つなぐ 戦後75年
終戦2週間後 館山に上陸
米兵は短パンでやってきた
目撃の男性ら 歴史語り継ぐ
東京新聞・夕刊2020.7.29‥⇒印刷用PDF
一九四五年の終戦から二週間後、米軍が千葉県館山市に上陸した時の状況を後世に残そうと奮闘する二人がいる。元市教育長の高橋博夫さん(九二)と、航空自衛隊元空将の利渉弘章さん(八二)だ。自身の遠い記憶と米軍資料を突き合わせながら、館山から始まった「戦後」の軌跡を見つめている。
(木原育子)
「米軍は上半身裸で日本にやってきた。腰に拳銃を着け、緑色のショートパンツ姿でね」。高橋さんは四五年八月三十日に双眼鏡から見た衝撃を覚えている。
高橋さんの自宅は館山湾を見渡せる高台にあり、進駐軍と折衝する館山終戦連絡事務所の外務省関係の待機場所になっていた。「『ええーっ』と皆で驚いた。日本はあんな格好をしている国に負けたのかって」
幼なじみの利渉さんは高橋さんお記憶を裏付けるため、米海軍歴史センターなどで公開されている膨大な資料を分析。最初に上陸したのは海兵隊で危険物を処理する特殊部隊の水中爆発犯(UDT)だったことを突き止めた。「要塞の無力化を確認することは軍として当然。極めて慎重に掃海、偵察をして上陸したのだろう」と推測した。
資料からは、その三日前の八月二十七日、相模湾に停泊していた米戦艦「ミズーリ」に日本の海軍士官を呼び寄せ、東京湾へいかに混乱なく侵入できるかパイロット(水先案内人)会議を開いていたことも判明。米軍は翌日に富津岬(千葉県富津市)の砲台を壊した後、神奈川県横須賀市で百十六人の海兵隊員を乗艦させ、館山に上陸したことも分かった。高橋さんが見た米兵はこの隊員たちとみられる。
利渉さんはUDTの行動記録に「find the Japanese to be friendly(日本人は友好的だ)」との記述を見つけた。「米軍は最初に降り立った館山で日本を学んだ。混乱なく占領政策が進められた要因の一つでは」と分析する。
高橋さんは当時、自宅近くで歩哨が立っていた米兵に思い切ってあいさつしたことを覚えている。鬼畜と教えられてきたが、「極めて紳士的だった」。
米兵と仲良くなった高橋さんは十月のある日、当時勤めていた国民学校に招いた。テキサス州出身という米兵に世界地図を見せ、州の場所を質問すると、米兵は英語のつづりが分からなかった。「兵隊の中には教育ヲ受けていない人もいるのだろう」と感じたという。その年の秋ニは日本文化に興味を持つ米士官二人を自宅に招待し、親睦を深めた。地域の病院で始まった米兵講師による英会話教室にも通ったという。
高橋さんは「負の遺産だ」と教壇で戦時の話をあまりしてこなかった。利渉さんも九四年に自衛隊を退官するまで職務にまい進。だが、地域の語り部も少なくなり、二人は請われれば当時の状況を話すようにしている。その日々の積み重ねが「平和の尊さ」につながると信じて・・・。
(写真)
上=終戦直後の1945年8月28日、旧日本軍の武装解除のため富津岬に上陸した米海兵隊。上半身裸の米兵が写っている。
下=前日の27日、日本の海軍士官(右から2人目)を呼んで戦艦ミズーリで行われたパイロット会議=いずれも米海軍歴史センター提供
(写真)
終戦直後の様子を話す高橋博夫さん(右)と利渉弘章さん=千葉県館山市で