「市民による『里見氏稲村城跡保存運動』は実った」
愛沢伸雄『歴史学研究』第712号 歴史学研究会編 青木書店 1998年刊
稲村城は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の舞台のひとつである。この城跡は今も房総半島南端館山市稲に実在しており、戦国期の房総最大の大名であった里見氏が、15世紀後半に安房国を平定した頃の本城とされている。
今からちょうど2年前(1996年)、この稲村城跡が約四百数十年間の深い眠りに、とどめを刺されようとしていた。安房地域のシンボル的な文化遺産ともいえる稲村城跡が、なぜ行政当局の手で破壊される寸前までいったのか、今もって不明なことが多く、関係者らは口を閉ざしている。保守的な政治風土のなかで、市民運動など育たないといわれた地域に、文化財保存には全くの素人の市民が保存と史跡化をめざして立ち上がった。研究者・専門家グループをはじめ、全国の様々な方々からご支援ご協力を仰ぎながら、危機的な状況を乗り越えて、城跡破壊をストップさせた保存運動の経緯を報告したい。
【1】「請願書」採択の意味
昨97年12月の館山市議会において、稲村城跡の保存と史跡化をもとめる「請願書」が採択された。市議会に提出して1年半、請願書は文教民生委員会において異例ともいうべき、6回の継続審査を繰り返し、その間あわや不採択かという状況もあった。しかし、7度目の審議にして予期せぬ「委員会全員一致による採択」となり、本会議では、念願かなって「全会一致での採択」となった。市当局から提案し市議会で承認された施策が、市民運動や請願書のために、その後に変更されたことは近年まれという。大詰めの段階になっても、一部の議員や市当局担当者のなかには、請願書採択となれば行政のメンツがつぶれるとか、市民運動により施策が変更となれば「悪しき前例」となるので不採択にすべしとの声が、依然としてあったと聞く。
いま手元に12月議会報告『たてやま議会だより 平成10年2月号』がある。この間議会報告はただ「継続審査」との記載のみであったが、今回は請願書採択の審査結果が報告されたので、全文を紹介する。「請願第七号 稲村城跡保存に関する請願書 平成八年六月議会から継続審査となり、この間、工業団地の進入路と文化財の取り扱いについて多方面にわたり審査してきました。工業団地の進入路については、稲村城跡にかかる一部区域のルートを見直すことが明らかにされ、工業団地進入路の現状等について説明を受けました。討論において、この請願書採択に賛成するが、工業団地の進入路問題については、早期に解決する方向で進め、今後の調査等においては、地域住民とのコミュニケーションを十分図るようにすべきだとする意見や、里見氏の歴史は後世に伝えていかなければならないので、今後、調査研究は進めてほしいが、その際、地元の協力は前提となるので、市と地元と市民が一体となって事業に取り組むことを要望するとの意見がありました。採決の結果、現在進めている工業団地計画については、早期実現に努めること及び今後の施策を進めるにあたっては、地域住民、関係者の意向を十分配慮することの意見をつけて本請願を採択しました。」
採択にあたって議会内では、会派での取り扱いなどをめぐり様々な動きがあったという。「全会一致での採択」合意に至った経緯を推測すれば、文教民生委員会を中心に文化行政・地域振興のあり方などの意見の調整が図られたり、また「路線変更」にともなう地元地権者と市当局との慎重な交渉が実ったことも大きいが、やはり何といっても、稲村城跡が歴史的文化的価値をもっているとの認識が広く市民に浸透した結果、世論を踏まえると貴重な文化財として認知せざるを得ない立場に議会や市当局がたたされたからといえる。市民による文化財保存運動がなかったならば、間違いなく稲村城は消えていた。
【2】稲村城跡の現況と地域開発
1983年、千葉県下1000余の城郭遺構のなかで、最重要遺跡として県教育委員会の調査がなされ「発掘調査からは高度な城普請がなされていること、また測量調査等からは、これまで知られている以上に大規模な城である」と報告された。標高64mの通称「城山」という主郭部と南側の4カ所の小丘陵にある中郭部とを含んだ東西500m南北500mの範囲にとどまらず、北側の滝川を自然の城濠とし、東・南・西方にある丘陵を城の外郭部とすると、東西約2km南北約1.5kmの大規模な城郭と想定され、安房国の軍事的経済的要衝で安房国府を押さえる所堅固な城と評価された。
