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●岡本城跡(おかもとじょうせき)●

≪国指定史跡≫

≪南房総市(旧富浦町)指定史跡≫


【直接海に面した海城は、里見水軍の拠点】


岡本城は、戦国時代末期の里見家当主の里見義頼・義康二代が居城とした城です。富浦町豊岡の海岸へせり出した丘陵端に位置し,最高所は標高66mで、尾根上・中段・裾部に8つの郭と多数の腰曲輪を見ることができます。

主郭部北西先端は物見台状になっており、東京湾や直下の湊を一望できる立地です。大規模な堀切によって、郭が区画され、なかでも頂上の中心的な郭では、発掘によって中国製の陶磁器などが出土したほか,掘立ての高層建築があった可能性が確認されています。また枡ヶ池とよばれる岩盤を掘り込んだ水堀が山の上にあります。全国的に見ても類例の少ない非常に珍しい施設で、城井戸を兼ねたものと推定されています。

義堯・義弘などの里見氏の主力が上総に展開しているあいだ、安房の押さえとして岡本には義頼が置かれていました。天正六年(1578)に里見義弘が没すると、その名跡を巡って安房を基盤とする義頼派と上総を基盤とする梅王丸派との間に内乱が起こり,義頼派が勝利してその結果岡本城が里見宗家の居城となりました。その後、秀吉に上総を没収されたのを契機に里見義康が居城を館山城に移すまで、里見家当主の城として機能しました。天正一七年(1589)頃に居館が火災にあったことがあり、近習の岡本頼元など50余人が出仕を止められたことがあります。

主郭の南側直下には二つの区画を合わせると一町×半町規模の平坦地があり、ここには居館を想定することができます。さらに「古館」「新宿」「田宿」の地名および寺社の配置などから小規模ながら城下町が形成されていた可能性があり、戦国大名領国の政治・経済の中枢として機能を備えていたと思われます。

殊に、直接海に面した海城であることから、里見水軍の根拠地であるとともに、海上交通の結節点となる湊を活用して経済活動にも目を向けた城郭と考えることができます。(金久)


【岡本城鳥瞰図】

湊として機能する小湾を用害地区にもつ、典型的な湊城。主郭北東先端は物見台状になっており、東京湾や膝下の湊を一望できる。大規模な堀切によって、それぞれの郭に分かれる。また、遠く宮本城の主郭部分から本城を臨むことが可能で、天正期においても、両者は有機的関係をもっていたものと思われる。


JR富浦駅から、国道127号を東京方面に10分ほど行くと、里見公園の看板がある。旧道のトンネル手前に山への上り口があるので、ここから城跡へ登る。まずは頂上の主郭部。ここは発掘調査をした時に掘立ての高層建築の跡が発見された。西側に行く途中の土橋を渡り先端まで行くと、東京湾が見渡せ、天気が良ければ三浦半島や大島などが見られる眺めの良いところである。海上交通において,重要な場所であることが良くわかる。

主郭部までもどり東に行くと大きな堀切がある。階段を下りて堀切の下に行くことが出来る。枇杷畑のために造られた道を大小の堀切を上り下りして行くと畑の隅に岡本城主里見氏の伝説、里見遺愛の松と聖大権現の碑がる。更に東へ向かい3つ目の堀切を下る。左手に高い切岸を見ながら行くと、岩盤を堀りこんだ水堀がある。枡ケ池といって底は一升枡の大きさになっていて,落ちたら上がれないといわれている。堀の裏側にここで自殺した人の供養塔がある。

ここまで来た道を始めの堀切まで戻り左の下り道を降りていくと、大学付属大泉小学校富浦寮の脇へ出て全昌寺の裏から国道127号へ。

城跡周辺の里見氏史跡を含めて歩くのも良い。(1時間30分程度)

09年2月2日 13,724

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