タイトル: | 文化財の保存活用と市民の生涯学習まちづくり 〜館山まるごと博物館〜=文全教 |
掲載日時: | %2008年%07月%18日(%PM) %22時%Jul分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=564 |
…文化財保存全国協議会 第39回埼玉大会…
NPO法人安房文化遺産フォーラム(旧名称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)
代表 愛沢 伸雄 ・事務局長 池田恵美子
環日本海諸国図(富山県作成)で日本列島を南北逆さに見てみると、その頂点にあたるのが千葉県館山市である。太平洋に開かれた房総半島南部(安房)は、古くから重要な漁撈基地であるとともに、海路の拠点として広く世界とつながってきた歴史がある。さまざまな支配権力の影響を受けた地でもあり、中世の城跡や近代の戦争遺跡(以下、戦跡)はその象徴といえる。また、隆起した地層や海食洞穴からは地球の成り立ちを垣間見ることもできる。
私たちは、これらの歴史的環境を「まもる」「いかす」ことに重きをおいて、「館山まるごと博物館」構想による地域づくりをすすめてきた。モデルコースとして実施している10kmの「里見ウォーキング」では、5つのエリアごとにテーマ別の特性を学ぶことができる。【まちなかエリア】では産業振興と震災復興、【城山エリア】では『南総里見八犬伝(以下、八犬伝)』と房総里見氏の歴史、【赤山エリア】では戦跡と平和学習、【沖ノ島エリア】ではビーチコーミングと自然体験、【北下台(ぼっけだい)エリア】では近代水産業と水産教育のあゆみ。
足もとの物語を知ることは、地域への誇りを育んでくれる。これらのフィールドから浮かび上がってくるのは、先人たちが培った〝平和・交流・共生〟の精神である。戦乱や災害を乗り越え、新しい希望を生み出してきた先人の姿は、現代社会で忘れられている大切なものを私たちに教えてくれる。現在、私たちはこの精神を核とした交流文化を醸成することを通して、文化財の保存と活用を図っている。
10余年にわたる市民の保存運動が実り、2004年春、館山海軍航空隊赤山地下壕は自治体によって一般公開された。同年夏に開催した第8回戦争遺跡保存全国大会館山シンポジウムは、館山の戦跡が全国的に知られる契機となり、翌年には赤山地下壕の市史跡指定が実現した。ここに至るには、文化財保存全国協議会や戦争遺跡保存全国ネットワークの強力な連携があってこその成果である。「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」報告書は館山市ホームページに掲載されている。
http://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page000761.html
館山にある戦跡の大半は、近代史を理解するうえで欠くことのできないAランクとされているが、赤山地下壕以外は民有地あるいは国有地にあるため、未だ放置されている。私たちは地権者の許可を受けて、戦跡の保全整備と見学ガイドを続けており、年間のガイド実績は約200団体、述べ4,000人となっている。
館山の平和研修から、素晴らしい芸術作品が2つ誕生した。1つは、合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』である。館山湾に生息するウミホタルは、青く美しい光を発する小さな命である。軍事利用の研究目的で、館山の子どもたちが採取を命じられていたという実話から生まれた。「戦後60年」の初演以来、広く国内外に歌われはじめている。事前学習の一環として合唱練習を取り入れ、館山の平和研修の際に戦跡見学とウミホタル発光鑑賞と合唱披露を組み合わせる学校も増えてきた。
もう1つは、女学生時代を館山で過ごしたという女性監督せんぼんよしこ氏による映画『赤い鯨と白い蛇』である。赤い鯨は館山沖で訓練した特殊潜航艇を意味し、白い蛇は脈々とつながる家の守り神を象徴している。主人公(香川京子)が60年ぶりに館山の戦跡を訪れるという設定で、平和や命の尊さを謳った珠玉の作品である。終戦2日前に亡くなった特攻隊員の遺品を見つけるクライマックス・シーンは、天井に龍のレリーフが彫られた地下壕のなかで撮影された。この地下壕は福祉施設内にあるため、自由に見学することはできないが、この映画の普及とともにロケ地めぐりツアーを実施し、戦跡の保存活用を図ってゆきたいと願っている。
