●白浜城跡(しらはまじょうせき)●
≪南房総市(旧白浜町)指定文化財≫
白浜は、中世東国の太平洋海運にとって極めて重要な地でした。里見氏が安房に来る前から、安房支配にかかわった関東管領上杉氏が、太平洋の海上交通を押さえる拠点にしていました。そのため、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が対立した享徳の乱において、安房地方を上杉氏から奪うために公方派から送り込まれたのが、房総里見氏初代の里見義実です。そして、義実が最初に拠った城が白浜城だと考えられています。その後、稲村城が安房支配の拠点となってからも、隠居した里見義通が白浜城に入り、稲村城の義豊を支える重要な役割をもったようです。
中世以前の白浜城直下の海岸線は現在よりかなり山側にあり、特に青木観音堂あたりは大きな入り江になっていたようです。そのことからも白浜が房総沖の太平洋海運の拠点の湊であり、白浜城は広大な城域をもつ重要な湊城だったと考えられます。
歴史的に不明な点が多い城ですが、登山道入り口にある青木観音堂には里見義豊の関係者が奉納したとされる賓頭蘆尊者(びんずるそんじゃ)坐像があり、周辺には、里見成義像があり、成義の墓があったと伝わる福寿院、里見杢入道(さとみもくにゅうどう)の墓がある満願寺、里見義実(義堯)の娘が創建したといわれる種林寺の跡、さらに、里見義実が開いたとされる杖珠院が点在しています。ここ杖珠院には、義実・成義・義通・義豊の木像、義実の供養塔、義孝の短冊、義実創建の銘文がある文政七年(1824)の半鐘などがあります。このように城下には里見に関するものが数多く残っています。
また、義豊が滅びて、庶流の里見義堯が実権を握ってからも、白浜には里見氏嫡流が住み続けていたと考えられています。今も白浜城跡周辺には、里見義通の兄である里見義富の子孫という里見氏や、前期里見氏の重臣だった木曽氏の子孫と考えられる人々が住んでいます。(石井)
白浜城跡は、房総半島の南端にある野島崎の北約700m、標高140mの山頂を中心に東西1km、南北400m以上にわたる、太平洋側に面した城郭跡の中では最大規模を誇る山城。(遺構の一部は第2次世界大戦中、軍事施設として改変、または畑作利用の可能性もある。)
JR白浜駅バス停より「弘法の芋井戸」の標識に従って歩き、10分ほどで青木観音堂に着く。お堂脇にある白浜城跡案内板から細い谷間の急坂を登ると、最初の切岸が見えてくる。さらにジグザグに登ると左右に曲輪が点在しているのが分かる。やがて、高さが5m以上もある切通しが迫ってきて、前方に明るい空が丸く広がってくると尾根に出る。右手の尾根道は稲村城跡へと続いているが、冬期を除いては草が生い茂ってる。整備された左手方向に進み階段を上ると、石宮のある山頂に出る。海側を覗くとこの絶壁が天然の要害であったことが納得できる。さらに尾根伝いを進むと浅間様のある次の山頂に着く。大きく開けた南側に白浜の町並みが見渡せ、昔、眼下まで海が迫っていた様子が伺える。冬から春にかけては、一面の花畑の光景を楽しむことができ、視界のよい日には三宅島や伊豆半島が浮かんで見える。尾根は西山頂へと続くが、ここまでの北側には、木立の合間から大小無数の腰曲輪が複雑にめぐらされているのが見て取れる。青木観音堂から山頂まで、およそ40分ほどで往復することがでる。
【白浜城跡鳥瞰図】
南を海に面し、東西にのびる丘陵地を約1kmにわたってつかった城。
海側の急斜面は、自然の地形で約120mの急な崖になっている。
北側は長尾川の支流によって侵食を受け、緩傾斜となっているため腰曲輪を幾重にも巡らし防御している。