



2日間たいへんおせわになりました!
ありがとうございました☆
みんなとても勉強になったといって喜んでくれていたので、自分としてはうれしかったです。
今回は前回さんまとで館山に来たときより、濃い学びができたと思っています。
今回とっても感じたことは、「自分の地域を知り他者と繋がることができる」ということでした。
四面石塔から京都とつながり韓国の人々とも繋がることができる。
そのほかにも人とのつながり、地域同士とのつながりをとても感じました。
それも、自分の地域を知っていくことで開けてきているものだと思いました。
前回は平和等じっくり考える機会にもなり、地域で生きることに感動していたことを覚えています。
それと並ぶかそれ以上の学びができ、とてもいい旅行だったと思いした。
ありがとうございました!
【追伸】2009.3.14
千葉大学を卒業し、現在小学校5年生の担任をしています。
周りの先生についていくのがやっとです。
もう少し偉くなったら館山の社会科見学など提案していきたいと思っています^^;




【日時】2007年8月28日(火)13:30〜15:30
【会場】小高記念館
【講師】吉田昌男さん(NPO会員)
【テーマ】世界の海をめぐった元マグロ船機関長の話


■山口醇
この度は、館山市の戦争について御教授いただき、まことにありがとうございました。館山市は僕も幼い頃からときどき行っていましたが、風光明媚な中にあのような戦争遺跡があったことに大変驚きました。戦争と平和のことについてじっくり考えることができ、とても充実した時間となりました。心よりお礼申し上げます。
■大畑俊英
先日は安房の歴史を聞いて、昔いろいろな事件が起きて、今は存在しない基地や建物があったことを知りました。僕は千葉県に住んでいますが、今回初めて館山市に行きました。現在住んでいる木更津市にも歴史がありますが、館山にも歴史があるのだと知り、さらに詳しく知りたいと思います。
僕は先生の解説や様々な戦争遺跡を見学して、赤山地下壕に興味を持ちました。当時の様子を詳しく聞いて、何も知らなかった事に驚きました。それと同時に、もっと沢山の事を知りたいと思いました。
今まで小学校5年生の時に近所の元先生に戦争のお話を聞いたぐらいで、あまり今回のような体験をする機会がありませんでした。これからは、資料や記録フィルムや講話などあれば、積極的に耳を傾けたいと思います。暑い中、大変お世話になりました。ありがとうございました。
■立花
先日は、南房総の戦争遺跡についてお話をしてくださり、赤山地下壕などの戦争遺跡を案内してくださり、ありがとうございました。下調べではわからなかったことや実際に行って疑問に思ったことが解決できました。皆さんが熱心にお話されているのを見て、ぼくは全国のいろいろな戦争遺跡を調べてみたくなりました。ありがとうございました。
■□□
先日は暑い中案内していただいてありがとうございました。館山に住んでいる同級生がうらやましくなりました。おもしろいお話ありがとうございました。大変役に立ちました。
■□□
今回は分かりやすい説明、ありがとうございました。戦争中の記録が私の住んでいる鴨川市にも残っていたということにはとても驚きました。館山市を歩いて、当時の様子を想像することが出来ました。とてもいい経験になったと思います。
■顧問=田口正範
先日は事前の勉強もままならない中、少人数の倶楽部員を御面倒頂き、有難うございました。本校の部活動は、全体としてはそれ程活発ではなく、しかも遠方各地域から登下校している為、なかなか活動日がとれません。そうした中、今回お邪魔した三年生が立ち上げた部活動です。週一回しかも二時間の集まりでやっています。まずは、自分の興味あることから始めないと続かないだろう…ということで、各自のテーマをまずは追求!探究していく方針でやらせています。(中略)さて、当日は一時間の座学では、本当に充実した内容で大変勉強になりました。昨今、活字以外の画像にしても動画にしてもネット等を通じて身近になっていますが、やはりそれだけでは人間味がありません。その人の持ち味のある解説あっての資料・史料が生きてくるものと信じます。先生のお話ぶりも分かりやすく、しかも多方面に広がり、歴史の深さを感じるものでした。(中略)実際の資料を見るのはそれはそれで勉強になるのですが、一つ一つの説明がないと「あ〜これネ」で終わってしまいます。その場その場での質問にも丁寧に答えて頂き、さらに子ども達の会話からまた話を拡げて頂いたり…と、分かりやすいお話に子ども達も満足感いっぱいで充実したフィールドワークだったと思います。今年の夏は、後半になってすばらしいプレゼントを頂いたようです。我々プロであるハズの教員は、さらに高いレベルの研鑚に励む必要がまだまだあることも痛感いたしました。重ね重ねありがとうございました。あらためて御礼申し上げます。最後となりましたが、安房文化遺産フォーラムの一層の発展、ご活躍を御祈り申し上げます。



