受け入れられない。「ヒマなんだねとか、そんなの考古学じゃないと言われたこともあった」とある研究者はいう。
転機となったのは95年だ。原爆ドーム(広島市)の世界文化遺産への登録に先立ち、この年、「史跡名勝天然記念物指定基準」が改正された。幕末〜明治初年までとされてきた史跡指定の対象が、第2次世界大戦終結までに広がったのだ。
十菱駿武・山梨学院大教授によれば、97年には全国で4件だった戦争関連の文化財は07年現在、121件に。発掘も100件を超すとみられる。
中でも、最近注目されているのが、山梨県の南アルプス市だ。市教委による05年度からの学術調査で、航空機を隠すための掩体(えんたい)壕や滑走路などが発掘された。
現場は、第2次世界大戦末期に建設された「御勅使河原(みだいがわら)飛行場(暗号名・ロタコ)」の跡地。掩体壕の基礎となるコンクリート部分の仕上がりなどが、壕によってばらばらだったことなどが明らかになっている。
◆文化庁が調査
一方、遺跡の保護を担当する文化庁では、03年から「近代遺跡(軍事に関する遺跡)地域別詳細調査」に着手している。
沖縄陸軍病院南風原壕群などの沖縄戦の関係遺跡をはじめ、松代大本営予定地地下壕(長野市)など、近代の軍事史を考えるうえで重要と思われる50遺跡について、文献や現地調査を実施。今年度中に報告書にまとめる予定だ。
関係者の間では、この50の戦争遺跡を「原爆ドームに続く国指定史跡に」と期待が高まる。
◆交流の場にも
しかし、予算上の制約から、今回の調査には指定の前提となる発掘や測量が含まれていないため、今後詳しく調べるかどうかは自治体次第。
さらに、戦争の記憶を好ましく思っていない土地・建物の所有者から協力が得られない例もあるといい、「まだ課題は多い」と同庁の山下信一郎・文化財調査官は話す。
しかし、戦跡の持つ、こうした負のイメージを踏まえたうえで、戦争遺跡を生涯学習資源、交流・観光資源として活用しようという市町村も出てきた。
東京湾防衛の要衝だった千葉県館山市では、「館山歴史公園都市」構想と題して、公開中の館山海軍航空隊赤山地下壕跡(全長1.6キロ)を核に、近くの宮城掩体壕跡、洲ノ崎海軍航空隊射撃場跡などを加えた散策コースの整備を目指す。ゆくゆくは市内に47ある戦争遺跡のうち、主要なものを線として結ぶ予定だ。
同市教委の杉江敬主査は「いわゆる負の遺産であっても、地域を語る歴史の一ページであることにかわりありません。住民の皆さんの理解を得たうえで、平和学習の拠点として保存・活用を進めていきたいと考えています」と話している。


昨日は有意義な研修の機会を提供してくださり、ありがとうございました。
参加者一同、大きな満足感をもって帰途につきました。
研修を通して、観光地の影にかくれた館山の素顔を知ることができました。
勝つあてのない戦争に突き進んでいった悲惨さ、
そしてそれに対峙した人々の思いを痛いほど感じさせられました。
またそれと同時に、この思いを後世にどう伝えていくのか、
どう戦争遺跡を保存していったらよいのかという難しさも感じさせられました。
今回の研修の成果を、授業作りや地域を見つめる視点等に生かしていきたいと思います。
房総という同じ地域に住む者として、皆様の活動を大変心強く思います。
今後のますますのご活躍を参加者一同祈念しています。
今後ともまたよろしくお願いいたします。本当にありがどうございました。


昨日は、小澤さんに案内していただき、
「龍の壕」を見学させていただきありがとうございました。
ひんやりとした地下壕は、タイムトンネルに入ったような
感覚でした。小澤さんの説明もとてもわかりやすく、勉強になりました。
今日も選挙ですが、2度と戦争をしないように、伝えていきたいです。
「かにた婦人の村」でも、塩川さんが子供たちに
わかるように説明して下さってよかったです。
NPOのお働きのためにお祈りしています。


