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タイトル:深津文雄牧師-①(かにた便100号)
掲載日時:%2011年%03月%10日(%PM) %21時%Mar分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=543

『かにた便』100号より転載

おじいちゃん

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とうとうその時がきてしまった。かにたを創設し、村人の父であったおじいちゃんと、地上におけるお別れをしなければならない時が。2000年8月20日かにた教会で、レクイエムではじまる告別式が、おじいさんが作り、これまで44人の友との別れに使われた形式そのままに営まれた。

師は1909年11月22日、福井県敦賀町の日本基督教会敦賀伝道所で、牧師深津基一、隆子の次男として誕生し、3年後に3才年上の兄基二を疫痢で亡くし、その翌年妹千代を与えられたが、8日後に母を産褥熱で失った。3才の時である。

1年後に継母林烝(じょう)が迎えられたが、父の仕事の関係で、金沢、台北、営口(旧満州)、島根県の阿用、大連を転々とし、その大連で小学校5年、11才の時父をチブスで亡くし孤児となり、妹と2人新隆洋行(小沢太兵衛)に預けられ、1922年大連中学校に入学し、YMCA少年禁酒軍に参加し、酒の害を説くキリスト教婦人矯風会林歌子の講演を聞き影響を受ける。

1924年12月28日三好努牧師から受洗。27年2月大連第二中学校を優等で卒業したが、一高理科受験に失敗し、明治学院神学部予科英文科に入学。グレゴリ・バンドでバスを歌い、後に木岡英三郎の教会合唱団に入りバスを指導するなど音楽をこよなく愛し、その秀でた才能を発揮。

明治学院入学に伴い東京市外高田町四つ家に借家し、母妹と共に暮らし、牛込教会に出、日曜学校教師をつとめる。

1929年7月高田本町に移り、編み物教室を開き、盲女子の教育と保護を目的とした陽光婦人会の創設者、全盲で日本最初の女子大生となった斉藤百合の書記となり、片腕となって働いた。その中でヘレンケラーとの出会いがあり、「目の見える方がいらっしゃいましたら、どうか目の見えない人のお友達になって下さい。」との講演にいたく感動し、必ず生涯弱い者の味方になろうと誓ったという。

1933年3月21日、日本神学校を卒業したが、教職を辞退し、牛込教会長老のまま自宅で聖書講義をし、翌年3月東大の教授石橋智信に聴講を許され旧約学を専攻し日本宗教学会々員となる。

1935年11月7日東京都板橋区茂呂町に移住して茂呂塾日曜学校を始め、翌年11月校舎を建築。その費用捻出のためもあって、翌37年9月9日東亜伝導会宣教師の助手となるが、その傍ら普及福音上富坂教会を再開し、40年11月教会合同準備会に列席し、翌41年6月日本基督教団が成立し、10月13日按手礼を受けて正教師になる。

1954年5月23日奉仕女4名の献身によって、ベテスダ奉仕女母の家を創設し館長に。56年に茂呂塾を寄付して社会福祉法人格を取得し、同年5月の売春防止法成立に伴い、2年後の完全実施を機に東京都委託による婦人保護施設「いずみ寮」を練馬区大泉学園町に開設し、寮長に。間もなく寮内より“コロニー運動”が展開。その獲得運動の最中61年11月17日三女紅子を亡くす。

コロニー提唱7年後の1965年4月全国唯一の婦人保護長期施設かにた婦人の村が開所し施設長に。

80年1月3日「朝日福祉賞」を受賞し、その副賞100万円を基に、創設時よりの念頭の「山の上のチャペル」の建設に踏みきり、1年4ヶ月の村人全員の共同作業で納骨堂付会堂を竣工。

1985年8月15日、MYの願いに熟慮のすえ、山頂に従軍慰安婦の鎮魂柱を建て、翌年石の碑になる。

98年5月22日春子夫人急逝。5ヶ月後夫人の遺した「かにた物語」を出版。次いで「紅子の日記」を、引き続き「底点志向者ジェジュアガ」を昨年12月に出版。この一冊に心血を注ぎ、力を使い果たされたかのように、足が弱り体力も落ち、5月28日の日曜礼拝を最期に自宅療養に。