遺構をみると、築城に高度な土木工事が施されており、なかでも主郭部では平坦面を広くするため、他にあまり類例がないといわれる版築技法を用いて造成し、また里見氏系城郭に特有な垂直切岸や大小さまざまな腰曲輪を重ねた防御施設が構築された。主郭部の土塁と櫓台は地山を削り残しているが、土塁をみる限り後に改変された形跡はなく、戦国前期の形態をとどめた城郭と推定された。
近年、里見氏の成立過程や戦国期房総半島支配をめぐる文献学的研究、里見氏城郭の考古学的研究などが進展し、比較的良好な状態にある稲村城跡は、里見氏研究にとどまらず、中世東国史研究や城郭史研究にとり貴重な中世城郭と指摘されていた。
ところで1991年、千葉県企業庁は「かずさアカデミアパーク構想」のもと、企業誘致を図るべく館山インダストアルパーク(館山工業団地)事業計画を決定し、南房総地域開発の最大の目玉とした。この事業は過疎化解消と雇用確保という半島振興策のひとつで、安房郡市が一致協力して県当局に働きかけて実現したもので、旗振り役の館山は市政の重要な柱とし、事ある毎に速やかな推進を強調していた。
問題の発端は、工業団地進入路である市道が市議会で認定されたときにあった。当初は稲村城跡内を通過しない計画案で市当局は話を進めていたが、地元稲地区との話し合いのなかで、道路事情やJR踏切改廃に関わる問題解決策として高架橋位置の変更が浮上した。結局は、埋蔵文化財の包蔵地として周知の遺跡である「稲村城跡」の主郭部を橋桁にする高架方式をとり、城跡内を通過するという進入路計画が策定されてしまった。この案に反対する地権者が少なからずいたものの、事業計画推進を急ぐ市当局は、地元市議や一部有力者を中心に押し進め、翌年には地元地権者総会で承認され、稲村城跡破壊の進入路計画が決定したのであった。
こうして館山インダストリアルパーク事業計画にもとづき、土地買収や進入路建設工事が進み、文化財保護法にある計画策定段階で義務づけされている県教育委員会との協議は、無視されたまま置かれた。1996年3月市議会において一議員が「稲村城跡」問題を取り上げた時点で、すでに市当局や市議会、地元地権者のほぼ合意のなか、高架橋と進入路建設は着工目前となり、城跡破壊は時間の問題であった。
【3】保守的風土のなかで文化財保存運動
房総半島南端部の安房地域では、保守的な政治風土のもと市町村当局主導になりがちな行政施策に、市民から待ったをかける動きは少ない。地縁血縁の強い地域特性からか、個人の行動を控える風潮や、批判を避ける傾向がある。身近な問題に対するごく当たり前な運動であっても、継続が難しい地域である。そんな政治的風土のなかで様々なレベルの市民たちが集まって、南房総では初めての文化財保存運動が始まった。
1996年3月、地元の房州日々新聞(3万部発行)に「郷土に誇れる文化財の保護を」と題する投稿をきっかけに、数名の高校教員を中心として「里見氏稲村城跡を保存する会」(以下「保存する会」とする)が結成された。なお、その際当時館山市文化財審議委員で里見氏研究者の滝川恒昭氏をはじめ千葉城郭研究会(事務局長遠山成一氏)の方々の全面的な支援を得ることになった。
運動を急速に展開するために、まず二つの手を打った。ひとつにはマスコミなどの協力を得て「保存する会」の存在をアピールするとともに、会報を発行し系統的に市民に情報を流すこと。ふたつめに、稲村城跡フィールドワークや講演会「房総里見氏と稲村城をみつめる」(以下「集い」とする)を開催し、現地を確認しながら、講演などで歴史的価値を知らせる機会をつくるとした。こうして第1回の「集い」では、時間や体制が十分でなかったにも関わらず、当初の予想を越える150余名の市民参加があり、取り組みによって、運動が広がるとの予感をもった。
