大正十三年三月
富崎村 漁業沿革史
千葉県安房郡富崎尋常高等小学校
漁業沿革史目次
一、鮪延縄漁業
ニ、鮑採取ニ関スル沿革
三、布良港
四、漁業組合水難救済會
五、漁業家水夫ノ傳記逸話
六、漁業ノ現状及ビ將来
以上
一、鮪延縄漁業
房総半島ノ南端伊豆大島ハ一葦■水ノ間ニ■ハリ黒潮ハ沿岸ヲ去ル数ヲ流■三面■タル太平洋ニ臨メル吾ガ富崎ノ地古■■ニ漁業ヲ以テ生計トセルヤ論ナシ而カモ鮪■延縄ヲ以テ十数年前マデ其ノ主漁業トセリ。■ニ■スルニ■■十六年関東地大ニ■キ外房■岸亦大海嘯ニ襲ハレテ■ニ一■紀■ヲ■シタルニアラザルカ。鮪延縄漁業ニ■リテモ■シ此ノ■ニ其ノ起源ヲ発セルガ如シ 本村田家神田■吉代ニツキテ古記録ヲ調査シタルニ次ノ如キ覚書ヲ得タリ(覚書は前回の鮪鱶延縄漁業調査報告に記したので省略)
■是観之職縄船ハ実ニ延享二年(記■二■■■五年)即チ今■去ル百八十一■以前ヲ以テ嚆矢トス。而シテ地棒縄ニ至ツテハ既ニソレ以前ニモ開始セルガ如キモ其ノ始源又知ルヘカラズ。唯々■■■注意スヘキハ茲ニ傍記セル三名ガ皆其ノ租ヲ紀州ニ発セル一事ナリ。 吾ガ総房沿岸町村ニ於テ紀摂地方ニ其ノ租ヲ発セル漁業多キト全ク符ヲ合ハシタル此ノ事実ハ敢テ怪シムニ足ラズト[雖?]モ鮪延縄漁業ガ亦紀摂地方ヨリノ移住者ニヨリテ伝ヘラレタルヲ証スルニ足ランカ。 斯クテ天与ノ漁場ヲ■セル吾ガ布良ニ[譲?]漁業ガ長足ノ発展ヲナシ夙ニ本邦水産界ニ名ヲ顕スニ至レルナルヘシ 此レヲ古老ニ聞クニ天保弘化ノ頃ハ暁天鶏鳴ニ出漁シテ遅クモ當日夜四ツ時ニハ帰港シ而カモ漁獲物ヲ凡テ船中ニ積込ム能ハズ頭部ヲ切■テ、漸ク持チ帰ルコトヲ得一本ノ釣■■■二十三十ノ漁獲アケシト云フ以テ如何ニ漁獲ノ豊富ナリシカヲ知ルヘシ
斯クテ嘉永[年百?]ニハ■縄ノ使用ヲ開始シ夜中ノ漁業ヲモナスニ至レリ(嘉永二年[黒川市?]■■ナルモノ始メテ■縄ヲ使用スト伝フ)當時大鮪一本ハ実ニ一[分ニ朱ニ?]シテ八尺■四寸ノ押送船ヲ以テ浦■御所ヲ経テ盛ニ江戸ニ輸出シタリ
當時重ナル■■■(魚仲■)ハ青木次郎エ門ト■■■■■武兵衛ノ二家ナリ
明治初年ニ至ツテハ漁船モ肩巾六尺四十五寸トナリ遠ク沖合ニ出漁スルニ至リシモ當時ハ鮪ノ[未?]遊極メテ規則正シク寒ノ入リニハ■■■■■■シ春ノ[彼?]岸ニハ大鮪群ヲナシテ■遊スルモノナリシカバ今日ノ如ク必ズシモ大洋ニ出ズルノ要ナカリシヤ[明?]ナリサレバ漁業者ノ数モ著シク増加シ明治七、八年頃ニハ肩巾七尺二寸トナリ縄船八十三隻ヲ数ハ一艘ノ漁船■ホ且ツ百本ノ鮪ヲ水揚ゲシツ■アリシト云フ布良港ノ■観想フ[ベ?]シ 明治十[三?五?]年ニ至リテハ漁船肩幅七尺五寸トナリ其ノ■ノ増加ハ勢ヒ遠洋漁業ニ出漁セザルベカラザルニ至リ且ツ漁業者間ノ競争起リ互ニ激浪ト奮■シテ盛ニ漁獲ニ努メシカバ茲ニ一大惨劇ヲ演出スルニ至レリ 時ハ明治十五年三月廿六日西ノ大暴風雨ニ縄船四隻[日?]