戦中・戦後の医療体制と図書館を考える
=NPOの戦跡ガイド活動に参加して=
関和美(NPO法人安房文化遺産フォーラム)
『子どもが主役になる社会科』2015千葉県歴史教育者協議会
1.はじめに:戦争遺跡のガイド活動をしている中で
房総半島南部に位置する千葉県安房地域は、館山市・南房総市・鴨川市・鋸南町の三市一町で構成される(図1)。海に囲まれ、丘陵・田畑などの自然に恵まれ、温暖な気候であり、都会からの移住者も多い。しかし一方で、少子高齢過疎化が深刻であり、学校の統廃合が進んでいる。また、一次産業の衰退や大規模工場の閉鎖などにより雇用の場も少ない。
私が所属するNPO法人安房文化遺産フォーラムは、戦争遺跡などの文化遺産の保存・活用を通じて教育とまちづくりを図っている。生まれ育ったまちであるのにもかかわらず、明治期より転地療養の地であったことなど、活動を通じて改めて地域の歴史文化について知ることも多い。
私は、鴨川市にある病院の図書館に勤務している。病院図書館とは、医師・看護師・薬剤師・検査技師・リハビリテーション技師や事務職員といった病院の全職員が、臨床現場(病院)や研究資料として使う情報を収集するための(医学)図書館である。
2011(平成23)年、病院図書館の研修会で沖縄県を訪れたとき、戦後の医療復興と、医学教育における図書館の重要性について学んだ。戦跡ガイドとして活動している私は、沖縄での学びが契機となり、「戦中・戦後の医療と図書館」に注目し、調査をはじめた。今回は特に、「安房地域を中心とした戦後の図書館活動・文化活動」について報告する。
2.戦前・戦後の図書館
安房地域の図書館について触れる前に、まずは全国的な流れを紹介したい。戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のもと、民主化をすすめるためさまざまな改革が行われた。その一つが、CIE(民間情報教育局)による教育改革である。教育の一環として、映画の製作・上映も行われた。日本で制作されたCIE映画の一つが、『格子なき図書館』である。この映画が公開された1950(昭和25)年には、「図書館法」が制定されている。
現在の図書館は、誰もが自由に資料を手に取り、利用することができるが、この映画によると、1950年以前の図書館は、格子(金網)がある図書館が主流であった。閲覧を希望する図書を、格子の奥にある書庫から図書館員によって出してもらっていた。現在の国立国会図書館のように、図書のすべてを図書館員に出してもらっていた、といえばわかりやすいだろうか。現在では、図書の情報・目録がデータベース化されており、探すことが容易になってきている。なかには、インターネット上で見ることのできる図書もある。昔は、カード式の目録を使用しており、直接図書館に足を運び、カードを一枚一枚めくりながら目的の図書の情報を探さなければならず、時間がかかった。希望の図書を、図書館員によって書庫から資料を探し出してもらい、手元に届くまでには、さらに時間がかかるという状況であった。 図書館法ができ、この映画が公開されてから、『格子なき図書館』となるまでには、長い月日がかかったとされている。
この映画の中では、児童室でお話を聞いたり(読み聞かせ)、絵を描いたりする子どもたちの笑顔や、図書館運営の話し合いに市民が参加しているシーンが映し出されているのが、印象的である。この映画で注目すべきは、千葉県で行われた先進的な取り組み、「ひかり号」について取り上げられていることである。「ひかり号」とは、1949(昭和24)年より、千葉県立中央図書館が農村や漁村へと図書を届けるために走らせた移動図書館車の名称である。そして、当時、県立図書館長であったのが、廿日出逸暁(はつかで いつあき)である。
