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●滝田城跡(たきだじょうせき)●

【南房総市(旧三芳村)指定史跡】


≪里見義豊派、最後の拠点として徹底抗戦の場に≫

戦国時代、安房最大の幹線道路平久里道を押さえ、管理する拠点の場所に滝田城はありました。城主は一色九郎、天文期、里見義豊の妹を妻にしていました。

一色氏は、もと足利氏に仕えていた武蔵幸手一色氏の一族で、安房にあった足利氏の御料所(所領)を管理していたと考えられており、里見氏が安房の主になった際、従ったものと思われます。

一色九郎の時、「天文の内乱」(天文二年・1533)が勃発します。里見氏一族内での主導権争いを契機として、義豊が、叔父里見実堯を稲村城に呼び、殺害した事件です。家臣、国人層も巻き込み、安房国内の内乱にまで発展しました。

滝田城周辺は、もともと里見義豊の支持勢力が多く集まっていたところだったと考えられており、この内乱で、義堯の勢力によって、義豊側が劣勢に追い込まれた際、義豊派最後の拠点として徹底抗戦の場になりました。

滝田城は、天文二年(1533)九月に落城しています。義豊方として戦った一色氏は、実堯の子、義堯により滅ぼされました。


主郭部に近いところで、近年15世紀前半に比定される計7個分の陶器片が見つかっており、一色氏在城の時のものであると考えられています。城郭全体の構造は、最高所に主郭と櫓台を置き、あとは段々に削平地(曲輪)を置いただけの比較的単純な構造になっています。そして、高い位置に広い馬場を造り、馬を鍛錬すると共に、そこから直下の平久里道を監視することができるなど、標高140mという高さを利用した城となっています。

また、この城には竪堀が一筋(かつては三筋あった)確認できることから、一色氏が滅んだ後、戦国時代末期頃まで使われていたと考えられています。

尾根づたいに宮本城跡(南房総市・旧富浦町)へ行くことができ、落城の時、兵士たちが宮本城をさして逃げる際、集まったという「たまり場」もこの尾根に残っています。(島田)


【滝田城跡鳥瞰図】

城の構造は、最高所に主格と櫓台(鉄塔の立つ位置)をおき、あとは段々に削平地を並べるだけの、単純な構造をとっている。馬場とよばれる平坦で細長い場所が、根古屋をあがったすぐの所にあるが、この東端部は眼下に平久里(平群)道を臨み、街道を監視し抑える絶好の位置にある。


【城跡ウォーキング】

●所要時間 80分

●大手側にトイレ、駐車場(乗用車)あり

●滝田郵便局の前に農協の建物があるが、その脇の坂道から登るとよい。

歩くこと5分、目の前に迫る高い土手を上がるとそこが「馬場」の跡。北側が少し高くなっているが、かつて櫓台があったらしい。馬場を南に向かって歩くと、馬が山中に逃げ込まないように、防止するための「土塁」がある。

土塁の左手に見える一本の道を登ると数分で「虎口」。そこを左に、直進すれば「竪堀」が深く口を開いて待ち構えている。虎口まで戻り、さらに山道を進む。左右に展開する平場はいずれも「曲輪」、兵士の集合場所だったり、施設が建っていたりしたのだろう。城が機能していた頃はすべての曲輪に名称がつけられていた。

やがて鉄塔の直下に達する。この平場(曲輪)が主郭部で、鉄塔のたつ所は櫓台、いま、八幡台とも呼ばれている。南に小さく稲村城が見える。大きなイチョウの樹が目印。急な階段を下れば、「堀切」と削りのこしの「土橋」がある。

右に向かう道は、宮本城に通じている。土橋から南に一本道を進めば、遠見山に達する。しばし休憩をとり、下って行けば駐車場に降り立つ。このあたりは今も「大手」と呼ばれており、城の表口のあった所。

この城には、多くの植物が季節を彩り、野鳥がさえずるなど快適なハイキングコースとなっている。『南総里見八犬伝』の舞台としても有名。

09年2月2日 14,242

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旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

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