ヲ同ジクシテ大島近海ニ難破ス是■■シ漸ク沖合漁業ノ盛大ヲ■セシ以来[適?]々一艘ノ遭難船ヲ出セシモノアルモ村民ハ■■■[能?]ハザリシニ■[年?]■■一時ニ四隻ノ難破船ヲ見ルニ至リ■ニ漁民ノ覚醒ヲ促スニ至レリ布良■やんのー船[ハ?]此ノ機会ニ於ケル産物トシテ生レ出デタリ即チ漁船ノ遭難ハ一ニ船舶ノ[不完全?]ニ■スルモノナルガ故ニ先ヅ漁船ノ改良ヲ以テ第一トセザルベカラズトハ當時識者ノ主唱スル所トナリ[故ニ?]船型ヲ大トシ肩巾七尺六七寸■ノ厚サヲ四寸トシ■■ルニ船尾ニ甲板ヲ[張?]リテ水ノ浸入ヲ防禦スルニ至ル■シやんのー船ノ祖ナリ 然ルニ■■[年?]々少クモ数隻ノ難破船ヲ出シ■[年?]ノ漁夫ノ空シク海岸ニ魚餌ト化シ一家■ツテ鬼籍ニ入ルノ惨状ヲ呈スルヤ時ノ漁業取締人神田吉右衛門憂慮■カズ明治十八年鮪漁同業者遭難救助積立金規約ヲ協定シ相互扶助ノ道ヲ[開?]キ同業者永遠維持ノ方法ヲ設[ケ?]■明治廿四年六月該規約ヲ改■シ鮪縄同業者申合規約ヲ定ム
明治二十九年一月鮪沖合漁業ハ数百里ノ大洋ニ航シ危険ヲ冒シテ営業ヲナスカ故ニ其ノ職務ニ■ユルヤ否ヤヲ豫メ認定シ置クハ一ハ避難ニ一ハ船中ノ取締及営業上ニ頗ル有益ナルモノナリトシ神田吉右衛門ノ発■ニヨリ村内ノ船頭ニ認定證書ヲ交付スルコト■ナレリ [此?]年九月神田吉右衛門村長トシテ布良相浜両[区?]ニ水産談話会ヲ■シ大縄■々■船頭漁業取締区長区会議員等ヲ会シ水産上ニ関スル談話ヲナシ或ハ避難船ノ避難法ノ適否ヲ討論シ又ハ難破船ノ原因ヲ[考?]究シテ此後ノ処置ヲ論議スル等一ニ漁業ノ進歩発展ノ道ヲ講ス 斯クノ如ク神田吉右衛門其他ノ有力者殆ンド[寝?]食ヲ忘シテ鋭意斯業ノ発達ヲ図リアラユル方法ヲ以テ漁夫ノ啓発ニ努■シカバ天与ノ漁場ヲ有スル吾布良港ノ鮪延縄漁業ハ幾多ノ犠牲を拂ヒツヽモ終ニ本邦水産界ニ於ケル斯業ノ覇王トナリ■■各地方■ヨリ漁業教師ノ派遣ヲ申込■■リ或ハ講習生ヲ派遣シテ漁具ノ製作漁■ノ方法ヲ習得セシメ或ハ改良漁船ノ建造ヲ委託シ■ルモノ陸続トシテ絶エザルニ至ル此レヨリ先キ明治二十二年■ハ■■ヲ投ジテ布良船大工豊崎[吉?]太郎ニ命ジテ改良漁船ヲ建造セシム肩巾八尺三寸船首船尾ヲ総甲板トシ従来二本ノ肋骨ヲ増加シテ六本トシ■ノ厚サヲ五寸五分トシ船体ノ■■ヲ計レリ 此レ布良型改良漁船ノ嚆矢ナリ明治二十七年ニハ漁船ノ肩巾九尺■二十八年ニハ肩巾九尺四寸トナリ豊崎政吉氏改良ニ努ム[此?]頃鮪流網ヲ使用シ始メ銚子沖ニテ二三年使用スルモノアリシモ成績不良ノタメ廃セリ 明治二十六年ヨリ仝三十二年マデニ於ケル遭難船及鮪漁船数ヲ挙ゲレバ
明治二十六年度 鮪漁船数六一隻 遭難船四隻
〃 二十七年度 仝 六■隻 仝 四〃
〃 二十八 〃 仝 六一隻 仝 [一?]〃
〃 二十九 〃 仝 五七隻 仝 ニ〃