『格子なき図書館』は、2014(平成26)年に発行された『映像でみる戦後日本図書館のあゆみ』というDVDに収録されている。これは、図書館史を語るうえで重要な資料であるため、全国図書館大会100回大会を記念して、出版されたものである。今回、このような貴重な映像に触れ、戦前と戦後の図書館についての理解をより深めることができた。そして、歴史文化を守り、伝えることの大切さについても学ぶことができた。
3.戦中の図書館
戦中の図書館の様子を紹介する。1944(昭和19)年、東京都立日比谷図書館(現、千代田区日比谷文化館)では、中学生たちを勤労動員し、奥多摩地域の土蔵に図書を疎開させた。そのことにより、図書が戦禍を免れたという話がある。この歴史的事実に基づいて描かれたドキュメンタリー映画が、『疎開した40万冊の図書』である。図書の疎開は、1944(昭和19)年から各地の図書館や学校図書館などで行われていた。戦争中、命がけで図書を守ろうとした図書館員たちがいたのである。
当時の日比谷図書館長は、中田邦造であった。彼は、疎開を始める前年の『図書館雑誌』に、「文献の防護対策」という文章を残している。この年の10月から実施された「学校防空指針」の総則第一項には、「貴重なる文献、研究資料及び重要研究施設等の防護」という項目が、挙げられている。このことに基づき、文化財保護の事例を参考にしながら、文献をどう防護していったらよいかという考察が述べられている。この文献は、戦争中、図書の疎開が行われた意味や、図書など文化的価値あるものの保存方法を考える上で、重要な文献である。
4.館山市(町)の図書館と医療
『千葉県図書館史』によると、1928(昭和3)年11月、館山町立図書館が開館している。その後いったん閉鎖し、館山市立図書館として1943(昭和18)年8月、館山駅前に開館している。駅前には、老舗の書店もあった。1935(昭和10)年から1945(昭和20)年までに、千葉県内に設置された公私立図書館は32館あった。そのうち1943(昭和18)年に設置されたものは、館山市立図書館も含め19館であった。このことに関し、『千葉県図書館史』には「国民精神総動員、時局対策に呼応して」図書館が設置されていったと書かれている。1944(昭和19)年には、西岬村(のち、館山市に合併)にも図書館ができている。そして、図書館を持ち続けることができず、24館が廃止されていったという。そのような時代に、日比谷図書館などでは、図書の疎開がおこなわれていたのである。1943(昭和18)年にできた館山市立図書館に置かれていた資料の種類、利用制限の有無、図書の疎開の有無などはわからない。『千葉県図書館史』で、館山市立図書館の紹介箇所に書かれているのは「兵士のために設置(開館)した」ということだけである。この書籍によると、廃止以外の図書館も、事実上廃止に等しい状態で、終戦を迎えていたのではと推測されている。館山市立図書館は廃止館のリストに入っていないが、終戦時どのような状況であったのか、今後も調査を続けていきたい。
館山市立図書館の歴史の中で、私が注目をしたのは、1957(昭和32)年より川名正義(1903〜1983)が非常勤で図書館長をしていたことである。川名正義(図2)とは、1891(明治24)年に開院した館山病院の3代目院長をしていた医師であり、安房医師会長や千葉県医師会長をつとめた人物でもある。彼は、『安房医師会誌』の編集委員長もしていた。
『安房医師会誌』は、1959(昭和34)年に編集を決定、副委員長は原進一、他に10名の委員が委嘱されたそうである。そして、長い年月をかけ、1974(昭和49)年に発行された。川名正義の書いた序文には「長い歴史を有する安房医師会の資料が少なく、新しいものでも散逸し廃棄されて、古老も少なくなってきている。このままでは医師会の歴史や先人の功業も消え去ってしまう。その不安から『安房医師会誌』が編集された」とある。この文章は、歴史文化を記録として残すことや、守り伝えていくことの大切さを教えてくれているように思える。そして、医師川名正義がなぜ図書館長をしていたのかを考えるうえでのヒントも、含まれているのではないかと思える。
5.鴨川市(町)の図書館
