館山市布良漁業共同組合史
館山市布良漁業組合史
第一章布良の沿革
古来より房総屈指の漁港として知られる「布良」は館山市の南端に位置し、東及び北は神戸に接し、西南一帯は黒潮躍る太平洋に面し、晴れた日は伊豆、大島に対する。千葉県誌巻上に「布良港は富崎村(現在館山市)大字布良の西方にあり、港内狭あいなれども漁船の出入頗る頻繁なり」とあり、安房郡富崎村誌にも「布良港布良崎と千葉県築設の防波突提とに扼せられ、東海岸屈指の漁港にして、港内に水難救済所の設けあり、漁船の出入頻繁なり」と記されている。
地勢は東より南に丘陵が連なり、海が迫り、その傾斜面に集落と、わずかな耕地がある。「布良」は漁場としてだけでなく、近世以来文人墨客の来訪多く、また南フランスの海をおもわせる明るい色彩を持つ海岸であるので、天歳画家といわれる青木繁はここを画題に不朽の名作「海の幸」を遺している。布良はまた眺望佳景、気候温暖な外港でもある。
黒潮の色彩豊かに打ち寄せる「布良」は遠く西南から海上遙かにやってきた神々の訪れに、深いかかわりを持つ房総最古の神話の港としても名高い。
もとより「布良」の太古の事跡に就いては、然るべき文献もなく、詳らかではないが、大字布良西本郷の小高い地に鎮座し、眼下に布良港を見下す布良崎神社に、石器時代の石斧一個、石剣(石棒)一振が所蔵されているのから推定して、かなり古い時代から、この港を中心にして、縄文人たちが魚介類を食し、生活していたことがわかる。
この頃の漁具の針は、鹿の角、動物の骨でつくり、刺突具としては銛、ヤスを用いた。舟はムクの木、カヤ材などが用いられ、千葉県内で発見された丸木舟から想定すると、「布良」の丸木舟も長さ四・八メートルくらいの大きなものであったと想像される。
「布良」の地名を考えると、「メラ」は字義からいえば「藻の総称」であるから、海藻の繁殖する磯浜であり、また「ラ」を接尾語とすれば目の意味となり「海上の要地」「海上の見張り」の解釈も成立する。
さらに「メ」を陰陽道から解すれば「女」の音に通じ、陰どころ、すなわち切り込み、くい入った場所であるから、天然の良港の意であろう。紀伊半島の「目良」とか、伊豆半島の(静岡県賀茂郡西伊豆町西部)の「妻良」などの当字からも之れがうなづける。だから大和の東征神話に出てくる神々は、この「布良」の良い港をめざしてやってきたのである。
布良崎神社の祭神の主神天富命に「布良」の港の起源が求められるであろう。神話はもとより歴史ではないが、少くとも古代人の生活や発想の手がかりを知ることができる。
「布良」の開拓は平安時代の第五十一代平城天皇の大同二年二月十三日に作成された斎部(忌部)氏の「古語拾遺」によって、房総渡来神のことが記されている。
その神話によれば神武天皇の即位の年、天太玉命の孫天富命は命を受けて東国の開拓に当ることとなった。そこで天富命は阿波国の斎部と讃岐、さらに紀伊の斎部を率いて黒潮に乗り、相模から安房国の布良駒ヶ崎に上陸したのである。このことについては安房郡誌の郷社布良崎神社の項に「天富命、金山
彦命、素盞鳴尊を合祀す。旧跡に男神山、女神山の二峯あり、海岸に突兀して聳ゆ。天富命阿波の斎部を率ゐて始めて船を寄せられし所なり」と見える。
もともと天富命は建築を司さとり、斎部の諸神にさまざまの産業をおこさせた神であるから、開拓神の先達として蝦夷を鎮撫し、禽獣の害を除き、布良からすすみ、安房神社のある神戸を本拠として、麻、綿を植え、農業をおこし、水産業を盛んにしたのである。つまり「布良」は大和東征の房総の橋頭堡、あるいは兵站としての重要な意味を持つ良港であった。
さらに房総の「メラ」が紀伊の「目」や伊豆の「妻」でなく「布」を当てているのは、おそらく細布を積み出し、大和へ送る港であったこととかかわりがあるのではないか。「布」は古く麻などの織物の義であった。