保存運動の展開を三つの段階に分けた。1996年3月から7月にかけて、「緊急に市民につたえ、城跡破壊をストップさせる」第一の段階であった。着工目前の緊急事態のなかで、市議会や市当局に請願書や署名を提出するという、一般的な手段をとった。署名ひとつでも難しい地域なので、広げるために市内外の著名な文化人・宗教家・歴史研究者など、50名近くの方に署名の呼びかけ人を依頼した。地元市民や地権者へのアプローチを考え、第2回「集い」は地元公民館で開催した。しかし、睨みがきくところでの地元市民の参加や署名の集まりは少なく、今後地元の声をまとめていくのは難しいと感じた。
署名に精力的に取り組み、数が3000筆を越えた頃、請願書提出に関わり全市会議員25名の個別訪問を実施した。その結果、保守派議員を含め4名から紹介議員の承諾をえ、議会内会派による締め付けがあるなか極めて貴重な成果を上げた。そして、第一段階の山場を6月市議会開催期間中にし、市長宛署名4210筆と市議会議長宛請願書との提出をおこなう一方、里見氏研究で著名な川名登氏を迎えての第3回「集い」を実施し、運動の熱気を市当局に示した。「集い」終了後には、50名を越える会員の参加で第1回「保存する会」総会をおこない、会則を制定し今後の活動方針を決定した。
なお6月市議会では、2名の議員が「稲村城跡保存」問題を取り上げ、進入路計画決定の経緯が明らかになり、また文化財保護法違反であったことを市当局が認めた。結局、議会文教民生委員会で請願は継続審査となり、この時点でどうにか市当局による進入路建設着工の動きはストップし、運動の第一段階の目標は4ヶ月間で達成した。
【4】地域に根ざす市民の保存運動
1996年8月から12月の半年間は、地域に根ざした息のながい保存運動にするために「学習しながら、啓蒙活動につとめる」第二段階の運動と位置づけた。この時期、会の組織・運営のあり方を再検討し、とくに世話人・事務局会議の定例化や会則方針を活かす事務局の確立をめざした。また、学ぶ活動を保存運動の基本原則において、地域にある貴重な文化遺産の活用方法や、歴史的環境の保全と「まちづくり」問題などを提起した。さらに、保存運動を訴え支援の輪を確実に広げるとともに、会の財政を確立のために、保存運動の経過や「集い」の様子を冊子(『里見氏稲村城跡をみつめて』第一集)にし販売した。これは「鷲城・祇園城跡の保存を考える会」が運動のなかで、次々に冊子を発行していった活動を教訓にし、昨年末には続編になる第二集も発行した。
ところで、会員自身が楽しみながら運動を進めるために、稲村城跡遺構をイラストにした『稲村城跡理解の手引き』を作成したり、それを活用して稲村城につながる古道を歩きながら、歴史的景観にふれる「『里見の道』ウォーキング」を実施した。第1回目は、30数名の参加で10数kmの「稲村城跡から白浜城跡への歴史の道」を歩き、豊かに残っている歴史的景観を堪能した。このウォーキングは以後4回実施し、市民による保存運動を息長く続けるエネルギーを引き出す企画のひとつとなった。
10月には、歴史学研究会をはじめ全国の歴史関係25学会から、館山市長宛に「館山市稲村城跡の保存を要望する声明」が出され、地元で大きく報道されたので、市当局に一定の圧力になった。12月に入り、第二段階の山場に第5回「集い」を開催し、「鷲城・祇園城跡の保存を考える会」会長でもある峰岸純夫氏を迎えての講演は、保存運動の意気込みを広く市民に知らせる機会となった。講演では、稲村城のもつ歴史的役割やその調査・保存と活用、また史跡化の意味など、さらには21世紀を見すえた「まちづくり」と稲村城跡の活用について報告がなされ、稲村城跡が国指定史跡としての可能性をめぐる重要な提言を得た。なお保存運動がどうあるべきかについて、峰岸氏論文(『文化財の調査・保存と地域史研究』岩波講座日本通史別巻二)やこの講演(『里見氏稲村城跡をみつめてー第二集』収録)に多くを学んだが、なんといっても多忙ななかにあっても全国の保存運動に主体的に関わる、峰岸氏をはじめとする研究者の実践的姿勢に深く感銘した。
【5】文化運動で地域の再生を
保存運動が2年目に入るなか、危機感をバネに動いていた時期とは違い、正面から堂々と挑む運動としての正念場をむかえた。反対のための反対運動ではないことを行動で示していく必要もあった。地元地権者の理解と協力がない保存運動は成功しないので、どのように連携していくかも課題であった。