『安房医師会誌』の副編集委員長となったのは、原進一(1891〜1966)である。彼もまた、安房医師会長をつとめた経験もあり、鴨川町(現、鴨川市)で図書館長となった人物である。また、『千葉県図書館史』によると、社会教育委員や鴨川文化協会の会長もしていた。戦後の文化活動、特に社会教育に図書館の必要性を痛切に感じ、当時、千葉県立中央図書館長であった廿日出逸暁と懇談した、とも記されている。鴨川町では、1948(昭和23)年に鴨川町立図書館(仮の鴨川町立図書館は、前年に開館)、県立図書館の分館(安房分館)が開設した。さらに、1956(昭和31)年には、先述の県立図書館の移動図書館車「ひかり号」が、鴨川町への巡回を開始している。
鴨川町における「ひかり号」の巡回開始と同年の1956(昭和31)年、鴨川町立図書館でも各種団体へ向けた巡回文庫を開始している。鴨川町立図書館の機関紙『鴨川』によると、1965(昭和40)年の町立図書館の巡回場所に、農協や婦人会、そして、東条病院や亀田病院(現、亀田総合病院)があったという。『病院図書室デスクマニュアル』の「患者図書サービス」によると、1960年代より入院患者への図書サービスが開始されたとあり、時期的に重なる。巡回文庫の内容について、現時点ではわからない。この件に関しては、今後も調査を重ねていきたい。
「ひかり号」が走り始めた1949(昭和24)年、安房郡鴨川町や同町の県立長狭高等学校を会場に、東日本学校図書館講習協議会が開催されている。これは、前年に刊行された『学校図書館の手引き』の周知徹底と、指導者養成を目的とした講習会である。講習協議会には、23都県より約350人が参加したという。そして生徒は、「文部省・県・戦勝国アメリカの軍政部担当官が来た」と書いている。軍政部担当官が来たということは、これもCIEの教育改革の一環なのであろうか。
なぜ、東日本の開催場所として鴨川町が選ばれたのであろうか。『千葉県図書館史』によると、1927(昭和)2年に、曽呂村(現、鴨川に合併)に私立の安房農業図書館が設置されている。また、1935(昭和10)年から1945(昭和20)年までに、現在の鴨川市にあたる地域に、国民学校・青年学校に併設されたものも含め7つの図書館が設置されている。このことも、講習協議会の鴨川町開催と、関係があるのだろうか。
講習協議会の開催に向け、長狭高校が学校図書館を作り上げていった様子は、当時の生徒や教員によって、『創立五十周年記念誌』に書かれている。図書館の整備は、1946(昭和21)年暮れ頃から行われていた。同校卒業生(卒業当時は、県立長狭中学校)の教員は、「在校当時多少の書物はあったはずなのに、戦災を受けなかった学校図書がなくなっていることに驚いた」と書いている。しかし、教員用の図書はあったようで、「教頭にお願いして生徒用図書室へ移した」という。翌年、図書の閲覧を開始すると、図書室は利用者で大盛況だったそうで、「読書や勉学に飢えていたのかも」と当時の生徒は振り返る。戦争中や、戦争直後の学校図書館の様子がわかるエピソードである。また、図書館を充実させるための資金を得るため、教員・生徒が卒業生とともに近隣で移動映写会を開催したそうである。また、講習協議会に向けて、東京へ図書の買い出しに行ったとも書かれている。
また、『創立五十周年記念誌』の図書クラブの紹介箇所には「図書館の仕事に携わるものはいろいろな文化的教養が必要だというので方々へ見学に出かけた」「当時有楽町にあったCIEの資料センターにも何回も行っている」という記述がある。他校の文化祭、公共図書館を含めたほかの図書館、博物館、史跡見学などをしていたとも書かれており、興味深い。
『創立五十周年記念誌』の学校図書館づくりに、原進一という名前は出てこない。1956(昭和31)年まで2年間校長をしていた林田武雄の「思い出」という文章に、「当時役員の中に比較的医師の方が多かった。田村会長等は別だが、鈴木、野村、島川、小田、劒持、原、亀田、その他の諸先生方又医に縁のある薬局の古川さんらである」とある。ここにある原というのは、おそらく原進一であろう。学校図書館づくりではないかも知れないが、学校の運営に関わっていたということが読みとれる。