こう考えると「布良」は上代から東国の良港として名高く、安房国の海上の護りでもあり、海藻・漁貝類などの海産物、細布などを積み出す港として聞えていた。
延喜式によると安房国の鯛は、緋細布、細貨布、薄貨布、縹細布、鳥子鰒、都都伎鰒、放耳鰒、着目鰒、長鰒などで、庸として海松、堅魚、紙、熟麻、鹿革があげられているから、布良港ではこれらの荷を扱ったのである。当然布良の漁民はこの仕事に当ったものと思う。
総の国から布良が安房国の支配に属したのは、四十代天武天皇の頃からである。のち多少の変遷はあるが、ほぼ阿波忌部の本拠の地を安房国とした。
布良(女良)は「古事記」「日本書紀」「万葉集」には出てこないが、中世の「太平記」にその地名がみえる。後村上天皇となった義良親王が、奥州の地で再起を図ろうと、伊勢の大湊から兵船五百余艘を仕立てて出航したが、海上で難破し、ちりぢりに難を避ける。その一つに「女良の湊」が記されている。この本がつくられたのを応安四年八月八日以降と考えると、当時から「布良」は名高い港であったことがわかる。
この頃は網などの漁具が著しく発達しているから「布良」の漁法はそれにならっていたものであろう。
なお中世安房国は里見氏の所領となるから、慶長十九年(一六一四)九月里見氏が改易を命ぜられるまで、当然布良もその支配を受けていた。「慶長十五年庚戌十一月。改正里見家領国房州村々高割付帳」によると、布良村は五十三石九斗三合と見える。漁業の片手間に農業もやっていたのであろう。
近世になると布良の漁業も変ってきた。
房総沿岸に関西の紀伊、伊勢の漁民の技術が入ってきて、その漁法はめざましい発展を遂げたのである。鯛のドンブリ釣や、鰹釣などの技術、なわ船を仕立て、より沖へと出漁するようになった。たくさんとれる鰯は干鰯はもとより、〆粕、魚油加工にまで進んだ。とくに江戸は徳川家康の封入、そして幕府創設とともに人口はばくはつ的に増加し、最大の消費地となったから、「布良」の漁場は当然その供給地としての役割を持つようになった。この頃になると、半漁半農という他村の港に比べて、布良は漁業ひとすじの漁村となっていく。
近世初期、江戸への漁獲物の出荷は、ほとんど関東へ進出してきた関西の漁民や魚商人の手によったものらしい。しかし元禄頃から次第に地元の商人たちも、生魚を江戸に出荷するように変ってきた。これは従来出店を地方に持っていた関西魚商人が地元に土着したあらわれであった。布良もその例にもれない。そして「押送船」は帆走で約十時間、櫓櫂一昼夜で江戸に着いた。その船頭は権威をもち、真夏でも白タビをはいていた。だが、江戸の魚問屋がやってきて、多量の漁獲物を得るために、さかんに漁場に投資している。これを「職貸」といった。漁網、補習の貸付から、地元の商人には集荷元金や押送船の代金、不漁の時は漁民も前貸金を受けるので、資本の圧力におされ、零細漁民は暮しに困った。布良の漁民もこの例にもれなかったのである。なお「布良」の乾魚は江戸でも評判だったようで、文化六年(一八〇九)に刊行された式亭三馬の「浮世風呂」に「めらの乾魚」がでてくる。
時は移り幕末になると「布良」は海岸防衛の重大な役割りをも果している。
寛政五年(一七九三)二月、老中松平定信は海防の必要を痛感して、自ら房総、伊豆、相模を巡視しているから、当然布良にもきていると思う。というのは嘉永六年(一八五三)六月、ペリーの黒船が江戸湾に侵入してからというもの外国船に備え、幕府は館山付近を重視、北条に陣屋をおき、布良をはじめ北条、大房岬、州の崎、川下、忽戸、伊戸などに砲台を築造しているからである。このため、不漁続きの布良の漁民たちは、土木、兵器、兵糧の運搬にかり出されて大きな負担となったという。
