タイトル: | 〝平和・交流・共生〟の教育と地域づくり=『現代と教育』2009.6 |
掲載日時: | %2009年%06月%25日(%PM) %19時%Jun分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=401 |
・・*『現代と教育』誌№78・地域民主教育全国区交流研究会編・桐書房(2009.6.25発行)
日本列島を南北逆さにした「環日本海諸国図(富山県作成)」を見ると、千葉県館山市がその頂点に位置しています。いつもと視点を変えて眺めると、房総半島南部の「安房国(あわのくに)」は、太平洋に開かれた漁撈基地であるとともに、海路の拠点として世界とつながってきた歴史が見えてきます。また、さまざまな権力の影響を受けた地でもあり、ここに残る中世の城跡や近代の戦争遺跡(以下、戦跡)はその象徴といえます。
私たちの活動の原点は、これらを活かした教育実践と市民による文化財保存運動にあります。調査研究やガイド活動を中心に、南房総・安房地域の自然や歴史・文化遺産を活用した地域づくりを目ざし、2004年にNPO法人を設立しました。
足もとの地域を見つめ直してみると、戦乱や災害を乗り越えて生きてきた先人たちが培った〝平和・交流・共生〟の精神が見えてきます。この活動は、地域に生きる誇りや喜びを蘇らせてるばかりではなく、楽しい雰囲気がこの地を訪れる人びとにも波及し、新たなコミュニティ・ネットワークが広がっています。
『南総里見八犬伝』のモデル・房総里見氏は、9代にわたって安房国に君臨し、海の支配権を治めました。『八犬伝』にも実名で登場する里見氏城跡群は歴史遺産であり、豊かな里山としての自然遺産でもあります。
そのひとつ稲村城跡は、市道建設計画によって破壊されることになりました。着工の直前、「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げた市民は、地域の歴史・文化を学び、城跡のヤブや草を刈ってウォーキングルートを整備し、講演会やシンポジウム、フィールドワークなどを重ねました。10余年におよぶ運動は実り、市は道路計画の変更と稲村城跡の保存を表明、現在、国指定史跡に向けて調査検討がすすめられています。
東京湾口部に位置する館山市は、東京湾要塞の軍都として、航空母艦のパイロット養成を担い、真珠湾攻撃や渡洋爆撃にも深く関わり、戦争末期には本土決戦に備えて、陸海空の特攻基地や陣地が次々と作られました。終戦直後にはアメリカ占領軍が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれたこともすべて歴史から消され、語り継がれることはありませんでした。
高校世界史の授業実践に始まった戦跡の調査研究は市民の保存運動に発展し、歴史的重要性が見直されてきました。2004年、館山海軍航空隊赤山地下壕は自治体によって整備・公開され、翌年には市史跡に指定されました。ほとんどの戦跡は民有地や国有地に放置されたままですが、近代史を理解するうえで重要なものばかりです。特に館山の戦跡では、加害と被害の両面から戦争について学ぶことができます。歴史的環境をすべて「地域まるごと博物館」として保存し、教育や地域づくりに活用していくことを願っています。
戦後40年のとき、ひとりの女性が従軍慰安婦体験を告白しました。館山の長期婦人保護施設かにた婦人の村に暮らし、心の安らぎを得た彼女は、戦地で亡くなった仲間たちを弔ってほしいと願い出たのです。それを受け、声にならない苦しさを表す「噫(ああ)」という文字に鎮魂をこめ、施設内の丘の上に石碑が建てられました。
この石碑は韓国KBSのドキュメンタリー番組で取り上げられ、従軍慰安婦問題の発火点となりました。この碑の真下には戦争末期の本土決戦の抵抗拠点としてつくられた「128高地」地下壕があります。壕内に残る「戦闘指揮所」「作戦室」という額には「昭和19年12月竣工」と刻まれています。石碑と地下壕は施設内のため一般公開されていませんが、当NPOのガイドによる平和・人権研修のスタディツアーに限り、ご案内をしています。
(旧)千葉県立安房南高校では、このような地域教材を活用した平和学習が実践されてきました。女生徒たちは、地球の裏側で今なお戦禍に苦しむ女性や子どもたちの存在に心を痛め、ウガンダ支援を目的としたバザーや募金活動をはじめました。
