アフガニスタン・イラクと、アメリカのしかけた戦争に引きずられるように、日本の自衛隊派兵が拡大し、平和憲法の改正までもが堂々と公言されるようになりました。私は、日本がだんだん戦争を仕掛ける国へと変わってゆくようなこの流れに危機感を抱き、60年前の戦争について改めて考えてみようと思い、今回館山市で開かれたシンポジウムに参加しました。
振り返ってみれば、私は過去の戦争について学校で教わった記憶がほとんどありません。アメリカと戦争をして負けたこと、広島に原爆が落とされたことぐらいだったと思います。1985年私が二十歳のとき、そのころ横浜市に住んでいましたが、神奈川新聞に連載記事がのりました。私と同い年の在日韓国人二世の女性を追ったものでした。
なんで日本に生まれ育ち僕と同じ時代を過ごしてきたのに彼女は外国人登録証を持ち指紋押なつをしなければならないのか、なぜ彼女の住む川崎市には在日韓国・朝鮮人が多いのか、そんな疑問が過去の戦争の歴史を学ぶきっかけとなりました。その年はちょうど戦後40周年の節目のとしでした。当時は、戦争の傷跡を風化させてはならない、平和な社会を大切にしよう、そんな空気がマスコミにも社会にもあったと思います。(指紋押なつは1992年、永住者に限って廃止)
さて、シンポジウムに参加して初めて知ったことなのですが、館山市には47ヶ所もの戦争遺跡があり、さらに私の住む三芳村にもわが家から何㎞も離れていないところに、特攻機「桜花」のカタパルト発射台跡が残っているのです。
南房総は東京湾の入口にあたり、「本土決戦」が現実的な状況になってきた戦争末期に最も重要な地帯として位置づけられて、7万人に近い軍隊が配備され、さらには住民、学生、朝鮮人の強制労働も投入されて、燃料タンク基地、地下壕、航空機を隠す掩体壕(えんたいごう)、水中特攻兵器「海竜」基地、水上特攻艇「震洋」基地3ヶ所、魚雷発射基地4ヶ所、航空特攻機「桜花」発射基地などが建設され、8月15日の終戦までにすでにいつでも戦える態勢をほぼ終えていたということです。実はアメリカ軍は1946年3月1日に「コロネット作戦」と呼ばれる関東上陸作戦を予定していました。ですから、終戦がもし遅れたならば、房総半島南部は、1945年3月〜6月の3ヶ月間に日本兵約7万人、住民約1万人が亡くなった沖縄戦と同じ状況になったに違いありません。
房総半島で、本土決戦の準備が進められているのと同じころ、1944年10月に長野県松代(まつしろ)町(今は長野市)で延べ10キロあまりの巨大な地下壕の建設が始まりました。これは松代大本営と呼ばれています。大本営とは、戦時中に天皇が統師した軍の最高統師機関です。本土決戦に備えて、大本営と政府の主要機関を避難させる計画でした。そのうち天皇・皇后の居る場所は御座所と呼ばれて、一般には全く物のなかった時期に特別な建築材料が使われていました。終戦直前の1945年7月末には松代への移転の準備もできていましたが、実現しないまま終戦を迎えました。
前戦の兵士や住民を犠牲にして天皇や軍の指導者達はひたすら生き残ろうとした歴史的事実を示す場所として貴重な遺跡であるとの考えから、現在松代では保存運動と見学者へのガイド活動がすすめられています。
横浜市港北区日吉でも戦争遺跡の保存運動が行われていますが、マンション建設のため危機にさらされています。慶應義塾大学日吉キャンパスの下に延べ2.6㎞もの地下壕があります。地下壕とつながった地上の寄宿舎には連合艦隊の司令部が置かれ、地下の電信室では1944年9月から終戦までの海軍の作戦状況が手に取るようにわかっていたそうです。
慶應義塾では約3千人の学生が出陣して2千人以上が亡くなったといいます。
私たちは農業で暮らしています。農業は届けた作物を食べている人たちの平穏な日々を支える仕事だと思います。一方で年で暮らす人たちは、非常事態となれば日々の食事をとることさえ困難になることは、戦中戦後の歴史が教えてくれます(だからこそ現在の日本の食糧自給率40%は大変危ういことであって、年に暮らす人たちこそ、衰退する日本の農業の現実とこれからどうしたらいいかということを考えて欲しいと思うのです)。そんなわけで、農業の現場にいると戦争と平和について考えてしまいます。