第二章 採鮑取扱
生鮑取扱についての資料は次の通りである。
生鮑取扱法記
一、明治六年中村法更正之際生鮑取扱方左之通リ相定メ候事
一、村内鮑採営業人漁獲之生鮑ハ村中ニ於テ一手ニ買入該品利益ヲ以テ学校費旧借返却
村費仕払ホニ相充テ可申事 但シ婦女子海士トモ同断タルヘシ
一、村方ニテ鮑取扱所ヲ置キ該事務一切為取扱可申事 但シ直段ハ時々景況ニ拠リ協議スヘシ
一、村民鮑入用の節ハ鮑取扱所ヨリ購入スヘシ必ス需要人の差支無之様可致尤モ自他トモ自儘ニ売買相禁候事
一、鮑採営業人商業人其他需要人ホニ至ル迄相対上ノ売買不相成候得共万一村法犯シ発見スル者ハ満壱ヶ年以上村内ニ於テ該業ヲ差止メ可申事 但シ村法犯シタル所意ニ拠リ期日定ル事
右之通村内法則相定リ候上ハ堅ク相守可申依之鮑採営業人共為念一書差入申候也
明治十四年八月十四日
契約書
一今般本村ニ於テ共有採鮑業創設ニ当リ現住民戸主神田吉右衛門外三百二十九名ニ於テ契約候処左ノ如シ
第一条 本村従来ノ漁場ニ於テ採収スル鮑ハ従前慣行ニ依リ本村ニ居住戸主ノ共同営業トナシ潜水器械及裸体海士ノ二種トス
一、潜水器械採鮑業ハ村方直接営業トス
一、裸体海士業ハ本村住民適宜ニ漁獲ナシ該鮑ヲ村方ニ於テ一手ニ購入スルモノトス
第二条 本村共有営業ノ損益ハ住民一同ノ負担ハ勿論且ツ利益アルトキハ公共ノ費用ニ充ル事
第三条 潜水器械船舶其他附属品一切ハ神田吉右衛門外三百二十九名ニ於テ該業開創ノ際出金購入シタル共同物品タル故ニ将来村民増加スルモ該品所有者ハ神田吉右衛門外三百二十九名ニ限ル事
第三章 ヤンノー船
延縄漁業が布良におこったのは、元禄十六年に東国一帯を襲った地震による大津波のあとではないかと推定される。磯がすっかり荒され、今までの漁法に一大改革をせまられたようである。
本村漁業の盛衰の跡は即ち本村興亡の陰影にして主漁業たる鮪鱶延縄漁業の沿革史はけだし純然たる本村の沿革史たらずんばあらず、而かも昔時の事漢として知るに由なし。史に徴するに元禄十六年関東地大いに動き、外房沿革亦大海嘯に襲はれて惨憺たる光景を呈したるが如し、本村亦此の厄に遭ひてに一新紀を劃したるにあらざるか。とある。旧家神田家に伝わる古書類に
是れをみるに職縄船は実に延享二年(一七四三)を以て嚆矢となす。而して地棟縄船に至っては既に其の以前に開始せられたるが如きも其始源亦知るべからず(註職及地棟は営業組織の名称)唯注意すべきはこの三名(註縄船を願い出た人)が皆其祖を紀州に発せるの一事なり。我総房沿岸町村に於て紀伊地方に其祖を発せる漁業家多きと全く符を合はしたる此事実は敢て怪しむに足らずとも雖も、鮪縄船が亦紀伊地方よりの移住者によりて伝えられたるを証するに足らんか。斯くて天与の漁場を有するわが布良港に漁業の長足の発展をなし、本邦水産界に名を顕はすに至れるなるべし。
此れを古老に聞くに天保弘化の頃は暁天鶏鳴に出漁して遅くも当日四つ時には帰港し、而も漁獲物を船中に積込む能わず、けだしゃんのー船の祖なり。
この神田家覚書によれば職縄船は延享二年(一七四三)に始められたとある。(地棟縄船はその前からと思われるが確かなものは残されていない)この人達は紀州から移住してきた人の子孫であったという。もともとよい漁場に恵まれていた布良港はこの漁法で長足の発展をし、その名を天下に知られるようになった。天保、弘化の頃はあかつきを告げる鶏の声とともに出港し、遅くも四つに帰港した。漁獲物は船中に積み込むことができなかった。これが「やんのー船」の始まりである、と記されている。なお「やんのー船」の語源については非常に面白い。
