●生徒会によるウガンダ支援活動〜学校から地域・世界へ●
執筆=愛沢伸雄(千葉県立安房南高等学校)
千葉県歴史教育者協議会会誌第30号 (1999年)
■「ウガンダ支援活動」はこうして始まった
1989年、ウガンダの一女性からの手紙に胸を痛め、千葉県館山市にある長期婦人保護施設「かにた婦人の村」(以下「かにた」と略す)の創設者深津文雄牧師は、ささやかな支援をした。いま、それはエイズなどで両親をうばわれた孤児たちの「学校で勉強がしたい」という3千をこえる手紙となっている。
1962年に独立したウガンダは、内戦とともにエイズという病魔が国を襲い、百万をこえる孤児を生んだ。86年、センパラさんたちは、非政府組織(NGO)「ウガンダ意識向上財団(CUFI)」を設立し、国の未来を背負う子どもたちに夢を与えようと困難な事業に立ち上がった。
「かにた」を通じて、CUFIと安房南高生徒会・ボランティア委員会が結びつき、「ウガンダの子どもたちを救おう」「ウガンダの子どもたちに夢と希望を」を合い言葉にウガンダ支援活動を始めたのは、今から6年前であった。94年4月、当時の生活委員会は活動方針にボランティア活動を決定した。当初、ユニセフ活動と考えていたが、募金だけでなく物資なども送りたいとの生徒の希望もあり、6月に深津牧師を訪ねてウガンダの学校関係の手紙を4通預かった。
これが契機となって、ウガンダ支援活動の原案がリーダー研修会で検討され、7月の生徒総会において、支援活動の提案が承認された。そして文化祭に向けて、支援物資の収集がはじまった。文化祭企画では、物資輸送費のためにバザーと、ウガンダでのエイズ状況やユニセフ活動の資料展示を予定した。
当日は大変盛況で、バザーの売上げや募金は予想以上であった。文化祭後、「かにた」の塩川成子さん(深津牧師長女)から物資の送り方と送り先についてアドバイスを受けたが、その際、日本のNGO組織「アジア学院」の研修で来日中であり、「かにた」を訪れたことのあるセンパラさんを紹介された。彼は「子どもたちは・・・靴や学用品、机や椅子も持っていません。以前あなたが衣料や靴などを送ってくれたとき、私はとても嬉しかった。・・・再びそれをお願いしたいのです」と、心からの支援を深津牧師に願い出ていた。
1994年10月19日、みかん箱サイズのダンボール28個を館山郵便局より発送した。センパラさんにこのことを伝えたところ、帰国前の12月3日、本校に見えた。2ヶ月前には予想もしない出会いであった。「・・・多くの困難をともなう、長い道のりではありますが、私たちはうまくやりとげたいと思います。どうか私たちのことを忘れないでください」と、その後手紙が来た。翌年5月、半年かかってとうとうウガンダの子どもたちのもとに贈り物が届いたのである。
その後も支援活動は引き続がれ、支援物資には、卒業生が寄付していった体育服のジャージや運動靴も加えられた。校内では「ラブ・アンド・ピース」募金もはじまった。
また、「かにた」がウガンダ支援活動の規模を拡大し、輸送費の節約のため大型コンテナ(段ボール約700箱)に切り替えた際に、本校生徒会も「かにた」での支援活動に協力するとともに、CUFIへの支援も一緒にお願いすることとした。以来、「かにた」での中古衣料等の箱詰め作業のボランテア活動がはじまった。その第1回目が95年7月15日であった。そして、第1回目のコンテナ便はCUFI宛となり、その年の11月にセンパラさんのもとに届いた。
さらに、翌96年7月にはCUFIに第1回目の資金支援として千ドルの支援金を贈ったが、今日まで4回総計4千ドル(約50万円)になった。センパラさんからは「安房南高校生徒会のすべての援助と努力に感謝しております。最もお金が必要としているときにいただきました。縫製作業所とコミュニティカレッジ建設資金にします。子どもたちの教育を支えることができ、大変うれしく思っております」という感謝の手紙とともに、子どもたちの絵がたくさん届いた。この絵と手紙は、毎年文化祭で展示され、生徒会とCUFIの交流を語り継ぐ貴重な資料となっている。
■「私たちのことを忘れないで」