6.原進一と図書館
原進一(図3)は、1891(明治24)年、千葉県長狭町大幡(現、鴨川市大幡)に生まれ、吉尾村立小学校高等科2年を終了、県立安房中学校、仙台第二高等学校へと進み、東京帝国大学医学部医学科を卒業している。その後、神田の杏雲堂醫院や東京大学法医学教室を経て、1930(昭和5)年に、鴨川市前原で開業をしている。このことは、1965(昭和40)年に発行された『長狭町大幡部落誌』「入りの御医者様」、『安房医師会誌』「安房の先人医家 原家」に書かれている。この2冊の大きな違いは、『長狭町大幡部落誌』には、1964(昭和39)年『千葉日報』に掲載された原進一の紹介記事の一部が転載されていることである。
『千葉日報』の記事には、「館庭に草花を植え」とある。現在の図書館は、当時と違う場所にあるものの、建物の前には花壇がある。また、鴨川市立図書館では、子ども司書講座を行っているが、この講座内容の一つに、「花壇の草取りや花植え(環境整備)」という項目がある。ほかにも、「忘れられ、四散してゆく民俗資料、行政資料を集めての展示室の開設」とあるが、現在の図書館では、玄関の正面突き当りという一番目を引く場所に、郷土資料室・ふるさと文庫のコーナーがある。そして、図書館に隣接した場所には、郷土資料館・鴨川市文化財センターがある。これらのことから、原進一の思いが今も受け継がれている、といえるのではないだろうか。
原進一は、1965(昭和40)年2月に発行された『鴨川』創刊号に、図書館長、そして文化人として何をしたかったのか、感じ取ることができるような文章を二篇残している。
一つ目が、図書館主催の清澄山(東大演習林)・嶺岡山で行われた、「科学ハイキング」についてである。この行事について、「鴨川の動植物を知っている必要があると思いハイキングを行った」と書かれている。そして、「図書館としては、集めた標本を整理し、鴨川周辺の自然が一目で判るよう郷土自然標本を作る予定」とも書いている。原進一は、鉱物動植物も「郷土資料」ととらえていたのでは、という推測ができる。
もう一つが「白河楽翁」。福島県白河市の南湖公園を見学した際に、地元の老人に湖のことを尋ねたところ、湖の由来や松平楽翁公のことなどについて、詳しく話をしてくれたそうである。そして、「その知識に驚き敬服した」と書かれている。この文章によると彼は、鴨川を観光地として売り出すために、市民に郷土の知識を持ってもらいたいと考えていたようで、この「敬服した」体験を、記録として文章に残したようである。
1965(昭和40)年5月に発行された『鴨川』第2号の「古文書調査について」には、「資料は日を追って散逸し、これを放置すれば収集不可能な状態になり兼ねない現状である。私はこれ等、古文書を所有、或は保管する方々の賛同を得て、一括し完全に近い保管をして、時間をかけ、精細な研究すべきだと考えている」と書かれている。この文章によると、保管するためには特殊な設備が必要であるが、そのためには費用がかかり、早急にというのは難しいと感じていたようである。そのため、「古文書を所有している場所、種類、数量を記録して後日に備えるための調査を始めた」と書いている。この文章からも、図書館長としてやりたかったことを読み取ることができる。
7.『須永家文書』①鴨川文化協会と医療
インターネットを用いた調査の過程で、県史収集複製文書として『須永家文書』というものが、千葉県文書館に所蔵されていることが判明した。この文書は、原進一の関わってきた文化活動 に関する日記、新聞記事、書簡、チラシなどが貼られたノートである。ここからは、その『須永家文書』の内容について触れていく。