やんのーは「ヤルノー」にして勇敢な漁夫が連日海上に波浪と戦って盛んに漁獲をなすを嘆美せし様、やるのうという嘆声、今一つは「ヤレルノー」で船、漁獲法とも改良されて、遠洋の漁業に従事することができ、これからは思う存分やれるのうという気負いである。まさに意気さかんである。この意気込みがあったればこそ驚ろく程の漁獲もあげたろうし、一面あとに述べる悲劇にもつながっていく。
明治七・八年ごろ布良には鮪縄船が八十三雙もあった。当時船の大きさは肩(幅)で示されるが、ニメートル二十センチ位であった。漁場も伊豆大島あたりまで出かけていた。
ヤンノー船は年に一雙ぐらいの遭難があったが、明治十五年三月二十六日、布良縄船は一時に四雙も遭難し、多くの犠牲者を出し、村は大さわぎとなった。神田吉右衛門これを憂い明治十八年鮪漁同業者遭難救助積立金規約を協定し相互扶助の途を開き後明治二十四年六月規約を改正し、鮪縄同業者申合規約を定めた。
規約
当村は南海隅に突出して耕転の田甫なく単に海漁之一途を以て生活を営むの漁村に有之処近来鮪漁流行彼我競双遠く大洋に出漁し東行西進数日間を海面に泊し遇々巨額の漁を得るも又危険の業にして毎年貴重の命を失い或は難破船流亡数回あり、終に一家滅亡に及ぶ者往々之れあるが故に追々漁業者衰頽を来すの状況を顕す依て今般鮪釣生業者の危難を救助し同業者をして永遠維持なからしめんことを村中衆議一決の上該営業者積立金法方相設け候処如左(十八年二月二十日附主旨以下二十四年六月改正)
第一条 鮪縄漁同業者中営業の為の遭難罹災あるときは漁業取締及同業者は協議をなし難破の軽重に拠り相当補助金を贈与するものとす。
第二条 補助金は一遭難者損害金の六分の一以上を補助するものとす。
第三条 遭難者ある中に当り第二条の補助金額予定したる上は現業者の数に分課し漁業取締に於て徴収し之ら遭難者へ贈与するものとす。
此の規約に基づき其の生活も安定してくれば事故はなく、布良村鮪縄船はそれらのことを更によく教えている。
(漁村風土記布良村鮪縄船始末記渡辺英一氏より)
昔しは遠く伊豆大島八丈方面まで北は遠く銚子まで其の名も知られた程栄えた時代もありました。
其の代表的な歌を一つ御紹介致しましょう。
伊豆ぢゃ稲取り房州ぢゃ布良よ
いきな船頭さんの
出たところ
第四章 安房南海小組合の設立
明治十八年に本県下漁業組合設置の令があり、本村相浜布良長尾村根本砂取滝口、白浜村野島白浜乙浜を一組として、安房水産組合第六番組と名付け、神田吉右衛門が頭取となって、鋭意漁業の発展につとめた。
同二十一年には安房南海漁業組合が設立され、神田吉右衛門が副頭取となった。さらに吉右衛門は明治二十九年九月に村長として水産談話会をおこすなどして漁業の進歩発展に力を注ぎ、布良型改良漁船建造につくしている。明治三十一年十二月十五日千葉県知事阿部浩宛に“安房南海小組合規約認可願”を提出し、これに対して同十二月二十七日に認可された。
安房南海漁業第二小組合規約は次の通りである。
第一章 組合の名称及事務所位置
第一条 当組合ハ安房南海漁業組合規約第四条ノ規定ニ依リ特ニ組織ナシタルモノニ付其範囲ヲ越ユルコトヲ得ス
第二条 当組合ハ安房南海漁業第二小組合ト称ス
第三条 当組合ハ別ニ事務所ヲ設ケス頭取ノ自宅ヲ以テ之ヲ取扱フモノトス
第四条 当南海漁業小組合ハ左ノ如シ
安房郡富崎村 安房郡神戸村大石
第二章 目的
第五条 当小組合ハ規定ニ掲ケタル条項及安房南海漁業組合ニ規定シタル条項ヲ遵守シ相互ニ親睦シテ相犯スヘカラサルハ勿論営業上ノ弊害ヲ矯正シ広ク漁業上ニ注目シ漁具漁法及製造等具利益ト認ムルモノハ之ヲ組合内ニ実施セシメ斯業ノ改良発達ヲ図リ販路ヲ拡張スルヲ目的トス
第五章 明治大正期における組合の改革