1994年本校を訪れたセンパラさんは。体育館のステージからこう語った。「・・・私がウガンダという名で呼ばれている国から来たことはご存知のことと思いますが、スーダン、ケニヤ、タンザニア、ルワンダ、ザイールなどの国に囲まれています。現在総人口が1800万人になります。68年間イギリスの植民地支配をうけ、ついに1962年10月9日に独立をかちとりました。多くの内戦と民族闘争、それにあらゆる困難に直面してきた国です。この状況下での最も多数の犠牲者は子供たちでした。彼らはこれらのうち続く戦争で両親を殺され、絶望的な状況にさらされました。
1986年にスタートした私の『ウガンダ意識向上財団(CUFI)』という名の組織は、これらの恵まれない無力な孤児たちへ、援助の手を差し伸べるよう設立されたものです。・・・200名にもなる子供らの世話をするには、かなりの資金を必要としています。私の組織を代表して、これまで私たちに差しのべて下さった物的、精神的援助にどうかお礼を述べさせて下さい。この孤児たちの状況を向上させる努力に、今後もさらにご協力下さいますようお願いいたします。言葉足りませんが、もう一度ここであなた方のお気遣いにお礼申し上げます。どうもありがとうございました。」
センパラさんの心のこもった挨拶は、一同に深い感銘を与えた。このときまでウガンダの方から直接話しを聞く機会があるとは、考えもしなかった。それだけにこの出会いは、これからの草の根の国際交流の面で大きな意味があった。
また、当日生徒会企画により手作りの歓迎会を行った。生徒の輪の中で明るく振る舞うセンパラさんのエネルギッシュで屈託のないその眼の輝きに、希望をもってウガンダの国作りに関わっている青年の力強い意志を感じたのは、私だけではない。「学校で学びたい」と願う多くの孤児たちに、ウガンダの未来をかける彼の理念に触れ、支援活動がもつ意味を、生徒たち自身が少なからず感じとったようだ。
さらに、その後いただいたセンパラさんの手紙では「・・・貴校と私のCUFI組織との間に、国際的友好と理解を押し進めるよう努力しながら、将来にはとてもすばらしい協力関係ができるものと期待しております。ウガンダの孤児たちの現状を改善していく意識を高揚するために、我々がともにできることはたくさんあると信じます。・・・子供たちはあなたがたのことを聞き、また贈り物を手にしたならとても喜ぶでしょう。発展への道は多くの困難をともなう、長い道のりではありますが、私たちはうまくやりとげたいと思います。どうか私たちのことを忘れないでください」というセンパラさんの言葉に、ウガンダの未来を見つめ、どんな困難があっても希望を失わず明るく取り組んでいく決意を感じた。
「私たちのことを忘れないでください」の一文を読んで、まず脳裏をめぐったことは、本当にこれから生徒会活動のなかに、ウガンダ支援活動を継続的におこなっていけるかどうかであった。しかし、センパラさんと触れ合って芽生えた、支援していきたいという生徒たちの強い思いを信頼しようと心に刻んだ6年前を昨日のように思い出す。
■センパラさんと5年ぶりの再会
私は1999年1月、安房南高校生徒会・ボランティア委員会顧問として、2週間にわたりウガンダを訪ねる機会をもった。そして、センパラさんと5年ぶりの再会を果たし、私たちの支援が現地でどう実っているのかを見聞してきた。この14日間のウガンダ訪問を報告したい。なお、今回「かにた」の塩川さんや高塚さん(元ウガンダ「かにた」事務所勤務)の同行と、現地の柴田さんのサポートがなければ、この訪問は実現しなかった。
成田を発ったのが、1月9日朝である。途中の乗り継ぎ待ちを入れ、30数時間後に、現地10日午後にウガンダのエンテベ空港に到着した。田舎風でのんびりしている空港に、厳戒態勢が敷かれているとも知らずにビデオをまわしたので、高塚さんから「空港の撮影は禁止」と注意され、スタートから国情を肝に命じさせられた。にぎやかな首都カンパラを経由して、小一時間でムコノにある「かにた」の資金援助で建設された「かにた教育センター」(代表モーゼスさんによる私立小学校・略してKEC)に着いた。ウガンダでは1月下旬より新学期ということで、今回大変お世話になったそのKECも休業中であったが、空の教室に置かれたベットが、以後10日間の私の宿泊場所となった。
まず、センパラさんと再会し、安房南高校代表して親しく挨拶を交わした。そして、CUFIの活動を見聞するため、私たちの支援先であるムベンデ県チタリアに向けて出発した。カンパラから途中悪路を車で2時間近く走り、チタリア村の小中学校・診療所・職業学校建設現場に案内された。