原進一が、鴨川文化協会を結成した1941(昭和16)年の「鴨川文化協会趣旨」には、「大政翼賛会組織局文化部」という文字が見える。『鴨川市史 資料編Ⅱ』には、1946(昭和21)年の「鴨川文化協会趣旨」が掲載されている。これは、「昭和21年町村会関係文書綴・旧東条村役場文書」にあったものであると記されている。1941年版の実践要綱第一項目は「敬神崇祖並に国体明徴」とあるが、1946年版の第一項目では「欧米文化の紹介」となるなど、内容に異なる点もある。それぞれの時代において、文化活動がどのような意味を持っていたのか、その一端を知るための貴重な資料であるように思える。同じ実践要綱の、1941年版には「保健衛生の問題」、1946年版には「保健衛生の促進」という項目がある。言葉は違うものの「保健衛生」という項目が挙げられているのである。私は、なぜ医師原進一が、文化や図書館に関心を持ち活動をしていたのか疑問に感じていたのだが、この項目に、その答えが隠されているのかもしれない。
千葉県文書館の目録には、1943(昭和18)年7月から1946(昭和21)年7月までの『須永家文書』がない。先述した『安房医師会誌』によると、原進一は1943(昭和18)年6月に、安房医師会の幹事(現、理事)を辞任している。『須永家文書』は、1946(昭和21)年、鴨川自由大学に関する記録から再開する。『千葉県図書館史』によると、この年の自由大学は、県立図書館が事務局を担っていた千葉県文化振興会との共催で行われた。また、同年末には鴨川文化協会の読書会が復活しており、そのテーマは「アメリカ教育使節団報告書について」である。その案内文には、「来年こそ総て立ち直るものと信じます。私たちの文化活動も一段と活発にやりましょう」と書かれている。『須永家文書』の空白時代に何があったのかは、わからないが、この案内文には、空白期間がどのような時代であったのかを読み解くヒントが隠されているのではないかとも思える。
1950(昭和25)年には、妊産婦乳幼児の保健状態の改善を目的とした、鴨川町母親学級が開講している。翌年には成人学校が開校し、選択科目の一つに「家庭の医学」が設置されている。病院や医療系図書館から始まった医療・健康情報を提供しようという動きは、現在、公共図書館に広がってきている。当時も、健康について市民に関心をもってもらうことは重要である、と考えられていたのであろうか。
8.『須永家文書』②鴨川文化協会と社会教育施設・図書館
鴨川市文化協会では、自由大学(のちに、夏期大学と改称)や成人学校の開催、読書会、映画会、美術展、ダンスや音楽会、文化祭などさまざまな活動が行われていた。これらは、公民館や地区コミュニティで現在行われている行事内容とも重なっており、非常に興味深い。成人学校の時間割を見ると、数多くの科目が用意されていた。そのため、図書館や学校、役場などさまざまな施設が利用されていたようである。
初代の鴨川町立図書館長も、県立図書館安房分館の館長も、原進一ではなかった。「ひかり号」の記録の中にも、現時点では彼の名前は見つかっていない。彼が鴨川町立図書館長となったのは、1963(昭和38)年4月のことある。鴨川文化協会の活動の中に、図書館運営委員会、鴨川文化協会図書部という記載がある。また、『鴨川』創刊号で彼は、読書会の会長として、「戦時中私達同志で作って居つた鴨川文化協会で、図書館建設期成部と云う部で、読書会を毎月開いて、町の皆さんに読書をすゝめた」と書いている。彼は鴨川町立図書館長になる前から、読書を広める活動や、図書館運営に関わっていたことが読み取れる。時代は遡り、戦中の1943(昭和18)年3月、廿日出逸暁が来訪し、原進一と図書館の話をしたという記述がある。もし戦局が悪化しなければ、もう少し早い段階で、鴨川町立図書館ができていたのかも知れない。
『須永家文書』には、別途「図書館」と項目立てられたノートが作られている。原進一は、非常勤の図書館長でありながらも、熱心に各地の図書館関係の研修会や見学会に参加している。また、『千葉県図書館史』や『鴨川』などにも触れられている「読書会」「巡回文庫」「植物採取ハイキング」「文学散歩」などの行事ついての記録を、詳細につづっている。彼がこのように詳細な記録を残したことは、先述の『安房医師会誌』の序文に込められた思いと、共通しているようにも思える。