〃 三十 〃 仝 五四隻 仝 一〃
〃 三十一 〃 仝 五二隻 仝 四〃
〃 三十二 〃 仝 五二隻 仝 四〃
明治三十二年六月五日満井武平氏・・数名ヲ引率シテ小笠原島ニ渡船シ奮励克己大ニ新漁場ニ飛躍ヲ試ミントセシガ不幸壮夫中病ニ犯サルヽモノヲ続出シ八月廿六日抱負ヲ擁ヒテ空シク帰来スルに至レリ
斯クテ明治三十五年ニ於テ忘ルベカラザル痛恨事ヲ視ルニ至レリ即此年八隻ノ大型縄船ノ相続キテ難破スルアリ人命ヲ失フコト・ニ五十[有一ハ?]多数ニ及ビ・ニ鮪延縄漁業ニ一大挫折ヲ来セリ 満井武平氏等是ニ見ルアリ明治四十二年[石油?]発動機付帆船ノ建造ヲ計画シ一種ノ株式組織トシテ村民共同ノ事業トシ政府県・ニ郡ノ補助ヲ得テ本村船[匠?]豊崎政吉氏ヲシテ船体ヲ建造セシメ新・鉄工所ヲシテ機関ヲ製造セシメ・・・船舶ノ進水ヲ行ヒ十二月処女航海ニ就ク富崎丸是レナリ(船長四五・総屯数一九・・・)
明治四十三年・・茨城福島ノ三・相・合シテ伊豆七島附近ヨリ塩屋岬ニ至ル間ニ於テ西洋型漁船ニヨル鮪漁業ノ照合試験ヲ開始スルコト・ナリ農商・・監督ノ下ニ吾ガ富崎丸モ遠洋漁業練習生ヲ便乗セシメテ筑波丸、奈・・丸、坂東丸 第一第二・丸ト共ニ此ノ試験ニ参加シ大ニ斯界ノタメニ・ス所アリタリ惜イカナ其ノ・不漁続キテ・・・ハズ空シク挫折スルノヤムナキニ至ル 而シテ明治四十一年度ニ於テハ九隻三十六人四十二年度ニ於テハ六隻廿八人四十三年度ニ於テハ八隻六十・九人四十四年度ニ於テハ三隻十三人ノ難破船ト溺死者トヲ出シ且ツ不漁ハ年々相続キテ漁民ノ疲弊困乏ヲ見ルニ至レリ此ニ於テ現在ハ僅カ数隻鮪延縄漁業ニ従事スルアルノミ他ハ殆ンド地・漁業ヲナスニ至ル
記シテ此ニ至レバ感慨無量ナルモノアリ誰レカ今昔ノ感ニ堪エザルモノゾ誰レカ故人ノ憂慮ニ泣カザルモノゾ
ニ、鮑採取ニ関スル沿革
本村ニ於ケル鮑採取ノ起源ハ遠ク明治維新以前ノ事ナリ 其ノ當時・織組ト称スルモノアリ僅々六・ヨリ成リテ採鮑ノ・ハ唯[之?]等一部ノ者ノ占有物ナリシガ明治六年村治大改革ヲ執行セラルヽニ際シテ神田吉右衛門氏其ノ不當ナルヲ唱ヘ多年ノ因襲ヲ打破シテ磯根鮑賣買ノ私ヲ一村共有トセシガ明治十五年ニ至リ[新?斯?]ニ採鮑組ヲ創・・・採取ノ方法幼稚ニシテ裸もぐりなりしを此年初メテ潜水・採鮑業ヲ起シ布良区ノ経営トセリ ・・其ノ・益頗ル大ニシテ道路港[湾?]水道其他各種ノ修築公共事業費ヲ支・シ其残餘ハ之ヲ村民ニ分配シ猶且莫大ノ村有財産ヲ生スルノミナラズ布良区永遠ニ渉ルノ無[盡?]蔵財産ヲ得ルニ至レリ。 現今ハ各浦競争入札ニ附ス大正十一年請負金七千九百十二円大正十二年六千八百六十二円六十銭大正十三年六千五百六十五円二十銭ヲ収ムルニ至ル。 年々産額約三千二百[貫?]此ノ價格一万五千円内外ナリ
採鮑組ノ基金ハ一万四百六十円他ニ簡易保険準備金一万二千四百二円五十銭事業資金三千九百三十円