明治政府にとって、漁業占有関係を適切にすることが大切な問題であった。そのため、明治十九年五月、農商務省令第七号漁業組合準則を定めた。これは全体が九条から成っており、漁業に従事するものはこれを基本として組合を設立し、規約を作成、管轄庁の許可を受けなければならなかった。
明治二十年千葉県令第五十九号漁業組合準則に拠って安房漁業組合が結成され、布良もその中に加わった。次に「安房南海漁業組合規約」を示す。
安房南海漁業組合規約
第一章 組合ノ名称及事務所位置
第一条 当組合ハ左ニ掲クル村々ニ住シ各種ノ漁業ニ従事スルモノノ盟約ヲ以テ設立ス
安房郡 洲ノ崎 川名 伊戸 相浜 布良 根本 滝口 犬石 小沿 坂足
朝夷郡 白浜 乙浜 白間津 大川 千田 平磯 川口 忽戸 平館 南朝夷 北朝夷 瀬戸
合計二十二ヶ村
第二条 当組合ハ安房南海漁業組合ト称シ事務所ヲ安房滝口村ニ置ク
第三条 当組合ヲ各浦従前ノ規約及旧慣ヲ存重シ且本規約施行ニ便スル為メ組合内ヲ分画シ小組合ヲ置ク其小組合区域及名称左ノ如シ
洲ノ崎岬ヨリ乙浜マデ十二ヶ村
安房南海第一漁業小組合ト称ス
白間津ヨリ瀬戸川マデ合十ヶ村
安房南海第二漁業小組合ト称ス
小組合規約ハ該組合限リ設定シ其筋ノ認可ヲ受クルヲ要シ且ツ本組合規約ニ抵触スル事ヲ得サルモノトス
第二章 目的
第四条 当組合ハ水産ノ蕃殖ヲ図リ営業上ノ弊害ヲ矯正シ利益ヲ増進スルヲ目的トス
第三章 役員選挙法及権限
第六章 漁業会の変遷
日支事件に相次ぐ太平洋戦争への突入は、その戦争の激加に伴ない、漁船の多くがことごとく軍用船として徴用されていったし、また漁民の多くは戦場へ応召され、また徴用工として去り、さらに加えて漁業用の資材は、厳しい戦時配給統制を受けたため、生産力の低下とあい重なり、漁獲高そのものも目にみえて低下していった。
布良も当然その例外とはなり得なかったのである。
こうした戦事体制下にあっては、経済そのものも新体制確立のため、従来の自由経済時代のような同業組合的なものでは間にあわず、組合自体の体質も変えねばならなかった。
昭和十八年九月、中央水産業会が設立され、翌十月以降道府県水産会ならびに漁業組合は、連合会が解散命令とともに道府県水産業会の設立手続がなされた。
富崎村においても昭和十九年六月十六日午前十一時富崎村国民学校講堂を会場に、「富崎村漁業会設立総会」が開催された。設立委員会はこれに先立ち五月二十七日富崎村役場でもたれ、富崎村漁業会設立委員長石井富蔵、設立委員豊崎彦一、石井新蔵が当った。
布良港の旧防波堤は明治三十五年より四ヶ年計画で三十八年に完成する。当時満井武平氏が県会議員であればこそ此の様な立派な防波堤が出来、しかも県営の第二種漁港になったのです。其の功績は大なるもので有ります。又、明治四十四年より大正四年まで長期に至る間、根本組合と漁業権の争いで行政判決では布良が有利で早先は布良組合の権利内にあったが、其れを不服で根本組合が裁判を起し、その結果早先の海面は共有となって現在に至る。
昭和十九年戦時中、法令により布良組合と相浜組合が合併して富崎漁業会を設立する。昭和二十三年四月富崎漁業会を法令により解散し、布良組合・相浜組合が設立される。
水産協同組合法第六十三条の規定により、昭和二十四年六月三十日付で富崎村布良漁業協同組合が設立され、同年七月より組合事業の発足をみる。
昭和二十九年富崎村が館山市へ合併したので、組合名も現在の館山市布良漁業協同組合と改名し現在に至る。
第七章 水協法による漁業協同組合の設立と漁業権の改革
太平洋戦争の終結によって、長い間の戦争による漁村の疲弊も次第に回復、敗戦による痛手から立ち直りつゝあったが、反面米軍の占領下のため船舶の操業にはそれなりの制約があった。だが次第に「民主主義」という時代の新思想、あるいは合言葉に適応するように戦事下の漁業会は改革され、昭和二十三年十二月十五日公布の新しい漁業協同組合の設立によって従来の統合組合から次第に分離していったのである。