地域に残るさまざまな文化財は、海を伝って往来していた先人たちの姿を伝えてくれている。房総半島発祥といわれる「万祝」は漁撈の晴着であるが、千葉県立安房博物館に所蔵される1枚には、交差した日米の国旗と「USA」の文字が染められている。明治期に安房から米国西海岸モントレー湾域に移住したアワビ漁師たちが製作したものである。
器械式潜水具の導入によって寒流での採鮑漁を可能にした日系移民は、アワビステーキや缶詰などの水産加工業を興し、日米親善の架け橋として大きな役割を担ったものと思われる。しかし日米開戦後、強制収容所に移送され、対日戦略への協力を余儀なくされる。一方、本土決戦防衛の最線であった安房では、残された家族が敵国のスパイとみなされないため、渡米に関する写真や手紙などは隠匿せざるを得なかった。
近年、忘れ去られたこのような地域の歴史に関心を寄せた一部の市民は、関係者宅を訪ねて地道な調査研究を続けてきた。在米の二世・三世や歴史研究者に連絡をとったことを契機として、ルーツを共有する日米の市民交流が育まれ、重要な歴史が次々と明らかになりつつある。
国際交流の痕跡は、館山市大網の大厳院にある「四面石塔」(千葉県指定文化財)にも見ることができる。東西南北の各面に和風漢字・中国篆字・朝鮮ハングル・インド梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、1624年に建立されている。日朝の歴史背景を鑑みたとき、戦没者供養や平和祈願がこめられているのではないか、と推察される。
この授業実践は日韓双方の歴史教育者に注目され、2002年「日韓国民交流年」には館山で日韓共同研究シンポジウムが開催された。さらに2005年「日韓友情年」には、韓国・浦項(ポハン)の児童20人を迎え「たてやま日韓子ども交流」を開催した。「四面石塔」や戦跡などをめぐる歴史学習のほか、手づくり甲冑の着用や茶道、民族音楽などの文化体験、無人島探検の自然体験を通して交流し、友情を育んだ。
偶然であるが、児童らが暮らす韓国・浦項(ポハン)の岬には、日本船の遭難記念碑が建っている。後に東京水産大学(現東京海洋大学)となる水産講習所の初代練習船「快鷹丸」は、館山沖を訓練地としていたが、1907年に朝鮮海域で難破し、4名が殉難、生存者は漁民たちに救助されたという。関係者によって建立された遭難記念碑は、戦争の時代を経て土中に埋もれるが、1971年に浦項の市民によって再建され、今なお日韓共同で保存事業が行なわれている。私たちが遭難100年記念の参詣に渡韓した際、竹島にも近い韓国最東端の岬に暮らす人びとは、「国境や政治に捉われることなく、海に生きる男同士は仲良く生きていかなければならない。その友情の証として、我々は記念碑を守り続ける」と言っていた。
今秋に開催される日韓生涯学習まちづくり学会では、私たちNPOが日本側の事例報告を発表する予定となっている。
『南総里見八犬伝』のモデルとなった房総里見氏が、南房総・安房の地を治めていたことはあまり知られていない。地域でも忘れられた歴史のひとつであるが、1996年、里見氏の本城であった稲村城跡が公共道路計画により破壊される寸前となった。
そこで私たち市民は、「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げた。ヤブや草を刈ってウォーキングルートを整備し、また講演会やシンポジウム、フィールドワークなどを重ね地域文化を学びながら、市民が中心となって保存運動をすすめた。この間、文全協をはじめとする歴史・文化財・城郭関係の諸団体から、署名や要望書の上申など温かいご支援ご協力をいただいた。
10余年におよぶ市民運動は実り、市当局から道路計画の変更と稲村城跡の保存が表明された。さらに文化庁と千葉県は、稲村城跡と岡本城跡(南房総市史跡)を中心とした里見氏城郭群を国指定史跡の候補とした。これを受けて、館山市教育委員会では稲村城跡調査検討委員会を設置し、2年間にわたる発掘調査をおこなった。その報告書は館山市ホームページで公開されている。
