「戦跡考古学」って、ご存じですか? 軍需工場、壕(ごう)、飛行場など、明治〜第2次世界大戦末期に築かれた「戦争遺跡」を対象とした考古学の一分野で、近年、調査や研究が盛んに行われています。こうした成果を踏まえ、「戦争遺跡を国指定史跡に」との動きも出てきました。
(写真:千葉県館山市に残る掩体壕跡)
壕内に照明はない。懐中電灯を借りて見学する=沖縄陸軍病院南風原壕群で
闇の中に、米軍の火炎放射器で焼かれたとみられる黒こげの坑木が浮かび上がる。天井には、朝鮮半島出身の兵士が刻んだと思われる「姜」の文字が……。沖縄県の南風原町(はえばるちょう)で行われている、「沖縄陸軍病院南風原壕群」の公開事業での一こまだ。
同壕は44年、沖縄守備軍だった旧日本軍第32軍の陸軍病院のために造られた。映画にもなった、いわゆる「ひめゆり学徒隊」が働いていたことで知られる。
同町が「戦争の悲惨さを伝える証し」として、この壕を町の文化財に指定したのは90年。94年からは内部などの発掘調査を実施。補強を行った後、今年6月から、30本あったとみられる壕のうち20号に限り一般公開に踏み切った。
公開1カ月で入場者は2000人超。「事前予約制で、1回(約20分)あたり10人しか壕に入れない」(同町教育委員会)ことを考えると、かなりの数字だ。「発掘によって、壕の構造などもわかってきた。調査前と比べ、戦争遺跡への関心も確実に高まっています」と、同町教委の上地克哉学芸員は話す。
◆沖縄から誕生
戦跡考古学という言葉が生まれたのは80年代のことだ。沖縄県立博物館の當眞(とうま)嗣一・元館長が研究誌で、「戦争遺跡や遺留品などの物質的資料に基づき、沖縄戦の実態に触れる必要」を説いたのが始まりだった。
だが、「新しい遺跡」のため、考古学者の間ではなかなか受け入れられない。「ヒマなんだねとか、そんなの考古学じゃないと言われたこともあった」とある研究者はいう。
転機となったのは95年だ。原爆ドーム(広島市)の世界文化遺産への登録に先立ち、この年、「史跡名勝天然記念物指定基準」が改正された。幕末〜明治初年までとされてきた史跡指定の対象が、第2次世界大戦終結までに広がったのだ。
十菱駿武・山梨学院大教授によれば、97年には全国で4件だった戦争関連の文化財は07年現在、121件に。発掘も100件を超すとみられる。
中でも、最近注目されているのが、山梨県の南アルプス市だ。市教委による05年度からの学術調査で、航空機を隠すための掩体(えんたい)壕や滑走路などが発掘された。
現場は、第2次世界大戦末期に建設された「御勅使河原(みだいがわら)飛行場(暗号名・ロタコ)」の跡地。掩体壕の基礎となるコンクリート部分の仕上がりなどが、壕によってばらばらだったことなどが明らかになっている。
◆文化庁が調査
一方、遺跡の保護を担当する文化庁では、03年から「近代遺跡(軍事に関する遺跡)地域別詳細調査」に着手している。
沖縄陸軍病院南風原壕群などの沖縄戦の関係遺跡をはじめ、松代大本営予定地地下壕(長野市)など、近代の軍事史を考えるうえで重要と思われる50遺跡について、文献や現地調査を実施。今年度中に報告書にまとめる予定だ。
関係者の間では、この50の戦争遺跡を「原爆ドームに続く国指定史跡に」と期待が高まる。
◆交流の場にも
しかし、予算上の制約から、今回の調査には指定の前提となる発掘や測量が含まれていないため、今後詳しく調べるかどうかは自治体次第。
さらに、戦争の記憶を好ましく思っていない土地・建物の所有者から協力が得られない例もあるといい、「まだ課題は多い」と同庁の山下信一郎・文化財調査官は話す。
しかし、戦跡の持つ、こうした負のイメージを踏まえたうえで、戦争遺跡を生涯学習資源、交流・観光資源として活用しようという市町村も出てきた。
東京湾防衛の要衝だった千葉県館山市では、「館山歴史公園都市」構想と題して、公開中の館山海軍航空隊赤山地下壕跡(全長1.6キロ)を核に、近くの宮城掩体壕跡、洲ノ崎海軍航空隊射撃場跡などを加えた散策コースの整備を目指す。ゆくゆくは市内に47ある戦争遺跡のうち、主要なものを線として結ぶ予定だ。
同市教委の杉江敬主査は「いわゆる負の遺産であっても、地域を語る歴史の一ページであることにかわりありません。住民の皆さんの理解を得たうえで、平和学習の拠点として保存・活用を進めていきたいと考えています」と話している。