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青木繁《海の幸》を描いた小谷家と明治期の富崎村

小谷 福哲

『子どもが主役になる社会科』43号(千葉県歴史教育者協議会)


1.はじめに

館山市富崎地区は、1889(明治22)年に布良村と相浜村が合併して富崎村となり、温暖な気候と太平洋に面した立地条件から豊富な海産物に恵まれ、漁村として繁栄を極めていた。しかし近年は海産物も獲れなくなり、いまでは専業漁師として成り立たなくなってしまった。原因は色々言われているが、地球的規模の気象状況の変化から海流の変化、あるいは海洋汚染、乱獲、と色々な条件が重なっているのかもしれない。

それはともかくとして、現在この富崎地区は、唯一の産業であった漁業の衰退に伴い、世帯数500戸、人口約1,000人と明治期の3分の1に激減、老齢化率も47%という過疎地区となっている。結果若者が少なくなり、残念ながら100年続いた富崎小学校も昨年統合され休校となってしまった。

一方、1904(明治37)年、美術界の鬼才とも言われた青木繁が西洋画としてわが国初の重要文化財に指定された《海の幸》は、まさしくこの布良の小谷家住宅に逗留中に描いたものであり、私はその小谷家の後裔である。

現在、私たちはこの様な状況の中から、明治期のあの活気あふれた富崎をもう一度取り戻したいとの希望をもってまちづくりを進めている。その一つの起爆剤として“小谷家住宅の記念館への活動“を推進している。

たまたま昨年7月当家より明治期の古文書等色々な資料が発見され、その調査分類を進めているが今回館山市博物館蔵の資料その他を合わせ、これら資料等を通した明治期の小谷家と富崎村を紹介したい。


2.青木繁逗留

1904(明治37)年7月、当時東京美術学校(現東京芸術大学)卒業と同時に若き青木繁は、恋人福田たね、同郷の坂本繁二郎、友人の森田恒友と共に房州布良に写生旅行に来ている。7月15日東京霊岸島を海路館山港に向け出航、翌朝到着し陸路布良を目指した。16日同地の柏屋(吉野家という説もある)に宿泊、翌17日より紹介にて小谷家に8月末まで約一月半逗留する事になる。

青木達と小谷家は全く縁がなく、何故長期に亘って逗留させたか不明であるが、小谷家は後述するように代々船主、村会議員をする等当地での有力者であった。又、当主の喜録が若いころ教育者であった資料や、その後彼が交流したとみられる著名な漢詩や墨絵などが見つかったこともあり、文化芸術にも造詣が深かったとも推察できる。

ともあれ青木にとって、結果的に29年の彼の生涯を通し、この写生旅行が彼の青春の素晴らしい時間になったであろう事が、盟友梅野満雄に宛てた4枚の絵手紙からも容易に伝わってくる。この地の素晴らしさを絶賛し、豊かな海の幸に感嘆し、最後には彼の最高傑作といわれる作品《海の幸》を製作中であるかの様な記述で締め括っている。

現在《海の幸》記念碑の眼下に広がる神話の舞台、“阿由戸の浜”で彼らが海水浴を楽しみ、素晴らしい自然環境の中絵を描ける喜び、青春を心から謳歌し燃焼させたろう姿が目に浮かぶ。


3.小谷家住宅

以降、この時代背景となる富崎村を紹介してみたいと思う。先ず、青木の逗留した小谷家について紹介すると、江戸時代から続く漁家で1944(昭和19)年に先々代の死去により廃業するに至ったが、その間船主(ふなぬし)、仲買等を業とし、村政にも深く携わっていた家柄である。小谷家の現在の住宅は、代々の言い伝えでは、布良地区を襲った1876(明治9)年の大火後に再築されたものとされていた。当住宅の建立時期が知れる棟札等の資料は発見できなかったが、客座敷平書院の欄間彫刻の刻銘(作者 後藤喜三郎・橘義信)、及び垂木のとめ釘(まる釘)が用いられている点等を整合すると1889(明治22)年の大火後の再築としたほうが良さそうである。