記念貯蓄金四百四十九円二十七銭ヲ有スト云フ
三、布良港
明治丗三年ノ造築ニ係リ縣費ヲ以テ長サ二十五間ノ防波堤ヲ築キシモ大正十二年九月一日ノ大震災ニ海岸隆起セシ・縣ニ出願シテ修築スルコトヽナレリ 其ノ希望区域図別表ノ如シ
四、漁業組合 水難救済会
1.布良漁業組合
明治丗五年創立明治丗九年事務所ヲ設置ス。事務所ハ漁業ニ関スル調査及諸般ノ施設経営ヲナス所ニシテ和[風?]瓦茸二階建當初ハ一株十五坪七合五勺ナリシモ其後増築シテ現今ハ三棟三十九坪七合五勺他ニ石造一棟十九坪五合ヲ有ス 組合人員三百四十二組合ノ基金ハ有價証券三百七十五円其他ヲ有シ其他預金一万一千七百九十五円四十八銭アリ 大正十二年度支出決算額ハ一万四千百二十一円七十一銭 大正十三年度豫算額ハ一万二千八十六円十銭ナリトス。
2.相浜漁業組合
明治丗五年創立 明治四十年事務所ヲ設置ス 事務所ハ和[風?]瓦茸平家一株十三坪七合五勺ナリシガ其後ノ増築ニヨリ現在ハ十五坪七合五勺ヲ有ス。組合人員二百九十六組合ノ基金ハ郵便貯金百四円一銭証券百十円アリ 他ニ豫金五千五百九十一円二十四銭現金二千五百十三円七十四銭ヲ有ス。
大正十二年度支出決算額ハ二千百二十二円七銭大正十三年度支出豫算額ハ二千五百九十七円四十八銭ナリトス。
四.帝国水難救済会布良救難所
布良救難所ハ明治三十六年三月二十五日ノ創立ニ係リ瓦茸平家建坪二十七坪七合五勺價格千二百三十円明治丗六年三月[起?]工同年七月丗一日竣工シ附属救助庫ハ杉皮茸平家建坪二十四坪二合七勺價格百四円明治三十九年六月建設セシモ大正六年十月一日ノ大暴風ノ[為?]該附属・庫破壊セラレ修膳不可能ノ為廃止ノヤムナキニ至ル。當所ハ帝国水難救済会ノ経営ニ係ル 救済会ハ帝国・海ニ於ケル生命財産ノ遭難ヲ救助スルヲ以テ目的トシ総裁ニハ常ニ皇族ノ[御?]方ヲ推[戴?]シ奉リ副総裁会長以下理事・事評議員等[朝?]野知名ノ士ヲ網羅シ其ノ目的ヲ達センガ為ニ沿岸危険ノ地点ニ救難所ヲ設置ス。現総裁ニハ伏見宮殿[下?]ヲ推戴シ奉ル 大正六年四月廿五日當所ハ畏クモ當時ノ総裁・伏見宮御台・ノ栄ヲ辱フス。 當所組織ハ[監?]督所長救助部長看守長以下看守組長副組長救助夫等ヨリ成リ布良男神山大山ノ丘上ヲ見張所ニ充ツ。救難用具ニハ浮輪胴[巻?]碇[諸?]種ノ鋼類救命・・架毛布・・計双眼鏡等アリ。 救助艇一隻アリシモ大正六年十月一日ノ大暴風ノ為破壊セラレンヲ以テ・・救難ノ際ハ漁船ヲ[雇?]フテ之ニ充ツ 大正十二年五月廿五日陛下ヨリ御下賜金アリ。即チ夜間標燈ノ費トス 依テ標燈ヲバ恩賜燈ト改名セリ。創立以来ノ成績ニ徴スレバ遭難船救助数実ニ二百十六隻此ノ容積一万二千七百六十七名船体船具價格十二万七千九百八十円貨物價格六万四千百二十円五十銭遭難救助人千二百四十人ヲ算スト云フ。
五、漁業家水夫ノ傳記及逸話
1.神田吉右衛門
