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●伝統工芸●

≪国指定工芸品「房州団扇」〜日本三大生産地であった房州団扇≫


1878(明治11)年、朝野新聞には「近年外国人が2万、3万の注文にて、前々より勢いよし」と書かれ、明治14年(1881)の東京日日新聞では「堀江町の団扇問屋へ支那その外欧米より日本名所並びに貴顕紳士の錦絵を貼りたる団扇の注文おびただしきは、開港己来なきほどなり」と伝えている。この美しい図柄をもった団扇は、外国人にとても好評で海外へむけて輸出されていた。

また、団扇は商品のメッセージを入れた広告媒体として、明治に入ってから需要が増え、裏面には名入れにした団扇が普及している。さらに、外国では団扇の工芸品的価値が高まっていたので、外貨獲得にもなり輸出販路の拡大をめざす製造業者たちが、各地の博覧会や物産展で趣向を凝らした団扇を出品していた。


1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会では、東京や奈良から絹や紙張り彩色の団扇をはじめ、竹網代編みの竹団扇や、藤網代編みの藤団扇などが出品され、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会でも、3,759本もの団扇が出品されたという。これらの海外の博覧会開催に関わる日本側担当者のなかには、後に安房の産業振興に重要な役割を果たした人物もいた。


従来からの工芸的な面をもった団扇は、近代に入っても好まれ千年の伝統と雅やかな趣の京団扇は、生産量全体の3割を占め、次いで香川の丸亀団扇や房州団扇が代表的な生産地となった。竹材商であった竹間屋の岩城庄七は、明治初期に団扇製造に乗り出し、竹材のなかでも、シノダケという竹材の「きたむき竹」を材料として、これまで地域にあった伝統的な竹細工技術をさらに東京からの団扇職人の技も取り入れて、本格的な房州団扇製造に取り組んでいった。製造工程では、竹の皮むきから始まる24の工程を手作業ではあるが分業や協業でおこない、竹を64等分に割る「さき」という工程では、特徴的な細工が入り房州団扇つくりの重要なポイントになっていた。それは平柄の丸亀団扇や差し柄の京団扇に対して、房州団扇では丸柄であり柄の竹が丸のままで半円の格子模様の窓になるところに特色があった。東京の消費者に向けた洗練されたデザインも加味して、実用品ではあるが工芸品としての価値も高いところが歓迎された。


1923(大正12)年での関東大震災では、那古でも東京でも生産の場が破壊させ大打撃を受けた。しかし、竹の生産地であった那古は、すぐにもマニュファクチュアによる生産が可能であった。竹間屋の岩城庄七にはじまる生産形態は十分に確立しており、需要に応じて生産量も高めることができた。その結果、大正から昭和にかけて800万本という生産量となり、日本三大団扇の一つに数えられるまでになった。1939(昭和14)年の産業統計では、那古町にとって、米生産に次いで6軒の業者による団扇製造の生産金額が第2位を占め、地域に根ざした代表的な地場産業となっていた。

09年3月23日 13,512

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