この住宅は床を張った住居部分と釜屋と呼ぶ土間部分が接して建つ分棟形住宅である。釜屋部分は既に造替により当初の景観が失われているが、住宅部分は一部を除いてほぼ当時の状態を保っている。建物の特色としては火災に対する備えが上げられる。屋根の瓦葺その最大のものであるが、その他火を使う釜屋部分を漆喰塗りやなまこ壁にしていたことが注目される。この建物は、一部旧来の様式を踏襲しつつも変換する時代を具体的に示した建築であるとともに、明治期の大火後における耐火性能を考慮した復興建築としても価値が高いと認められ、2009(平成21)年館山市有形文化財に指定されている。


4.小谷治助・喜録

昨年当家から発見された資料の大半は、治助、喜録の時代のものである。この二人が半世紀に亘る明治の時代の小谷家の中心人物である。

小谷治助(1837〜1902)は「明治初年元布良村漁師頭に選任され以来漁業に関する諸種公務に従事した云々(晩年富崎村長・石井嘉右衛門からの感謝状より)」とあり、その後、布良村会議員当選状、衛生委員認可証、安房水産会委員委嘱状などの資料が見つかった。現在の小谷家住宅は、1876(明治9)年大火後か、1889(明治22)年大火後か、いずれにしても治助の代に再築されたものであろうと考えられる。

小谷喜録(1864〜1918)は治助の長男で、青木が滞在した当時の当主である。小学校卒業後東京私塾にて和漢を学び、1885〜1891(明治18~24)年まで小学校の教員であった。その後、区会議員、村会議員、衛生委員、大日本帝国水難救済会布良救難所看守長、富崎村在郷軍人会幹事等を勤めた。


5.マグロ延縄発祥の地・富崎村

新年の話題の一つに大間マグロの初値の驚きの価格があったが、じつは大間の延縄漁は布良から伝わった漁法であったことはあまり知られていない。布良はマグロ延縄漁の発祥の地で、明治時代は布良沖でマグロ漁が盛んに行われていた。最盛期の1881(明治14)年には、マグロ延縄船だけで83隻に及んだとされている。

又、森田徳平(房日新聞1982年連載小説『房州船方伝』)によると、年代がずっと下るが1909(明治42)年の調査では、全国のマグロ漁獲高が872,342円であり、その中の四分の一に相当する199,812円が当地の水揚だという。それまで仙台マグロで鳴らしていた宮城でさえ、10万なにがしで大差の2位でとなっている。その頃の船の数はぐっと減少して推定55隻程度ではないかと考えられる。

「布良の港は銭の雨が降る」とまで言われた所以であろう。布良は空前絶後の活況を呈し、まさに火がついたといった様な本格的マグロ延縄漁業が誕生したのである。しかしその背景には、多額の資金を必要とした延縄船の新造船には、東京日本橋を始めとした江戸魚河岸の豊富な資金によってまかなわれていたという。その結果、そのことが後に魚問屋との鉄のしがらみになっていくことも事実である。

実際きびしい操業をした結果、遭難事故も相次いで起き、1902(明治35)年には遭難船8隻、乗員51人の犠牲者を出している。明治年間の遭難は実に約90隻、遭難殉職者数推定350人とされている。「布良の後家船」ともいわれた所以であり、まさに海との戦いであった。冬の夜、真南の水平線上に赤く輝く「布良星(学名カノープス)」は遭難した布良の漁師達の魂であるとも言われている。

その対策として、帝国水難救助会の指導による「水産談話会」や、船主を契約者にする「生命保険」の仕組みを取り入れている。

しかし、やがてこの布良の盛況も明治後半から徐々に下火となっていったのである。


6.富崎村漁業税等について(小谷家資料)

