NPO 安房文化遺産フォーラム メインコンテンツ » 印刷専用ページ

タイトル:安房の水産業
掲載日時:%2009年%02月%19日(%AM) %11時%Feb分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=251

安房の水産業をさぐる〜明治期・日本水産業の黎明期と安房の人びと

〜醍醐新兵衛・関沢明清・正木清一郎をみる


千葉県を代表する産業である水産業は、たとえば那古地域においてどのような役割を果たしてきたか。1885(明治18)年の『平郡正木村誌』によると、地引き網や藻打網の漁具を使用して、那古浦では漁船4艘と20名の漁夫で操業し、また正木浦(川崎浦)では規模も大きく、漁船18艘と漁夫90名で操業していると記載されている。那古海岸でも漁船が増え、1887(明治20)年には、木造漁船を製造と修理する鈴木造船所が創業している。那古には3名程の船大工がいたといわれている。


千葉県は漁業振興の一環として漁業会社の育成に努め、1887(明治20)年以降、政府が定めた法律により漁業育成のために漁業組合の設立を促している。その結果、翌年に那古町を含む内房沿岸の萩生村から洲崎村までの地域に安房西海漁業組合が設立され、全国的にも329の組合が誕生した。従来より無秩序な操業によって、沿岸の水産資源を減らし漁獲高を減少させていただけでなく、入会漁業をめぐって各地で紛争が多発していた。これらの課題の解決には、漁業組合を通じた取り組みが不可欠であった。


当時、魚群がしだいに沖に移るようになったことで、遠海での漁業が求められ、漁船の動力化などの改良が必要になってきた。1904(明治35)年に「安房郡遠海出漁船奨励規程」が公布され、宮城県以北や八丈島以南、あるいは九州以西などに出向いて漁業に従事しているものには、補助金を出すという内容であった。


19世紀後半、鯨の好漁場であった金華山沖はジャパングランドと呼ばれ、アメリカ式捕鯨銃を使う外国捕鯨船が集まって、数多くの鯨を捕獲していた。その後、日本近海で鯨が急減し小型和船を使った鯨組は、沖合いでの操業が出来ず、従来からの古式捕鯨は衰退していった。勝山の醍醐家8代目の新兵衛定緝は、1852(嘉永5)年に台風で船を失いながらも、残った船で蝦夷地に到着した後、アメリカ式捕鯨を始めている。また、9代目の新兵衛定固も、1864(元治元)年に北洋に出向き、樺太沿岸でサケ漁を試みたといわれる。この頃、鯨油を製造して海外に輸出しようと図ったものの、品質が悪く成功しなかった。


1889(明治22)年、醍醐家の10代目新兵衛徳太郎は、渋沢栄一や大倉喜八郎らの資金援助を得て、農商務省の官吏関沢明清と、館山の豊津村において捕鯨と鯨油製造の日本水産会社を設立した。近代捕鯨に関わって大きな期待があったが、鯨油製造の技術に問題があっただけでなく捕鯨の不振もあり、3年あまりで会社は解散となった。水産業の先行きを案じた関沢は、自ら範を示すかのごとく官吏を辞めて、一漁師として捕鯨船に乗り込んでいった。


1894(明治27)年、館山から捕鯨銃である改良ボンブランスを配備した2隻の手漕ぎ舟を積んだ帆船長寿丸(40㌧)が、金華山沖に出漁していった。そして、関沢は日本人として初めてマッコウクジラ2頭を捕獲したのである。その後、関沢は日本水産会社の漁船や漁具などを引き取り、関沢水産製造所と改称して館山を拠点に果敢な活動を展開していった。


関沢明清は、安房のみならず日本の近代水産業にとって先駆的な役割を果たした人物である。1843(天保14)年、加賀藩士の次男として金沢で出生した関澤は、江戸で大村益次郎らに蘭学・航海術を学び、1866(慶応2)年に加賀藩留学生として3年間渡英後、政府の官吏となった。1872(明治5)年のウィーン万国博覧会では、政府派遣団の事務官として参加し、博覧会展示業務とともに貿易に関する調査の任務が課せられた。関沢は各国の展示のなかで、スエーデン・ノルウエー漁業館にあった輸出品の水産加工品の優秀さや、オーストリア農業館に展示してあったサケの成長過程のアルコール漬け標本展示に驚かされ衝撃を受けた。その後、1875(明治8)年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会にも事務官として田中芳男らと参加し、日本の水産業の将来にとって、捕鯨技術やサケ・マスの人工ふ化技術、そして缶詰製造法を導入することが重要だと見抜いたのであった。