過去の歴史事実と現在の政治の動向に無関心でいると、いつの間にか言いたいことも言えない世の中になってしまうのではないか、そんな心配をしています。皆さんも子どもたちの未来に責任を持つため、一緒に考えませんか。
今日は、時間もおしてしまい最後にきちんと
ご挨拶できずに失礼しました。
本当にありがとうございました。
斎藤さんも、とても人当たりの良い、感じの良い方で
初上陸も地下壕でも話し上手で、皆熱心に聞いていました。
実際、写真で見るのとでは皆受け止め方が違ったと思います。
参加者の感想にも、
「当時の人たちの思いを考えると今の幸せが尊いものに感じた。」
「行けなかった館山の戦跡にも、是非行ってみたい。」
「壕の中の広さにビックリした。」
などの意味のものが多くみられました。
親子で参加されて居ても、パパは会社。
だったりしているので、今日の報告を一生懸命して
家族の中で「平和」について話すキッカケになったと思います。
皆の中に強いメッセージが届いたと思います。
それも、館山と言う土地が身近な場所であると言う事も
大きかったと思います。
広島では8月6日は「平和を考える」一大イベントの様に
なっていますが、日本中がそうなんだと思っていた。と、
広島に住んでいた人が言っていました。
千葉に居ると、なんとなく広島の様子はTVで観るもので
地方の大きなお祭と同様に流してしまいがちです。
やはり身近な所に教材があり、体感してこそ
体に響いてくるのだと思います。
ちばコープとしても、今までは「広島・長崎の旅」として
平和を考えるステージを用意して支援してきましたが、
これからは、他にも平和を考える為の応援を広く考えて
支援していく方針に変わりました。
今回は八千代地域協議会でお願いしましたが
これからは、千葉コープのいろいろな所から
依頼が行くと思います。
どうぞ今回に懲りず末永くお付き合いください。
ちばコープを通しても、館山の戦跡が
広く千葉県内に伝わっていく微力ながら
力添えになれれば幸いです。
本当にありがとうございました。
これからも、お忙しいと思います。
貴殿の益々のご活躍をお祈り致します。
一昨日は大変お世話になりました。有意義な一日を過ごせまして有難うございました。
中学生の皆さんとご一緒出来、とくにこういったことこそ
大勢の子供や若者に関心を持って貰いたいと思うのです。
世界に不穏な動きのある今ですから、なお過去を正しく知ることが大切ではないでしょうか。
戦中戦後の日本を見てきた者として強く思います。
神作様とフェスティバルを見に行きまして、原爆の怖さを改めて感じました。
決して忘れはいませんけれど、近頃日本人は関心が薄くなっているような気がします。
展示が人通りの多い場所で出来るといいですね。
今日は御礼と感想まで申します。有難うございました。お元気でご活躍を祈ります。
NPOの大勢のガイドさんたち、鈴木さん、ホテルの酒井さん、松苗さん、愛沢伸雄先生ときちんとご挨拶もできずに失礼をいたしました。よろしくお伝え願えればと思います。
また今回の我々の校外学習を無事終えることができたのは、まさに池田さんのおかげと深く感謝しております。
岬高校は今日はいつも通りの平常授業でした。
各務先生の講演による事前学習、そして昨日の校外学習を終え生徒たちは何を感じとってくれたのか、この土曜・日曜で事後学習の感想文を書くことになっています。
事後学習のとりまとめが終わりましたら、ご報告いたします。
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いろいろお世話していただき、有難うございました。御陰様で良い研修になりました。
この研修は以前は教育講演会の名のもとに講師を呼んで学校でやっていたのですが、
昨年PTA会長になってかたちを変えました。
この企画は、昨年実施するつもりだったのですが、ご存じのとおりできませんでした。
しかし、今年でよかったと思います。妻も森田会長も言っていましたが、
現地NPOの方々が説明してくれた御陰でよく理解できたし充実しようです。
本当に感謝いたします。私も直に見てみたいと思います。
家族と出かけていきますのでその時はまた、よろしくお願いします。
来年度以降も、このかたちで実施していくように引き継ぎます。
沢山の人に事実を伝える必要があると思うし、子供たちにも良い刺激だと思います。