9.『須永家文書』③原進一の人物像
『須永家文書』には、安房にゆかりのある文化人たちの名も、たびたび登場する。その一人、長谷川昂(はせがわ こう)(1909〜2012)は、安房郡西条村(現、鴨川市粟斗)で生まれた彫刻家で、鴨川市名誉市民である。高村光雲に認められ上京、内藤伸などの指導を受けたそうである。長谷川昴の書いた『仏を彫る心』には、「内藤先生と原博士」という文章がある。ここには、内藤伸を訪れたときのことを「横山大観先生や内藤先生の主治医を、在京中につとめたという原進一博士の紹介状を持ち」と書いている。原進一の人脈を知ることのできるエピソードである。
ほかにも、1964(昭和39)年『千葉日報』に掲載された原進一の紹介記事全文が貼られていた。このことにより、『長狭町大幡部落誌』「入りの御医者様」を読んだだけではわからなかった二つの謎が、少し判明した。
一つめの疑問は、東京帝国大学を卒業後、神田の杏雲堂醫院の医長までしていたのにもかかわらず、なぜ鴨川に戻ってきたのかということである。当時、父である原芳三郎は、大幡で開業していた。なぜ父のいた大幡ではなく、前原という別の地で開業をしたのであろうか。記事には、「たまたま夫人が病弱だったため、別荘を鴨川町につくった」とあった。冒頭の安房地域の紹介箇所でも触れたとおり、安房は、転地療養の地として多くの人が訪れたという歴史がある。前原は海の近くであり、療養に適している。そして駅からも近く、東京に出るのにも便利である。
もう一点は、いつ頃から図書館や文化に興味を持ち始めたのか、ということである。記事には「学生時代から白樺同人と交を暖め、有島武郎氏らとは文学を語り、また書を読みふけった」とあり、学生時代には既に、文化を愛する人であったようだ。また、先述の長谷川昴は、白樺派であった武者小路実篤に影響を受けている。白樺派と安房地域との関係について、今後も調査を続けたい。
10.おわりに:今後の展望
調査を進める中で、戦中・戦後の安房地域は、図書館活動・文化活動が盛んであったということがみえてきた。そして、その安房地域で図書館員をしていることが誇らしく思えた。誇りが生まれると、元気がわいてきた。
『須永家文書』を読み進めるなかで、私が仕事やNPO法人安房文化遺産フォーラムで関わっている活動と、医師原進一が関わってきた文化活動・図書館活動が、重なるように思えてきた。彼の願いであった郷土の知識を持った市民が増えてきたからこそ、こうして郷土の歴史文化を守るということが、今も受け継がれているように思えるのである。郷土の知識を持った市民がもっと増えていけば、私のように誇りと元気を取り戻せる人も増え、安房地域は「限界自治体」や「消滅自治体」になるのではといわれないような、元気で、持続可能なまちをつくることができるかもしれない。
そのためにも、NPOの戦跡ガイドやまちづくり活動を通じ、今回学んだ、郷土の知識が持つ力や、郷土の歴史文化を守り、受け継いでいくことの大切さを伝えていきたいと思う。また今回、歴史文化に関する記録を残すことの大切さも学んだ。記録を保存すること、そして、活用しやすくするために工夫をしたり、情報(記録)を整理したりするということもまた、伝えていくためには必要な過程である。 そして、このことは、普段図書館員として行っている業務とも似ている。このことから、自分にも図書館員としての経験を活かして、この地域を元気にするような活動ができるのではないかと思えてきた。
今後も、郷土の知識である、安房地域における医療や図書館・文化活動の歴史についての調査や、歴史文化の保存活用方法についての学びを続けていきたい。そして、今までは資料中心の調査であったが、これからは、図書館や文化活動に関った人への聞き取り調査をするなど、フィールドにも出ていけたらと考えている。