千葉県の水産界にも大きな貢献をしている。1887(明治20)年前後に九十九里海岸では極端に鰯が不漁となったので、千葉県では、直接関沢からの技術的な指導を受けて、アメリカ式巾着網と従来の揚繰網を折衷した漁法である改良揚繰網を導入していった。以後、この改良揚繰網漁は、江戸時代からの地引き網や八手網より効率がよかったので鰯漁の中心漁法となり、千葉県から全国に広がり、近年にいたるまで沿岸漁業に大きな影響をもった。


1888(明治21)年、東京海洋大学の前身である水産伝習所初代所長として、後進の育成のため水産教育に精力を注いでいた関沢であったが、結局、日本の水産業の発展が急務と見て、自ら一漁業者となって、捕鯨や遠洋漁業の世界に入っていった。だが、パイオニアとしての志も道半ば、病魔に冒され55歳で永眠している。この関沢の偉業を引き継いだのが、弟の鏑木余三郎であった。鏑木は、関沢が建造した豊津丸でベーリング海へ出かけてオットセイ漁に成功し、冬は鮪漁、夏は捕鯨やオットセイ漁をおこなう房総遠洋漁業会社を1898(明治31)年に設立している。この会社には、1895(明治28)年に郡長を辞め安房銀行を創立した吉田謹爾が、安房の水産業が進展するために顧問となっている。


最新の水産知識・技能や国際的な水産業の動きを見ながら、果敢に立ち向かっていく関沢や鏑木の取り組みには、千葉県や安房の水産業に関わる人びとに大きな刺激と夢を与えていた。そんななかで、大きな役割をはたしたのが正木清一郎である。正木家は里見氏の末裔といわれ、代々船形村の名主であった。父貞蔵は安房郡市の官吏も勤め、吉田謹爾らとともに安房の産業振興に心を砕いていたが、1880(明治13)年、船形村に北条汽船を設立して以来、安房の海運業を発展を願って内湾汽船事業に携わっていた。正木清一郎も父の事業を手伝う傍ら、水産製造や漁業に従事し農商務省や関沢明清らとともに、水産博覧会事務や八丈島沿海の漁場水産調査に出向くなど、千葉県水産界をリードするさまざな事業に関わって、貢献していった。その間、地域では船形村長や町長に就任して、地元水産業の育成などに務めていた。


千葉県水産事業の発展を期して、1899(明治32)年、夷隅郡勝浦町に千葉県立水産試験場が設置され、1901(明治34)年には、那古町に安房郡の一部や東京湾内の事業を統轄する試験場として、那古支場(翌年に那古第一支場と改称)が開設された。鰯漁の漁法であった改良揚繰網漁のための漁労方法などの実験をすすめ、実際に試験船で沖合いへ出漁して現場での技術向上に取り組んでいた。同時に新しい漁法を普及し、漁船の改良や動力化をすすめていくには、漁業者養成が急務になっていた。


1903(明治36)年、那古支場では水産に関する知識・技能を普及する講習部を新設し、生徒を募集した。支場長牧松三郎らが中心となって、午前中は動植物学や気象学、水産経営法などの学課を、午後は実習に重点を置き、館山湾内での小漁船の操船からはじまりマグロ延縄業の実習もあった。翌年に実業学校の扱いとされ、千葉県水産講習所と改め、本科2年で水産学全般を学び、研究科1年で漁労・製造・養殖の3科に分かれて専門知識を学んだ。1906(明治39)年に那古第一支場は廃止されたものの水産講習所は存続し、1908(明治41)年度には、1年生16名と2年生13名、そして研究科には漁労専攻1名、製造専攻6名が在籍していたと記録されているが、1917(大正6)年には財政難のなかで廃止された。だが、安房では中等教育拡充の要求が強く、なかでも実業教育振興の必要性が高まっていたので、水産講習所復活の声は大きかった。

元のページに戻る