1997年に入り、第三の段階へ運動を進めることにした。保存・史跡化にむけての具体的プロセスを検討しつつ、稲村城跡の国指定史跡化の可能性を追求するという高い目標を設定した。そのためにまず、地元・地権者と意見交流を深め、広く市民の理解をもとめながら、市当局・市議会との話し合いの場をもち、国指定化にむけての連携と協力体制をさぐることをめざした。とくに市議会では文教民生委員会において請願書審議がなされているが、全議員に対する呼びかけも引き続き取り組み、「請願書採択」にむけての環境づくりを探っていくことにした。2月には、小野正敏氏を迎えて第6回「集い」と第二回総会を開催し、前述の運動方針が決定された。
質的な飛躍を運動のなかでどうつくっていくかをポイントに、第三段階は市民による文化財保存運動にふさわしい事業計画をたて、一人ひとりの会員の創意工夫を活すことをめざした。そのひとつが、稲村城跡の「草(竹薮)刈り」であった。共有地代表の了解を得て、86才のご老人から27才の若者まで20余名が草刈り機械を使い、六時間がかりで竹薮や雑木林を切り開いた。地元房日新聞社説に「地味ながら次第に市町村の枠を越えた住民の集いとなって、ユニークな活動」と取り上げられた。その後草刈りだけでなく、案内板や説明看板を設置して見学コースの整備を図り、市民や子供が気軽に立ち寄れる遺跡に努めているところである。
二つめには、5月に入り保存運動一周年を迎えたので、市民に保存運動と稲村城を再認識してもらう機会として、手作りの企画展「わたしたちの稲村城跡大発見フェア」を市の施設で七日間開催した。公募した里見氏や稲村城に関わる絵画・書・詩・写真などの創作をはじめ、里見氏や城郭の歴史、稲村城跡の立体模型(縮尺1/625)・イラストの展示、さらに史跡化のための資料や保存運動の経過や活動を報告した。500名近くの来場があったが、会員には改めて運動の意義を学習する場になっただけではなく、会員間の交流が図られたので、運動の継続にとっては大きな役割を果たした。
三つめに、引き続き講演会や現地見学会、「里見の道」ウォーキングを実施しつつ、さらに5回にわたる最新の里見氏研究を学ぶ「房総里見氏」講座や、稲村城跡ガイド養成のためのボランティア・ガイド講座の実施、夏休みには子供たちを対象にした「ウォークラリー稲村城跡わんぱく探検」を開催した。毎月何らかの行事があり、その都度地元新聞で参加を呼びかけ、時には案内ビラの配布や新聞の折り込みなどで対応した。
そして四つめに、請願書採択に関わる運動の山場に、再び川名登氏や佐藤博信氏、峰岸純夫氏らをはじめ研究者・専門家の協力を仰いで、盛大なシンポジウムを開催した。「里見氏再考-里見氏の実像に迫る」と題したシンポジウムでは、我々の保存運動の地域での役割と、この間の専門研究の進展を紹介することができた。報告からは、文献史料が少なく推測の域も多い里見氏研究が研究者の集中的な取り組みによって、着実に前進し深化している印象をうけた。研究成果は安房の歴史的文化的環境の解明につながり、さらに活発な地域史研究を生み、いま地域に根ざして取り組んいる文化活動の展開と相まって、今後史跡化をめぐる行政当局との協力関係をつくるうえで、重要な役割を果たすと予感させた。
【6】むすびに
地道に地域に根ざす文化活動を取り組んだここ1年間の保存運動は、2年間にわたる運動の結実したものとして評価され、運動が継続していることの意味をアピールした。それとともに、地域文化の保存・再生には、地域に根ざす文化運動が大切なこと、それが保守的な地域社会の変容させる契機になることも示した。地域から生み出された市民の主体的な文化活動は、遠いようで確実な保存運動として、結局は請願書審査をする文教民生委員会に対して信頼感を高め、12月市議会での全会一致採択に至った。9000筆近い署名と歴史関係学会をはじめ学者研究者の支援のなかで、請願書は採択され、そして稲村城跡は残ったのであった。
いま私たちは前途に困難な状況も予測されるが、次の史跡化にむけて歩みだしている。21世紀を目前にして、安房での稲村城跡保存運動は、地域による文化再生の力を示しただけではなく、この地域にも変革の波が押し寄せていることを感じさせた。