http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?stoid=12525
里見氏城跡群は歴史遺産であるばかりでなく、豊かな里山としての自然遺産であり、『南総里見八犬伝』の舞台としても描かれている文化遺産でもある。私たちは、「八犬伝のふるさと・里見のまち館山」をキャッチフレーズとして、歴史・文化を活かした地域づくりを呼びかけてきた。
保存運動に連動し、里見氏ゆかりの高崎市(旧榛名町)や倉吉市(旧関金町)と、距離と時代を超えた「里見氏トライアングル交流」が生まれた。南総里見まつり、榛名梅まつり、里見桜の植樹、子ども村歌舞伎、南総里見手づくり甲冑などの市民の文化交流として、今日まで豊かに育まれている。
折しも、現代は世界的なサムライ・ブームであるという。この背景には、「クール・ジャパン(かっこいい日本)」と称される日本のアニメ・マンガ・ゲームなどの影響が大きい。新しいコンテンツ産業としての需要も高まっており、外務省や国交省でも「世界コスプレサミット」を後援している。コスプレとは仮装を意味する和製英語で、狭義ではアニメやゲームの登場人物を模した衣装を自ら創作・着用する嗜好をさしている。
幸いにも、館山には南総里見手づくり甲冑という市民文化があり、秋の南総里見まつりでは堂本暁子千葉県知事が伏姫に扮している。新しい試みとして、「戦国こすぷれ大会」を開催した。館山城山公園(館山城跡・館山市史跡)を主会場として企画に、全国から80名の若者が集まった。
この模様は、NHK首都圏ニュースで文化的に報道されたばかりでなく、それぞれの参加者がインターネットを通じて館山を好意的に紹介してくれている。創作系の和装コスプレイヤーは歴史に造詣が深く、私たちの城跡保存運動に関心と期待を寄せてくれたことは予想外の収穫であった。文化財の保存活用に関して、若者文化が新しい可能性を示唆してくれたのである。
青木繁の『海の幸』(国重文)は、1904年に館山の小さな漁村・布良で誕生した。マグロ延縄漁で活気に満ち、陽光あふれる大海原は、多くの画家や文人墨客に愛された。夭逝した青木の没後50年を期して、『海の幸』記念碑が建立された。発起人には、当時の館山市長をはじめ画家の坂本繁二郎や辻永、美術評論家の河北倫明などが名を連ね、設計は、海外の現代建築を翻訳し日本に紹介していた生田勉東大教授が担当した。
近年、漁業の衰退に伴って急速な少子高齢・過疎化が進んだ布良では、館山ユースホステルの廃業に伴い、隣接した記念碑の破壊と国有地の現状復帰が求められた。しかし、子どもたちに誇りを残したいと願う地域住民らの熱意によって、記念碑の破壊が免れた。保存運動の代表は、青木が坂本らとともに滞在した小谷家の当主である。
その後の調査によって、築130年の小谷家住宅は明治中期の漁村を代表する建築として文化財的価値の高いことが判明した。私たちは小谷氏とともに、文化財の保存活用と地域活性化の可能性について何度も話し合いを重ねた。地域の財産として自らの住宅を後世に残すことを決意した小谷氏は、市教委へ文化財指定を申請した。審議は今年度行なわれるが、私たちは「青木繁『海の幸』誕生の家と記念碑を保存する会」を設立し、全国の美術専門家や愛好家に呼びかけ、保存活用を図っていく準備をはじめている。
足もとの物語を知ることは、自分の暮らすまちへの愛情と誇りが育まれる。現在、当NPOでは年間約150団体のスタディツアーを迎え、延べ5千人近い来訪者に対して講演やガイド活動を提供しているが、その中心を担うのは、定年後の生きがいを見出したシニア層である。彼らを生涯現役で創造し続ける世代と位置づけて、高齢者や老人という呼称の代わりに「創年」と定義し、当地を訪れる人びととともに、学び知ることの喜びを分かち合う世代間交流を推進している。
学びの交流拠点として、私たちは「小高熹郎記念館〜たてやま海辺のまちかど博物館」を開館した。小高氏は地域の文化振興に貢献した館山市名誉市民であるが、氏の遺産である大正期の銀行建物をNPOで借り受け、創年たちの手によって修繕され、再び白亜の洋館に命が吹き込まれた。いずれ近代化遺産として、文化財登録をし、後世に残していきたい。
新たな交流文化の醸成が、地域に対する誇りや愛着を育み、少子高齢化社会のなかで豊かなコミュニティを創造し、雇用創出の一助になればと願っている。