(朝日新聞2007年08月18日付)
62年目の記憶⑤
足運ぶ想像力
・平和学習に活用
・肌で感じる傷跡
・身近な所に点在
(写真)
館山市の戦争遺跡のガイドを務めている愛沢伸雄さん(左)と池田恵美子さん=14日、館山市にある遺跡「掩体壕(えんたいごう)」で
今月14日、房総半島南端の館山市を訪ねた。
海上自衛隊館山基地近くの海岸には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたロープが張られていた。
「米軍は、この海岸から初めて本格的に本土に上陸したんです」
同行してくれたNPO法人「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」理事長、愛沢伸雄さん(55)がそう教えてくれた。
62年前の1945年9月3日午前9時20分。3千人を超える占領軍本隊の米陸軍第8軍第11軍団が、目の前のロープの先の海岸から上陸した。
朝日新聞は翌日の紙面で報じた。「連合軍米第八軍の一部カンニングハム代将下一個連隊約三千は三日午前九時二十分より館山に上陸を開始」
その前日の9月2日、東京湾上の米国の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵外相(当時)が出席し、降伏文書調印式が行われたばかりだった。
◇
東京湾の入り口に位置する館山。東京湾要塞(よう・さい)地帯の指定を受け、館山海軍航空隊など多くの軍事施設が置かれた。戦争末期には本土決戦に備えて特攻基地の配置が進んだ。軍の要塞と化したのだった。
戦後、たくさんの戦跡が残されたが、長い間放置されたままだった。
「戦跡を地域教材として活用できないか」。社会科の高校教諭だった愛沢さんは93年から調査研究を始め、04年にフォーラムを立ち上げた。
14日は、同フォーラムの事務局長を務める池田恵美子さん(46)も一緒に戦跡を案内してくれた。
海自館山基地の南側の標高約60メートルの小高い山の中に、総延長約2キロの旧館山海軍航空隊「赤山地下壕(ごう)」があった。
ひんやりとした中、天井の電灯を頼りに奥に進む。懐中電灯を壁に向けると至る所にツルハシで掘った跡が残る。
軍の一次資料がなく、当時を知る人の証言も少ないが「戦争末期に本土決戦に向けて掘削されたのではないか」と愛沢さんは推測する。
赤山から車でさらに3分ほど走ると、住宅地の中に突如、コンクリートの建造物が現れた。
「掩体壕(えん・たい・ごう)」と呼ばれる格納庫だ。戦争末期、空襲から戦闘機を守るために作られた。
愛沢さんによると、住民や兵士たちによって約10カ所作られたが、現存しているのはこの一カ所のみ。「私有地なので戦跡として保存するのが難しい」のだという。
海軍航空隊の射撃場跡、海軍砲術学校跡、砲台跡……。館山には約50の戦跡が確認されているという。
愛沢さんは「戦跡は当時をいきいきと語る。歴史的想像力を育む場として、平和学習にふさわしい教材だと思う」と語った。
◇
6月22日。その館山を千葉女子高の1年生約300人が遠足に訪れた。約3時間かけて、赤山地下壕、掩体壕、米軍上陸地を訪ねた。
「千葉が第2の沖縄になるかもしれなかったとは思わなかった」「戦争がどんなものなのか、どんなことがあったのかを詳しく知りたいと思った」。そんな感想が返ってきたという。
行き先として、館山を提案したのは同高校の社会科教諭の楳沢(うめ・ざわ)和夫さん(50)。「千葉県歴史教育者協議会」のメンバーで、県内の戦跡調査に取り組んできた。
戦争の記憶は遠ざかり、戦争体験者は減っていく。体験を「聞く」のではなく、戦跡の現場に「足を運ぶ」。それが戦争を語り継ぐ有力な方法になるのでは。楳沢さんはそう考えている。
◇
60年以上前のアジア・太平洋戦争の記憶は遠くなるばかりだ。土地開発などで破壊されたものも多いが、私たちの身近な所に目を向けると戦争の傷跡を伝える遺跡はあちこちにある。それを「過去の遺物」ととらえるのか、それとも「過去を伝える語り部」と見るのか。
問われているのは、私たち一人ひとりなのかもしれない。(有近隆史)