日頃おじいさんは不死身とさえ思いこんでいた村人たちには、8月に入って状況を告げ、病室を見上げて祈る日々を送っていたが、遂に、17日夜10時20分長女成子、長男大慈、職員天良の見守りの中で90年9ヶ月の生涯を静かに閉じる。6月から2ヶ月半余、老人専門医の診療助言を受けながらも、延命治療は拒み、最後まで意志を貫き通し、最後の力まで使い果たし、生死は聖旨、日頃の信仰を証しするように安らかに召された。35年前、夢と理想が実現して出来たコロニーの中で。

「コロニーというのは、むかしからぼくの理想なのである。上富坂で、茂呂で、いやもっと前から、いろいろな人の世話をした。けれどもそれは、うまくいかなかった。要はコロニーがないからである。ひとり社会に生きるには弱すぎる人を、清く、たくましく、生きさせる場所がなくてはならない。それはせまい、しばらくの施設ではなく、ひろく働きのある永住の地がなくてはならぬ。それを上富坂にもとめ、子持山にもとめ、いままた大泉にみいだそうとしている。」

コロニー構想の夢は、7年の運動とたたかいの末、かにた婦人の村として実現した。

「ここでは(大泉)ダメだ。もっと広い、汚染されていない土地へ行こう。そこを乳と蜜のしたたるところにして、生まれたばかりの嬰児のように洗いなおそう。長い時間かければ、きっとできる。生まれながらの売春婦ってありえないのだから」。理想を掲げ、信念を抱いて館山に入った。

「とうとう、コロニーは、できた。しかしコロニーはできなかった。すべてはここからである」と著書「いと小さく貧しき者に」(コロニーへの道)の最後に記されているように、コロニーをコロニーたらしめていくための、より困難な作業が始められた。

開所の日、兵庫県から5名を迎えて以来、今日までの入所者169名、その一人一人を「この家の娘」として受け、信じ——信ずべくもないときにも信じ、信頼し、愛し。その愛は愛し得るものを愛する愛ではなく、愛し得ない者をも愛する愛でなければならないと説き、実践し、手本を示した。

3万坪余の敷地には門も塀もなく、家庭的生活を志向した準小舎制をとって作られた7つの寮と、自給自足を目指した酪農をはじめ、衣料、陶芸、製菓、洗濯、家事などの作業棟が点在し、自然と懐に抱かれたのどかな村は、村づくり35年の汗と涙の流された村でもある。かにた婦人の村の設立は、経済的ゆとりの中ではなく、貧しさの中であったが故に、村全員の労働による村づくりが、師を先頭に始まり、今日かけがえのない共同体意識が育った。素朴なロビンソンクルーソーのような生活は楽しく、この中にかにた文化も生まれた。

禁酒喫煙、テレビなし(ビデオで週1回)、身についた悪習を断ち、清純を取り戻すために、おいしい食事、美しい歌、音楽、絵画、その他いろいろな行事がそれに取って代わったが、被保護者には最低生活をと考える社会通念では考え及ばない質の高いもの。底点の者と共に上を目指して、師は持てる秀でた才能を惜しみなく提供した。

36年目の今日、顧みて師の祈り、愛、哲学、理念、理想、強い意志なくして、今日このような村は生まれなかった。そして底点志向も。

師は優れた才能を持ち学問をこよなく愛した。学問と実践、どちらを取るべきか迷い、また闘った一時期もあったと思われるが見事に両立し、両者は相関関係の上に立っていた。

神学校時代に始まったイェス追求に生涯をかけ、聖書を徹底的に読む中で、実践——底点の人々と共に歩むことによって一層深く聖書を理解し、イェスを理解し、更に、それが実践に跳ね返った。

師は90年の生涯を閉じ天に帰られた。そこで、イェスに迎えられたに違いない。

「イェスさまに電話をかけて聞く」必要はなくなり、直接に、山ほど質問をし、対話がなされていることだろう。永遠の平安、永遠の生命を信じ、神に感謝したい。

(天羽道子)

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※生前の深津文雄牧師が、NHK教育「こころの時代」で語った内容は

下記サイトに収録されている。1998.4.26

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-197.htm

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