この水産業協同組合法(以下水協法の略称)は翌年二月十五日正式に施行されることとなった。
昭和五十年に海底の「カジメ」がなくなり「トサカのり」が急に繁殖し、貝類は全滅の状態となり一方「トサカ」ブームで浜は「トサカ」一色で赤くなり、異状な変化が起り量としては約二百屯位い陸上されたでしょう。
地元業者が一キロ八十円より二百五十円まで値上げした。各業者達は相当な利益を得たそうだ。昭和五十一年は熊本県「トサカ」製造業者が三名来られ、布良の漁民を指導しながら試験操業をしたいという申込みを受け、許可を与へた所本年も大量に有る事が分り、組合自営で操業させる事となりました。
業者を集め入札を行なった所、単価も昨年の二・五倍、金額にして一キロ六百二十円となり組合員は驚いた。部落総出で又「トサカ」ブームとなり、組合員は相当の収入を得た。量としては昨年より多く約二百五十屯も揚り、販売所には揚げきれない程でした。昔の人がよく言って居った「トサカ」が繁殖した年は不漁だというが、まさしく其の通り、二ヶ年間というものは鮮魚及び貝類は文字通りの不漁な年であった。
熊本県の製作業者達も日本で一位二位を競い合う業者であり、水揚されたトサカを製作段階まで細かく指導を受けた地元漁民達も喜び、トサカに於ては自信を持つようになった。特に布良のトサカは質に於ては日本一で、水揚される量によって日本中のトサカの単価が左右されるそうである。
それでは、トサカを指導された業者を御紹介しましょう。
熊本県宇土市高木商店社長 高木良一
熊本県八代郡宮原町ひがわ食品株式会社
社長 宮原洋祐
熊本県天草五和町宮崎海産株式会社
社長 宮崎 充
以上三名であります。
第八章 漁業組合の歴代組合長
布良漁業組合に貢献した歴代組合長は次の通りである。
安房水産組合第六番組
頭取 神田 吉右衛門 明治十八年
安房南海漁業組合
副頭取 神田 吉右衛門 明治二十一年
初代組合長 小谷 安五郎 明治三十五年
二代 〃 青木 国治 明治三十八年
三代 〃 青木 房次郎 明治三十九年
四代 〃 小谷 喜録 明治四十一年
五代 〃 小谷 甚左衛門 大正二年
六代 〃 小谷 安五郎 大正三年
七代 〃 青木 秀太郎 大正九年
八代 〃 島田 繁 昭和五年
九代 〃 島田 覚 昭和十四年
十代 〃 小谷 太兵衛 昭和十五年
十一代組合長代理 島田 浦太郎 昭和十七年
富崎漁業会
初代会長 島田 繁 昭和十九年
二代 〃 小谷 新義 昭和二十一年
三代会長代理 松崎 市太郎 昭和二十三年
富崎村布良漁業協同組合(昭和二十九年に館山市布良漁業協同組合となる)
初代組合長 小谷 徳治 昭和二十四年七月
二代 〃 小宮 卯之吉 昭和二十七年五月
此の組合史の作製に当り、当組合の長老者九名に御参集を願い、組合の設立当時の事や色々と昔し話しに想いを起し、然も三回にわたり会合を持ち、特に神田徳治氏には、大切に保管してありました書類等御持参願い、作製に寄与されたのです。
又、千葉県漁連の鈴木繁参事と、詩人の荒川法勝氏の多大な御尽力を得て発刊の運びとなった訳で有ります。
御参集願った長老者会議名簿
氏名 生年月日 氏名 生年月日
神田 徳治 明治二十一年 沼野 辰之助 明治三十七年
木高 松蔵 〃二十五年 嶋田 石蔵 〃三十七年
黒川 清太郎 〃二十五年 吉田 武男 〃三十七年
須藤 熊吉 〃三十年
沼野 寅吉 〃三十三年
星野 寿男 〃三十五年
昭和五十四年 十一月 日
富崎村古文書保存会
古文書複製
複製者 豊崎悦朗
製本所 (有)青孔社