62年目の記憶③
3.従軍慰安婦
(写真)石碑に花を手向ける人と天羽道子施設長(右端)=15日、館山市大賀のかにた婦人の村で
きよらのおとめ
つれさられ
なげきのなみだ
あともなく
8月15日夕、館山市の婦人保護施設「かにた婦人の村」の小高い丘に女性たちの歌声が響いた。
戦時下で従軍慰安婦として尊厳を奪われた女性たちの鎮魂の集い。20年以上にわたって毎年、敗戦の日に営まれてきた。
集いのあった丘の頂に「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建つ。
碑を建てようと周囲の心を動かしたのは、慰安婦だった過去を公に告白した女性だった。
◇
城田すず子さん(仮名)。
1921年に東京・深川で生まれ、10代で台湾・馬公に渡った。特要員と呼ばれる海軍の慰安婦となり、サイパン島、トラック島、パラオ島へと移ったという。65年の「婦人の村」の開所とともに入所し、93年3月に亡くなった。
「兵隊さんや民間の人のことは各地でまつられるけど、中国、東南アジア、南洋群島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄(もてあそ)ばれて足手まといになったら、ほっぽり出され。(中略)私は見たのです。この眼で、女の地獄を」
城田さんは「婦人の村」の施設長だった故深津文雄牧師に何通も手紙を書き、訴えた。
「城田さんの訴えをきっかけに、深津先生は慰安婦について調べました。そこで初めて日本人も外国人も慰安婦になっていたことを知ったのです。ショックでした」
現在、施設長を務める天羽道子さん(80)は振り返る。当時はまだ、慰安婦の問題は広く知られていなかった。
決して繰り返してはならない「事実の記録」として碑を建てよう。85年8月に木の碑ができ、1年後に石碑に変えられた。
除幕式には城田さんも車いすで参加した。天羽さんの目には、祈りをささげる城田さんの姿が焼き付いている。
深津牧師は00年に亡くなった。天羽さんはその遺志を引き継ぎ、今も週に一度の見学日には訪れた一般の人に石碑を案内することにしている。
「丘の上で話をしても、全く知らなかった、という人もいます。若い人に『なぜ従軍慰安婦がいたのか』『どうしてこんな碑があるのか』問い続けてほしい」と話す。
◇
東京・早稲田の「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で今、「中学生のための『慰安婦』展」が開かれている。
アジアの元慰安婦の女性たちの証言の中に、城田さんの話や手紙も展示されていた。軍関係の資料、慰安婦の記述をめぐり論争になっている教科書問題の説明もある。
事務局長の渡辺美奈さんは言う。
「歴史認識の違いや中学生に性がからむ問題をここまで教えるべきなのかという声もあるが、学生にも大人にもきちんとした事実を知ってもらいたかった」
wamは今年初めて、展示を見学に訪れた人に「婦人の村」の鎮魂祭への参加を呼びかけた。これをきっかけに、約20人が新たに参加し、入所者約40人と花をささげた。
wam運営委員長の池田恵理子さんは「8月15日はアジアを中心に世界7カ所で、慰安婦問題の解決を求める運動がある。勇気を出して声をあげた各国の被害女性と心を一つに、私たちも行動したい」と話した。
◇
歴史認識やナショナリズムの問題が絡んで、とりわけ、慰安婦問題を語る時、内外で激しい議論を巻き起こす。
7月末、米下院本会議が慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議を採択した。決議に弾みをつけたのは、旧軍が直接関与したという「狭義の強制性」を裏付けるものはないと主張した、安倍首相の3月の発言だった。
天羽さんは「慰安婦の体験を話す人たちは、思い出したくもないような事実を表現している。日本人はその声を本気で聞いていない」と思う。
館山湾を見下ろす丘の上の石碑が、過去と向き合うことの大切さを静かに語りかけているようだった。

