タイトル: | かにた婦人の村 |
掲載日時: | %2009年%07月%29日(%PM) %20時%Jul分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=446 |
社会福祉法人ベテスダ奉仕女母の家
・定員100名
・職員定数18名
・施設長=五十嵐逸美
・住所=〒294-0031千葉県館山市大賀594
・電話=0470-22-2280
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〒294-0031 千葉県館山市大賀594
かにた後援会
電話=080-4770-6985
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郵便振替00130-2-20569
名義=かにた後援会
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この日本が、世界にも珍しい「売春天国」と言われた頃、これではいけない…と立ち上がったのは、クリスチャンの女性でした。その80年におよぶ運動のすえ、やっと「売春防止法」が成立した時、深津文雄牧師は一人の奉仕女を連れて厚生大臣をたずね、コロニーの必要を説いたのです。
それは、ひとりの人間が、苦しみの海に身を沈めるからには、ただ貧しいだけではあるまい、それに先立つ障害があるのではないか…と思ったからです。
果たせるかな、彼女たちの大部分は、何らかの意味で知・情・意に障害をもつ、不運な人々でした。そうした、簡単には社会復帰のできそうもない人々のために、法律には書かれていない「長期収容」と特記された婦人保護施設が、日本で初めて、館山の旧海軍砲台跡に生まれたのです。
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静かな内海を見下ろす、広い丘のうえに、パラパラ幾つもも小舎を建て、個別性にあるベッド式だが扉のない建物に寝起きしています。昼は各自の能力に応じ、12ある作業班の好きなところに出て、素晴らしい効果を挙げています。しかし受け取る労賃は極めて僅かで、ほんのお小遣いだけ。生活の必需品は凡て豊かに支給されるからです。
体の悪いひとや、年をとった人には、休むための養護棟もあり、引き取り手のないひとのためには、納骨堂さえ作りました。
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1949.11=深津文雄がドイツの奉仕女の話をしたところ、これを聴いた天羽道子が志願した。
1954.5=ベテスダ奉仕女母の家を創立する。
1956.10=茂呂塾を寄付して社会福祉法人となる。
1958.4=東京に婦人保護施設いずみ寮を創立する。
1965.4=館山の旧海軍砲台跡29,710㎡に、ABCDEF寮、食堂、浴場、作業棟、事務棟の10棟を建て、
婦人保護長期収容施設かにた婦人の村誕生。当初は各寮母に奉仕女を配し綿密な生活指導をおこなう。
作業は内外二班のみ。
1965.9=作業班を仕切って編物作業棟完成。
1967.9=隣接畑地を買収して製陶作業棟を建てる。
1969.3=おなじ敷地内に製菓作業棟もできる。
1970.5=浴場棟の片隅で選択作業班はじまる。
1971.8=車庫を貰い受けて独立の編物作業棟完成。
1971.9=製陶作業棟の軒下で木工班誕生。
1972.9=台風による崖崩れのためE寮埋没。東京から来た16名を半年東京の施設に預ける。
1973.4=埋まったE寮を片付けて衣料作業班開始。
1973.5=各寮住込みの寮母をやめ、委員を選任し生活を自治とし、凡ての指導職員は作業班を担当。
1973.5=隣接地を買収してZ寮の新築なる。
1973.5=壊れたE寮の片隅で購買作業班はじまる。
1973.5=土木作業班はjまる。
1974.8=浴場棟の隣に洗濯物仕上作業棟完成。
1975.10=山の木を使って園芸作業棟完成。
1976.2=D寮に病弱者を集め看護作業班はじまる。
1976.10=貰って来た子牛のために立派な畜舎完成。
1978.3=隣接山林を買収して看護棟Y寮が建つ。
1978.3=隣接地に建った住宅三棟を土地共に購入。
1978.11=畜舎に附設して農耕作業棟を増築する。
1978.12=笠名谷に散在する田畑16筆6,581㎡を落札。
1980.6=隣接国有地73,637㎡を酪農用地として買収。
1980.8=買収してあった隣接地に衣料作業棟完成。
1982.12=地下に納骨堂をもつ会堂を山頂に実現。
1983.2=白浜の古い民家を移築し研修棟とする。
1985.8=山頂に従軍慰安婦の碑建つ。
1988.3=116,000,000円を投じた大改修終了。
1988.5=かわいらしい牛乳処理棟も完成。
1989.10=寄付物品整理のための衣料倉庫完成。
1989.10=織物(裂き織り)作業開始。
1991.4=果樹発送場として「みかんの家」贈られる。
2000.8.17=深津文雄永眠。
2015.11=かにた婦人の村創立50周年記念式典。
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コロニーができたら、その真中に礼拝堂を…といったのは、今はなきSTでした。これを聴いて感激し、帰ってすぐ募金活動をしたのは大阪の矯風会支部長でした。東洋キリスト教協議会もリーストコインを集め、ニュージーランドからも送ってきました。しかし日本で礼拝堂のための政府補助金は出ませんでした。毎年、新年には「今年こそ…」と約束し、必ずそれは破られました。
そのうちに故人の遺骨が施設長室の書棚にギッシリ並びました。それでも彼女たちは「何処へもやらないで」と叫びつづけました。
深津文雄が、朝日福祉賞を貰った時、その副賞が引き金となり、どんな小さなものでも納骨堂を建てようということになったのです。そこへ、全遺産を寄付した新宿のおばあさんが登場したのです。職員も寮生も夢中になって手造りした会堂の地下には、いま23体の遺骨が眠り、ミーントーンのオルガノがその上で香しい歌を奏でています。