当家資料から見つかった1890(明治23)年富崎村調査の「諸漁業税帳」によると、漁の種類によりそれぞれ基本的な税の額が違っている事が分かる。さらに、1892(明治25)年の「漁業税採藻税負担額」の表は、富崎村の船の大きさ種類による全体が記されたとても興味深い資料である。これによると、縄船は大小合わせて90隻に及び、他の船と合わせて132隻の船があったことが分かる。

そして網が133張もあった事も分かる。中でも興味を引くのは、潜水器1台とあるが、これは、鮑採取の為のものである。調べると鮑の器械潜水は根本村(現南房総市白浜町根本地区)が日本でも最初で1878(明治11)年に始まったもので、布良では、1882(明治15)年で4年遅れて開始されている。これは、半農半漁の根本村と漁業のみの富崎村ではその背景の違いで海女の説得に時間がかかり、なかなか器械潜水を取り入れられなかったという理由があったようである。ともあれ器械潜水を始めるに当たって他の地区と決定的に違う点は、1873(明治6)年村治大改革が行われ、村営の鮑取扱所が置かれていたので採鮑業やアワビ仲買人を特定の営業とすることは許されなかった事である。そこで売買される様に、価格800円の器械を購入時する、富崎村長神田吉右衛門ほか布良の戸主329名が出金しており、潜水器漁業は村民の共同事業として順調に展開していった。そのため利益は、組合子弟の育英事業や道路湾岸の公共の土木事業、神社社殿の修理、組員に対する資金の貸付等々村の公共事業に使われた。潜水器採鮑業新漁具の導入に慎重であった漁民がよき指導者を得て経営に当たった新漁法であった。(『房総の潜水器漁業史』 大場俊雄著)


7.関澤明清から贈られた『日本重要水産動植物之図』

当家から発見された資料の中でもきわめて注目すべき資料は、水産伝習所初代所長・関澤明清の直筆書簡である。関澤は、加賀藩生まれで幕末から渡英し、維新後は政府事務官として、ウィーンやフィラデルフィアの万博に参加。欧米の進んだ水産技術を見聞し、鮭鱒の人口ふ化、缶詰技術や米式捕鯨銃の導入、揚繰網漁の改良、水産教育の推進など、近代水産業発展に尽くした業績は計り知れないパイオニアといわれる。

また水産教育の重要性を説き、1888(明治21)年に水産伝習所の初代所長に就任して後進の育成に精力を注いだ。当家にある書簡は、1890(明治23)年9月10日付で、「生徒御地主張は御多忙中の中、漁具その他の説明を煩わし生徒も満足致しおり候」と記されている。

水産学者大場俊夫氏の調査報告『千葉県安房郡白浜村における水産講習所の海洋生物実習について(2)』によると、水産伝習所の実地演習は、前年に続き同年8月3日から29日にかけて、千葉県根本村と太海村(現鴨川市太海)で実施されている。根本と布良は隣村であり、このとき小谷家で漁撈実習のお世話をしたものと考えられる。

さらに書簡には、その御礼として『日本重要水産動物之図』を贈る旨記されている。当家で昔から長押に掲示されていた3枚の魚介図がそれであったことが判明した。これは、1889(明治21)年のフランス革命百周年記念パリ万国博覧会に出品された農商務省水産局製石版図である。『日本重要水産動植物図と田中芳男』(松田清)によると、「日本の近代博物学史のみならず、印刷技術史においても国産最初の本格的なカラー石版博物図として重要である」という。

前述した青木繁の絵手紙に、この地で獲れる魚介の名前が40種類も列挙されている事が不思議だったが、当家滞在中の青木は興味深くこの絵図を見上げていたのかもしれない。

関澤書簡の差出住所は水産伝習所の所在地である「東京芝区三田四国町2番地」と書かれているが、一方、小谷治助が書いた別の書簡の下書きにも同じ住所表記が見つかっている。詳しい状況は分からないが、このことからも当家が水産伝習所と関わりがあったであろうことが推察される。