【日時】2007年7月24日(火)13:30〜15:30
【会場】小高記念館
【講師】保坂明さん(NPO会員)
【テーマ】清国船「元順号」の千倉漂着と遭難救助



『赤い鯨と白い蛇』映画上映にあたり
上映委員会委員長 伊東万里子
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東京大空襲で母と弟たちを亡くした私が、父の故郷・館山で暮らすようになったのは、日本が戦争に勝つと信じてやまなかった昭和20年4月のことでした。東京の女学校から旧制安房高等女学校に転校し、安房第二高等学校(現在の安房南高校)を卒業するまでの6年間、私は館山ですごしました。戦禍に傷ついた私の心を温かく励ましてくれたのは、館山の自然と諸先生や多くの友人でした。あれから62年たった今もなお、母なる館山・安房の地は私の心の支えです。
そんな私の想いを代弁してくださるかのように、安房南高校の先輩であるせんぼんよしこさんが、館山を舞台に素晴らしい映画をお創りになりました。『赤い鯨と白い蛇』という不思議なタイトルで、賀川京子さん、樹木希林さん、浅田美代子さんたち女性ばかりが出演しています。せんぼんさんの体験を重ね、主人公(香川さん)が少女時代の疎開先館山を訪ねるという設定です。「赤い鯨」は館山沖で訓練していた特殊潜航艇を意味し、「白い蛇」は家の守り神を象徴しています。女性の眼から見た戦争と平和、現代人の抱える問題テーマに、語り継ぐことの大切さや生命の尊さ、そして美しい愛を描いた作品です。
せんぼんさんが78歳で映画監督デビューしたと伺い、私は封切り初日に岩波ホールへ足を運びました。世代の異なる5人の女性とラストシーンの赤ちゃんが織り成す物語は、まるで絵巻のように見えました。まさに、せんぼんさんが日本テレビのディレクター時代に手がけた看板番組「愛の劇場」シリーズの集大成とも言える作品だと思いました。すべての世代に通じるメッセージは、せんぼんさんでなければ描けない、しかも美しい館山だからこそ描けた作品です。せんぼんさんがふるさと館山に熱い想いを贈ってくださった宝ものに思えて、とても感動しました。シネマ夢倶楽部ベストシネマ賞、日本映画批評家大賞、藤本賞など多数を受賞し、モントリオール国際映画祭にも出品され、高い評価で世界に受け入れられていることは大変な偉業です。
私たちの女学生時代、戦争について本当のことは知らされていませんでした。安房で本土決戦が想定され軍備強化されていたことや、私たちが「ひめゆり部隊」に匹敵する役割を担わされていたかもしれなかったことなど、私も最近になって知りました。封印されてしまった過去の出来事をきちんと見つめなおし、次世代を担う子どもたちに何を手渡さなければならないか、それを問うのがこの映画の主題です。しかも、由緒ある安房南高校が創立100年を迎え、さらに統廃合によってその名が消えゆく最後の年に誕生した記念碑的作品です。「誠の徳を磨けよ」と建てられた母校です。そこで学んだ卒業生の手によって、このような素晴らしい映画が創られたことを、心から誇りに思います。
私やせんぼんさんに当時のことを教えてくれたのは、10数年にわたる戦争遺跡の調査をし、安房南高校をはじめとする高校教育と地域づくりに尽力されてきた愛沢伸雄さん(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長)です。シナリオを作るうえでの情報提供から戦争遺跡のロケ地選定に至るまで、せんぼんさんに協力をした愛沢さんが、この映画を地元の人にぜひ見てほしいと願い、10月14日に上映会を企画してくださいました。
この映画は、すべての世代の人にぜひ見てほしい映画です。そして、受けた感動の中身をじっくりと考えてみませんか。それが、戦争を起こさない世界を子孫に贈るための大切な一歩であると信じます。
この思いに賛同された方は、上映委員会として力を貸して下さいますようお願いいたします。今月14日には、上映委員会向けの試写会を予定しています。参加をご希望の方は、事務局(池田恵美子090-6479-3498)までお問合わせください。皆さんのご協力を心よりお待ちしています。