神田吉右衛門翁天保五年十二月ヲ以テ本村布良ニ生ル本姓満井氏幼名ヲ三治郎ト称ス安政五年入リテ神田氏ヲ継グ・資勤倹能ク産ヲ治メ忍耐ニシテ果断而モ・慮精察細事ト雖モ忽・ニ・セズ常ニ身ヲ公事ニ委シテ・村ノタメニ計ル。 是ヲ以テ・人其ノ徳ニ服セリ明治九年十一月・村火災アリ氏亦此ノ災ニ罹リ而モ災厄ヲ顧ミズ決然奮起罹災民救助ノ方法ヲ講ジ以テ餓・ノ惨[憶?]ヲ救済セリ明治十年八月・・流行シ罹災者数百名ヲ算シ骨肉モ相警メテ禍ニ[遠?]ザカラント謀ル時ニ氏・生委員タリ 憮然奮起シ親シク病者ニ接シ懇篤至ラザルナケレバ患者感泣シテ其ノ恩ヲ謝セリ其他難破船救助ノ法ヲ設ケ水産ノ発達ヲ計リ一村ノ財政ヲ整理シ学資金増殖ノ道ヲ講ジ公共団体ノ役員トシテ至誠ト熱心トヲ以テヨクソノ本分ヲ守リヌ故アルカナ明治十八年功労顕著ノ故ヲ以テ藍綬褒章ヲ賜ハリ三十五年一月十一日ヲ以テ逝ク享年六十九龍樹院ニ葬ル官民会葬スルモノ[多?]カリキ
日本帝国褒章之記 千葉縣下安房国安房郡布良村 神田吉右衛門
資性篤実自愛ノ心深ク十有余年村吏ニ従事シテ其ノ給料ヲ受ケズ一村ノ旧[債?]ヲ[償?]却シ・[呈]ノ・・ヲ矯正シ・ニ本村火災ニ罹ルヤ生計ノ途ヲ失ヒ饑餓ニ迫ル者多キヲ[慨?]キ日夜寝食ヲ忘レ救済ノ法ヲ・シ或ハ悪疫流行ニ当リ奮身豫防ニ・力シ或ハ学校維持ノ基礎ヲ立ツル等其ノ成績少カラズ 依テ明治十四年十二月七日勅定ノ藍綬褒章ヲ賜ヒ其ノ善行ヲ表彰ス 明治十八年六月二十九日 ・老院議官兼賞勲局総裁従四位勲二等子爵大給恒印 此・ヲ勘査シ第五十八号ヲ以テ褒章簿[冊?]ニ登記ス 賞勲局主事従五位勲五等平井希昌印 表彰状 神田吉右衛門
夙ニ水産事業ノ必要ヲ唱ヘ鋭意・力斯業ノ改良進歩ニ・・セラレ特ニ明治廿一年同志ヲ糾合シテ本会ヲ組織シ直接間接ニ会務ヲ補[ケ?]多年一日ノ如ク・ノ成績頗ル揚ル蓋シ本会ガ本縣水産事業ニ致シタルノ効果タルヤ君・力与[テ?]大ナリト謂フ可シ今時勢ノ進・ニ・ミ本会ヲ漁業組合・合会ニ偶セシメ打テ一丸ト[作?]シ更ニ本縣水産事業ノ発達ヲ企・セントス・テ茲ニ君ガ本会ニ対スル多年ノ功労ヲ永久ニ表彰スルタメ銀器一対ヲ贈リ以テ紀念ト為ス 明治三十五年一月 千葉縣水産会々長従四位勲四等 阿部浩印
後有志相謀リテ大正二年六月十五日富崎小學校・内ニ翁ガ記念ノ碑ヲ建テ・化ノ偉績ヲ顕彰セリ 碑銘ハ男爵船越・ノ[撰?]文ニ係リ詳密ヲ・スト雖モ茲ニハ之ヲ省ク
2.藤森益樹
通称益樹元平部[多多良?]村代田一・[謗?]竜ノ次男ナリ天保[元?]年正月五日生ル相浜感満寺住円寿ノ後ヲ継ギ明治三年八月廿七日復飾シテ神職トナリ明治四十一年三月廿七日没ス [享?]七十九区葬ヲ以テ蓮寿院墓地に葬ル翁天資剛毅ニシテ親切常ニ信スル所ヲ断行シテ憚ル所ナク公共事業スルコト夛年殊ニ相浜漁業[職?]ニツキテハ最モ・痺セシ所アリ ・ニ感謝状ヲ・シテ本文ニ代フ 感謝状