支援活動は生徒会で代々引き継ぎ、ウガンダには「安房南洋裁学校」という職業訓練施設を設立しました。安房南高校は統廃合により姿を消しましたが、若者から始まった国際支援交流が続けられるよう、NPOでは呼びかけを続けています。
房総半島発祥といわれる「万祝」は漁師たちの晴着ですが、「USA」の文字と交差した日米の国旗が染められた万祝があります。これは、明治期にアメリカ西海岸に移住した房総アワビ漁師たちが製作したものです。
寒流のカリフォルニア州モントレー湾域に器械式潜水具を導入し、アワビ漁を可能にした日系移民たちは、アワビステーキや缶詰などの水産加工業を興しました。日米親善の架け橋として大きな役割を担ったものと思われますが、日米開戦後は砂漠の強制収容所に移送され、日本本土侵攻計画「コロネット作戦」の情報収集へと組み込まれていきます。一方、本土決戦防衛の最線であった安房に残された家族は、スパイとみなされないため、渡米に関する写真や手紙などは隠匿せざるを得ませんでした。近年、市民が地道な調査研究を続け、重要な歴史が次々と明らかになり、言葉の通じない二世・三世たちとの交流も始まりました。
国際交流の痕跡は、館山市大網の大厳院にある「四面石塔」にも見られます。東西南北の各面に和風漢字・中国篆字・朝鮮ハングル・インド梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、1624年に建立されているのです。
2002年には日韓共同研究シンポジウム、2005年「日韓友情年」には、韓国・浦項(ポハン)の児童20人を迎え「たてやま日韓子ども交流」を開催しました。「四面石塔」や戦跡などをめぐる歴史学習のほか、手づくり甲冑の着用や茶道などの文化体験、無人島探検の自然体験を通して友情を育みました。
奇しくも、韓国浦項市内には日本船の遭難記念碑が建っています。後に東京水産大学(現東京海洋大学)となる水産講習所の初代練習船「快鷹丸」は、館山沖を訓練地としていましたが、1907年に朝鮮海域で遭難しました。4名が殉難、生存者は漁民たちに救助され、後年供養碑が建てられました。しかし戦時下に倒され、土中に埋没したのですが、1971年に心ある浦項市民らによって掘り起こされ、日韓共同で碑の保存が続けられてきたといいます。
私たちは遭難100年を記念して参詣訪問し、現地の漁師たちとの交流を行ないました。竹島にも近い最東端の岬に暮らす漁師たちは、「海に生きる男同士は、国境や政治にかかわりなく、助け合って生きていかなければならない。その友情の証として、我々は記念碑を守り続けるのです」と語りました。
館山にも遭難供養碑はたくさんあります。戦跡同様、平和を学ぶ教材として、碑にこめられた想いを語り継いでいきたいと願っています。
館山市最南端の富崎地区は、明治期よりマグロ延縄漁で活気に満ちた小さな漁村で、青木繁の《海の幸》は、1904年にこの地で描かれました。青木繁が滞在した網元の小谷家住宅は、明治20年代の漁村を代表する建造物として価値が高いことが判明、現在、館山市文化財審議委員会にて指定文化財の審議がすすめられています。
水産業の衰退に伴って急速な少子高齢・過疎化が進んだ同地区の小学校は15名となりましたが、漁村が誇る「3つの〝あ〟」=①青木繁《海の幸》②「安房節」③アジのひらき=をテーマとしてふるさと学習を実践しています。私たちも富崎地区コミュニティ委員会と連携してまちづくりに取り組み、2008年秋、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」を発足しました。
⇒(2008年に館山市指定文化財になり、2016年に青木繁「海の幸」記念館として公開されました。)
足もとの物語を知ることは、自分の暮らすまちへの愛情と誇りが育まれます。現在、当NPOでは年間約150団体のスタディツアーを迎え、延べ5千人近い来訪者に対して講演やガイド活動を提供しています。中心を担うのは、定年後の生きがいを見出したシニア層です。交流文化の醸成が、地域に対する誇りや愛着を育み、少子高齢化社会のなかで豊かなコミュニティを創造し、雇用の創出の一助になればと願っています。
スタディツアーガイドは10人以上の団体対象で、1人1,500円から。座学、ガイドブック付。
問合せ=0470-22-8271。