戦跡を訪ねて2019
謎に包まれた要塞、赤山地下壕跡
(毎日新聞2019.8.12付)‥⇒印刷用PDF
館山市の中心部から南西に約3キロ、館山湾に面した海上自衛隊館山基地の南に赤山はある。その標高61メートルの小高い丘にトンネルを縦横に掘って地中要塞(ようさい)が築かれた。旧海軍館山航空隊の赤山地下壕(ごう)跡だ。現在は年間3万人を超える見学者が訪れ、地域の「平和教育」の拠点となっているが、掘り始めた時期や狙いといった軍の記録は一切残っていない。多くの謎に包まれている地下壕に足を踏み入れた。
アーチ状のトンネルに入ると、連日の暑さを忘れるひんやりとした別世界。電球が茶褐色の壁面を照らす。ツルハシによる素掘りの跡がそのまま残っている。天井の高さは2〜4メートル。付き添いのガイドの説明によると、入り口近くにある広間はディーゼル発電機を置いて発電室として使われていた。そこから枝分かれするようにトンネルの回廊が続く。
並行する3本の主通路と、それを網の目状に結ぶ連絡通路。総延長は約1.6キロとされるが、一般開放されているのは照明設備が整った250メートル部分だ。
これほど大がかりな地下壕でありながら、戦後60年あまり、市や地元の人たちに「中に入るのは危ないから」と放置された。その間、県外出身の二人が地下壕の保存に貢献していた。
一人は1960年ごろから壕の入り口に「向後種菌研究所」の看板を掲げ、約40年間も壕内に住み、キノコ類を栽培していた向後精義さん(2001年死去)。茨城県出身で旧日本海軍の「731部隊」(関東軍防疫給水部)に所属していたとされる。もう一人は、北海道出身で館山の高校で社会科教師を務めていた愛沢伸雄さん(67)。戦争遺跡の調査の一環で90年代初めに地下壕に足を踏み入れ、向後さんと出会った。「最初は『勝手に入るな』と怒られたが、向こうも許可を取っているわけではないから、打ち解けることができた」と振り返る。
やがて愛沢さんの調査によって戦跡としての評価が高まり、市は02年に壕の内部を初めて調査。その3年後に史跡に指定した。
現在、NPO「安房文化遺産フォーラム」代表をつとめる愛沢さんは「今わかっている赤山地下壕跡は全体のほんの一部。道路を隔てた東側と旧洲ノ埼航空隊の隣接地には、より大規模な地下壕がある」と指摘する。
気の遠くなるほどの人手と労力をかけたであろう赤山地下壕跡。軍はどこから大量の作業員を集めたのか。トンネルを出て、夏の暑さを感じながら、当時の光景を思い浮かべた。
【中島章隆】
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終戦から74年。戦禍を体験した人は年々少なくなっているが、各地に今も、戦争の記憶をとどめている。関東各地の戦跡を巡り、苦難の時代を追憶する。=随時掲載
【アクセス】
赤山地下壕跡(館山市宮城)へは、JR内房線館山駅から日東交通の館山航空隊行バスに乗り、宮城バス停下車、徒歩3分。毎月第3火曜日休み。入壕料は一般200円、小中高生100円。問い合わせは豊津ホール(0470・24・1911)。
⇒館山市