また、この時にCUFIとチタリア住民の歓迎セレモニーが行われ、高塚さんの通訳で現地の方の話を聞いた。国連のユニセフ支援もなく、内戦やエイズで苦しみながら、CUFIを通じての私たちの支援によってどれほど救われてきたか、との話に涙がとまらなかった。私たちのささやかな支援でも、この村の人々をどんなに勇気づけてきたかを、この時はっきり確認した。
■地域に生きるセンパラさんたち
NGO組織「ウガンダ意識向上財団(CUFI)」のことを紹介する。この組織は、1986年フローレンス・ビルンジという女性を代表者として結成され、11名のスタッフでスタートした。その目的は、1980年から5年間にわたる内戦、そしてその後のエイズで傷ついた多くの無力になった孤児たちを保護するために、住居を提供したり、健康管理や食糧供給、そして無料の教育をおこなうなどの援助することであった。
CUFIでは、孤児たちを食べさせていくためのバナナ、豆、サツマイモ、トウモロコシや他の野菜を栽培するため、資金を確保し小さな土地ではあるが農場を運営してきたという。
ところでセンパラさんは、現在42歳で首都カンパラ郊外に住むが、生まれは内戦で多くの人々が傷ついたいわゆる「ルウェロ三角地帯」(カンパラの北方)の中にあった。短大で機械整備の勉強をしていたが、高校時代より赤十字活動(JRC)に参加し、後にウガンダ赤十字社結成に際して、国際赤十字に派遣され活動をしていたが、内戦のなかで反政府活動と見なされ、ウガンダ赤十字活動の停止を余儀なくされ、活動から身を引いたという。
しかし、内戦が止んでセンパラさんはビルンジさんたちと地域に根ざした市民による草の根のNGOを組織し、ウガンダ社会の再建に立ち上がった。CUFIの結成時を振り返ってセンパラさんは「内戦後の混乱のなかで、自分たちがどんなことをやっていくかを常に忘れないために、まず自分たちの力で、自分たちのできることを考えながら、やっていくこととした」と語っている。その後、代表のビルンジさんはエイズで亡くなり、センパラさんが中心となって地道にプロジェクトをすすめていたという。そのなかでウガンダのNGOグループから推薦されて、日本の「アジア学院」への派遣があり、来日が「かにた」や安房南高校生徒会との出会いとなったのである。
現在CUFIでは、資金の関係でスタッフを6名に減らしたので十分な活動ができなくなったと聞いた。センパラさんは6名のまとめ役として、草の根のNGO活動をどう展開していくか、そのためにどんなプロジェクトにすべきか日々、骨を折っているという。そこで資金の面で、現在はどう確保しているかを質問したが、「安房南高生徒会からの年千ドルが唯一の大きな資金になっている」との答えに大変驚いた。そして、「いまスタッフの給与を削ったり、現地のボランティアに頼って、計画を停滞させないようにしている」との言葉に状況の厳しさをひしひしと感じた。以前より進めている「テン・ポンド計画」(地域ごとに10カ所の池をつくり魚の養殖をおこない現金収入を得る企画)も、当初思ったようには進展しなかったり、また支援地域までの交通手段がネックになり様々な障害が生まれているという。
しかし、センパラさんは国内の20近くの小さなNGO組織が力を合わせ、世界銀行や国連よりの資金援助を確保するためのプロジェクトを企画していると聞いた。昨年取り組んだ企画などが高く評価され、厳しい状況ではあるが少しずつ実を結んでいるとのことであった。初心を忘れず、地道に頑張っていきたい、と語ったセンパラさんの言葉に強く心をうたれた。
■ウガンダ再建の姿
今回の訪問では、次に「かにた」が現在取り組んでいる支援活動を見て回った。その一つは、ここ数年「かにた」奨学金(生活費を含み年間一人10万円近く)を受給してきた孤児など70名以上のうちの何人かのお宅を訪問し、現在の勉学や生活状況などを聞くことだった。とくに、聴覚障害をもったナチット・プロスコービアさんのところでは、村をあげての卒業を祝う会に招待されたが、障害をもってはいても力強く生きようとする彼女の姿に接して、今後のウガンダ再建の礎になっていくと予感した。
二つ目には、塩川さんや高塚さんなどが支援している現地ボランティア団体や、南高生のジャージなど、中古衣料を送っている支援先を訪れた。