その後関澤は、1893(明治26)年に伝習所長を退職し、館山に居住して関澤水産製造所を設立、勝山の捕鯨船団・醍醐新兵衛と組んでの捕鯨や、遠洋漁業などの事業を興している。水産伝習所は、1897(明治30)年に官制の水産講習所となり、1901(明治34)年には館山実習場が開かれ、後に東京水産大学を経て東京海洋大学となる前身である。

館山実習場裏の高台にある巨大な顕彰碑には、「此碑は水産家関澤明清君の功績を不朽に伝ふる為、明治34年同志460名より拠出の資金壱千有余円を以て建碑に着手し、同32年5月に竣工す」と刻まれている。布良とともに、館山湾に面したこの地もまた、近代水産業が発展するうえで重要な役割を果たしたことがわかる。奇しくも、私の生まれ育った実家に隣接している場所である。


8.内村鑑三 漁撈実習で布良に…

キリスト教伝道者の内村鑑三が、水産伝習所の教員であったことはあまり知られていない。水産学者でありキリスト者である平本記久雄氏の調査によると、内村が富崎村長であった神田吉右衛門との出会いにより大きな転機を迎えたと自ら記していることが分かってきた。

それは、『内村鑑三全集』の「予が聖書研究に従事するに至りし由来」において、1890(明治23)年夏、漁業調査で房州に来て神田吉右衛門と毎夕話をしたことが、その後の人生を決定づけたという。これは関澤書簡の年であるが、事実、内村は水産伝習所の教員としてこの研修に同行していたことは、先の大場氏の調査により既知のことであった。そして神田と出会った直後の8月末で伝習所を退職し、その翌年には不敬事件に繋がっていく訳である。

今回の関澤書簡の発見により、根本の実習からマグロ延縄漁の実習研究というテーマで布良まで足を伸ばしていた事が判明したため、引率教員であった内村がここで神田と出会ったことが容易に納得できる。

布良の一古老が、内村の転機となる程までに影響を与えていたとは意外な事である。しかし、神田吉右衛門は、1872(明治5)年の学校制度施行に際しては学資蓄えの義捐金を募り、授業料の減額や教科書の貸与を進めたり、村政を改善し、採る鮑業を共通財産としたりとその功績は大きく、富崎村に限りない恩恵をもたらした素晴らしいリーダーである事は間違いない。

昨春統合により休校となってしまった富崎小学校には、神田吉右衛門の巨大な顕彰碑があり、「嗚呼、君は終始一貫身を挺して公益のために尽くした。海事では、漁船の改良、水産増殖、海難救助の尽くし、漁業組合、漁業会、安房汽船会社等、君が籍を置かないものはなかった。明治18年6月、官より藍綬褒章を授かる。また、公私団体に屡しばしば金品を贈った。その功を誉め今ここに村民追慕しその徳を慕って、この碑を建立する」と刻まれている。その人物像についてはほとんど知られていなかったが、今回の資料発見から意外な繋がりに発展していったひとつである。今後彼の偉業も、地元の誇りとしてさらに研究を勧めていきたい。


9.李◆鎔の書

今回の発表資料とともに発見された書画の中に、著名な書家のものがあることもわかってきた。特に興味深いものは、「韓国李◆鎔」と署名されたものである。大院君の長子の嫡男であるが、『鋸南町史』によれば、「?鎔は事変の年(1896年)11月11日日本の亡命、30(1897)年から欧州を遊覧して、32(1899)年日本にかえり北条町(館山市)に閑居すること数年に及んだ」と記されている。この間、小谷家に立ち寄ったものかもしれないが、まだ調査は進んでいない。


10.結び

現在、富崎地区はあれほど繁栄の頂点であった漁業は全く不振に陥っている。又、老齢化と過疎化が進んでいる。只、嘆いていても先には進めない。かつての布良を再現するべく、新しい富崎地区を作る為、今後とも歴教協の諸先生の指導を仰ぎ、皆さんの力を借り調査を進めていくことをお願いする次第である。


【注】◆は、俊の人偏⇒土扁

13年3月18日 16,282

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

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