江戸湾口部という要衝に位置していた関東で最大の外様大名里見氏は、口実さえあれば、改易は時間の問題であった。そして、1614年になって幕閣大久保忠隣の孫娘を妻にしていた里見忠義は、忠隣の政治的動きに連座して国替えを命ぜられ、結局伯耆国倉吉に改易された。その後、安房国は幕府直轄地として代官や旗本が支配することになるが、とくに海岸警備や水軍(海軍)に関係していた石川氏や小笠原氏をはじめ、屋代氏や稲葉氏など譜代や旗本などが陣屋を設けることとなった。
ところで、江戸へ物資を運ぶ場合は浦賀番所で検査があったが、鮮魚を扱っていた安房の押送船などは、素通りしてもよいとの特別許可があった。その鮮魚は江戸前として江戸の食卓に上がっていた。陸路であると江戸まで3泊4日もかかるが、押送船では10時間程度で江戸に着いたので、房州の人びとにとって、江戸は身近な都市であり、庶民の生活や文化のなかに生きていた。『南総里見八犬伝』を描いた曲亭馬琴の周りには、房州出身の職人や奉公人たちがいた。房州館山は江戸の物資供給地だけではなく、江戸に多くの働き手を送り込んでいたのである。子どもたちには読み書きの寺子屋教育を通じて、飢饉や災害を乗り越えていく知恵や地域の伝統文化が継承されていった。
18世紀初めの「万石騒動」という農民一揆では、農民たちが大挙して江戸の屋代家の屋敷に門訴に出向いたが、それは朝鮮通信使の来日という外交日程を利用したもので、農民たちの戦術にも海路を結んだ江戸の情報が深く浸透していた。
幕末になると外国船への海防強化のため台場などの軍事施設が江戸湾沿岸につくられ、なかでも1810(文化7)年、松平定信によって海岸警備が強化され、竹岡や白子、波左間に陣屋を設置し、洲崎には台場が建設された。その後、忍藩は大房岬に台場建設し、北条鶴ヶ谷には陣屋を移転して北条海岸に大砲を配備したといわれる。