まず、医療活動に関わる人材の育成に個人的に取り組み、その後学校として認知されたエリザベスさんが運営する、セント・エリザ准看護養成学校を訪問した。教科書が不足し、医療器具も欠く勉学環境にあっても、前向きに明るく勉強する学生たちに接し、ウガンダの地域医療を担っていこうとする青年たちの意気込みの強さを感じた。
次にケニア国境にあるブシア孤児保護センターを訪れたが、98年7月に南高生たちがボランティアで作業した段ボール箱や、教室に並ぶ机・椅子を見て、感無量であった。
また、1997年のコンテナの送り先であったウガンダ知的障害者協会(UAMH)プロジェクトでは、いまも資金不足に苦しむ養護学校の施設を見学し、そこで学んでいる障害をもつ3名の子どもたちの家を訪問した。重い障害と貧しさに苦みながらも、明るく接してくれた子どもたちの姿が今も目に焼き付いている。
さらに、首都カンパラのスラム地区のナムヲンゴ教会を訪問した。心温まる歓迎会の後、まったくの自己犠牲的な活動で、多くの子どもたちに夢と希望を与えているデーヴィットさんの案内で、スラム地区をまわった。今ウガンダでは、デーヴィットさんのような献身的な活動家を多く必要としているが、その一端を見た思いがした。
■「種を播き」から「水を撒き」へ
安房南高校生徒会によるウガンダ支援活動は、1994年以来、生徒自身が身近な問題として関心をもち、いわゆる平和的な国際貢献として取り組んだボランティア活動である。当時私は、生徒会顧問のひとりとして、やっと日本政府が批准した「子どもの権利条約」の理念を生徒会活動のなかにどう生かすべきか、また授業で取り上げる国連ユニセフ活動を具体的には、どう実践したらよいかを考えていた。
6年目になった現在、当時とは違う生徒たちの意識のもと、改めて生徒会ボランティア活動のなかで、ウガンダ支援活動が息長く生徒会活動に根づくための方策が求められている。当初より生徒たちと支援活動に関わってきた教師のひとりとして、実際にウガンダの地から支援活動を眺めることができた。これまでの5年間は、ウガンダ支援の「種を播いてきた」期間であった。これからはこの支援活動が息長く定着するための「水を撒き育てる」時期に入ったと考えたい。このことを私はセンパラさんと確認した。
また、生徒たちが5年にわたって継続してきた支援の思いを、学校教育のなかだけではなく、地域のなかへ、さらに広げていくことが可能かどうかも今後の課題である。
ところで、支援活動に直接関わってきた卒業生(上級学校にいったものを含めて)が、地域の社会人として巣立っているが、何人かが自分たちが始めた支援活動がいまも続いていることを喜び、何らかの関わりを持ちたい表明してきた。
この5月3日に卒業生による小さなウガンダ支援ボランティアグループ「ひかりの」が7名で結成された。「種を播いてきた」ことがいま、地域社会に小さな芽になって育ってきた。これは、地域の人々とともに生徒会活動が継続していくうえで、極めて大きな出来事と思っている。卒業生たちによる活動が、確実に地域との交流の接点になり、地域に根ざした息の長い支援になる芽になることを願っている。
このような動きが、学校から地域・世界に目を向け、日本国憲法「平和主義」を考える市民を生み出すかもしれない。また「子ども権利条約」の理念が流れる主体的な生徒会活動がつくられていけば、いま学校を取り巻く社会状況が決して良くないなかで、子どもたちを励ますものとなろう。私は地域に根ざしながら、教室から地域や世界に広げることが可能なことを、ささやかではあるが安房南高校生徒会によるウガンダ支援活動は示してきたと思っている。
■アフリカから21世紀の日本をみる
いま世界が日本に求める役割と期待は大きい。その役割と期待を果たすためには、「アジアから過去を振り返り、アフリカで未来を見る」姿勢が、日本に必要だと思う。つまり、大きな傷跡を残した奴隷貿易や植民地支配の意味を、現在のアフリカの姿からとらえる視点で、20世紀前半の日本とアジアとの深い傷跡を今日的に省察することが重要である。その姿勢が結局は、21世紀に日本が世界に貢献する道を切り開いていくと思う。
ウガンダの地から、実はその貢献の道の芽が「かにた」や本校生徒会による草の根のウガンダ支援活動のなかに育っていると感じたのである。