1880(明治13)年、岡山生まれ。福祉の父と呼ばれたクリスチャン石井十次(1862〜1914)が始めた岡山孤児院で事務を執り、鎌倉・東京を経て、1916(大正5)年、北条町新塩場に千葉県育児園(県内初の孤児院)を開園しました。
関東大震災で園舎は倒壊したものの、孤児は助かりました。クリスチャンだった光田は「神のご加護」と感謝し、関西方面の知人を頼って救援物資依頼の演説会を各地で開催しました。布団など1千点余の支援を仰ぎ、熱意と犠牲的精神をもって被災者の寒さと飢えを救った功労者です。
キリスト者として、聖アンデレ教会の再建にも尽力しました。育児園は館山町沼(館山小学校裏手)に移転しましたが、戦後の消息は不明です。
鹿田光太郎の回想
同日(大正12年9月1日)午前11時48分頃艦砲射撃の行はれたらんと覚はしき大音響を聞くや否吾園の一族は空中に刎ね揚げられし感覚もて地上に投げ飛ばされたり。爾後震動は連続し歩行は愚か起ち上がることさへ困難なりき、斯る出来事に園児等は泣き叫び狼狽の限りを演ぜしも漸くにして庭樹の元に伴ひ来り、茲に一同を保護慰撫しつつ其無事なりしに愁眉を開きぬ。
かくて数分間は如上の事柄に心奪はれ他を顧みるに遑なかりき、暫くにして園舎の倒壊せるに気付き感慨無量を覚ゆると共に激震に遭遇せしことをも感知せり、而して附近の上京如何に想倒し周囲を一瞥するや黄塵濠々として天に冲し天日の暗きを覚えぬ、是に於てか地震は更に大縲風を伴ひしものならんとの感覚を抱かしめられ吾等の世界は遂に如何に成行くものならんとの恐怖をさへ惹起するに至りぬ。
…『千葉県育児園震災復旧誌』より抜粋
鹿田光田郎…功労顕著と認むる事実の概要
(1)這般の大震は実に千古未曾有の惨事にして罹災者の窮乏と恐怖とは到底筆紙に尽し難きものあり此の時に当り北条、館山、那古、船形其の他に亘り実情を精査し人心の安定を策するに貢献する所大なり。
(2)災害当初に在りては死傷者死傷者救護の特に急なるものあり食品を顧るの遑なかりしを以て被害者は一般に食品に窮す過日滝田村より多量の炊出寄附あるや氏は各所にふれ廻り且自身食品を背負ひて館山其の他多数罹災者の集合せる場所を巡回して之れが配給に努む事小なるに似たるも当時の状況重きを負ふて東西に奔走鼻する容易の業にあらず活動特に人目を惹く。
(3)三日余震尚ほ甚だし此の時に当り震災の現況を撮影し置くは永久の記念たるのみならず教育上、歴史上、科学上有効の材料たるべき旨を建策し写真師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む此の写真は御差遣の侍従及び山階宮殿下の御目にかけたるに何れも好材料なりとて御持帰りあらせらる其の他地震学者等多数本郡視察者於て複製して参考に供せらる。
(4)災後数日にして医薬食品の配給稍や其の緒に就くや次に欠乏を感ずるは小屋掛材料殊に屋根材料としては此際「トタン」を措て他に適当のものなし氏は大阪に知己あり多少該品の買付を為し得るの確信ある旨を通じ乃ち小官の依頼をうけ九月十日交通機関は依然破壊状態にして旅程困難なるに際し万難を排し方途を尽して大阪に赴き亜鉛板十万枚、釘三百樽其の他の買付を為すと共に大に当地の惨状を説き同情を喚起し幾多慰問品の寄贈を得たり十月更らに第二回の亜鉛購入の為め下阪し大阪神戸の間に奔走し亜鉛板五万枚、釘千二百樽購入の任を全うす。
(5)十一月下旬三たび大阪神戸に下り布団、毛布募集の大遊説を試み布団、毛布其の他千余の寄贈を受け家屋の焼失、流失者に分与し寒さと飢に泣く罹災者を救ふの途を構ぜらる。
…『安房震災誌』(大正15年3月発行)より