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タイトル:【エコレポ009】明治期に南房総から渡米したアワビ漁師の古文書調査
掲載日時:%2021年%03月%23日(%AM) %11時%Mar分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=1397

連載コラム「館山まるごと博物館」009(2021.3.23)

明治期に南房総から渡米したアワビ漁師の古文書調査

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・はじめに

・台風災害から古文書レスキュー

・古文書調査の再開

・古文書から見えるネットワーク


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001「24年にわたるウガンダと安房の友情の絆」

002「ピースツーリズム(1)-巨大な戦争遺跡・赤山地下壕-」

003「『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏」

004「海とアートの学校まるごと美術館」

005「ピースツーリズム(2)-本土決戦と「平和の文化」-」

006「令和元年房総半島台風の災禍」

007「女学校の魅力的な木造校舎を未来に」 -旧安房南高校の文化財建築-

008「百年前の東京湾台風とパンデミック」

009「明治期に渡米した房総アワビ漁師の古文書調査」


明治期に南房総から渡米したアワビ漁師の古文書調査

はじめに

安房出身の小谷源之助・仲治郎兄弟をリーダーとするアワビ漁師(海士)らは、1897(明治30)年から米国カリフォルニアへ渡りました。寒流のモントレー湾域でヘルメット型の器械式潜水具を導入してアワビ漁に成功しました。実業家のA.M.アレンと共同で缶詰会社を興してアワビ事業も展開し、市民権を得ていました。彼らのゲストハウスには、政治家の尾崎行雄や画家の竹久夢二らも滞在し、皇族も立ち寄っています。彼らは単なる漁師移民にとどまらず、日米親善の架け橋として大きな役割を担ったと考えられます。その象徴として、日米の国旗とモントレーUSAと染められた万祝(まいわい)という漁師の着物が今も残っています。

長尾村根本(南房総市白浜町)の海産物問屋「金澤屋」に生まれ、長男の源之助(1867-1930)は慶応義塾幼稚舎を卒業した後、商法や簿記を学び、次男の仲治郎(1872-1943)は水産伝習所(現東京海洋大学)を卒業しています。明治初中期に安房から上京して高等教育を受けていることや、パイオニア移民として成功していることは注目に値します。

弟の仲治郎は、1906(明治39)年に帰国して七浦村千田(南房総市千倉町)に暮らしました。千田漁業組合長や安房水産会長、七浦尋常小学校の学務委員などの要職を歴任しながら、近隣集落より潜水士を養成してアメリカの兄のもとへ送り込んでいます。多様な知識と人脈をもち、水産界のみならず、様々な産業や教育・文化にいたるまで、安房地域の発展に幅広く貢献していました。

兄の源之助はアメリカに留まり、終生モントレーに暮らしました。日米開戦後、日系人たちは強制収容所に移送され、アワビ移民の歴史も幕を閉じています。戦後50年を経て、彼らの功績は米国で認められ、かつて住んでいた土地は「コダニ・ビレッジ」と公式に命名されました。戦後60年には、米国の歴史学者や二世三世を含む市民ら約40名が来日し、館山でアワビ漁師らを顕彰するイベントを開催して以来、日米交流や情報交換を続けています。

近年、仲治郎の旧宅を解体することとなり、遺族の許可を得て屋内を調査したところ、襖8枚の下張りから大量の古文書が見つかりました。旧宅は1914(大正3)年に建てられており、見つかった古文書は、実家の海産物問屋「金澤屋」に関わる勘定書類や契約書類、家族友人らと交わした書簡など多岐にわたり、ほとんどが明治期の資料でした。当時不要となった紙類を襖の下地に再利用したと考えられ、古文書は千切られた断片(断簡文書)になっていますが、貴重な歴史資料の発見となりました。

これまで、水産学者による先行研究や、アメリカ側からの資料で語られてきましたが、地域史からの新たな歴史研究の道が開かれました。

台風災害から古文書レスキュー

NPO法人安房文化遺産フォーラムでは、房総アワビ移民研究所と協働で、2019年春より本格的な調査研究に取り組み始めました。大量の古文書を紙質や筆跡別に分類し、封筒に仕分けして目録を作成する作業を進めていた矢先、9月9日に強大な台風15号の直撃を受けました。

資料を保管していたNPO第二事務所の古民家建物は屋根が飛び、全壊してしまいました。被災3日目から、散乱し水損した資料を拾い集めました。1枚ずつ分類していた封筒は中身が散失して空になったものもありました。屋根の残っていたスペースに座卓を積み上げて応急棚を作り、降り続く豪雨を一時的に凌ぎましだ。天気の晴れ間をぬって、回収資料を近くの廃校舎へ搬送し、水損の軽微なものは広げて乾かすように並べました。

水損の酷いものはカビの心配もあるので、「千葉歴史・自然資料救済ネットワーク(通称:千葉資料救済ネット)」に連絡をとって相談し、助言をいただきました。2015年の茨城県常総市のような河川氾濫とは異なり、泥まみれというほど酷くはないので、大学の研究室に委託するのではなく、試みることにしました。そこで、水損状況の酷い資料はビニール袋にまとめて入れ、しばらく家庭用冷蔵庫で冷凍保管としました。

その後は、台風被災によるNPO第一事務所の引越や被災者支援活動で多忙となったこともあり、古文書レスキューと調査活動は一時中断となりました。半年を経て2020年3月に、冷凍保管資料の再生作業をおこないました。新型コロナウィルス感染症が国内でも広がりつつある時期で、第1回目の緊急事態宣言前ではありましたが、水損資料の解凍に伴うカビの飛散にも十分留意して作業をおこないました。

まず、前日から自然解凍しておいた水損資料をビニール袋から出し、ヘラを用いて丁寧に剥がした後、新聞紙に挟んで布団圧縮袋に入れて掃除機で吸水し、これを数回繰り返して乾燥させ、原状回復に成功しました

古文書調査の再開

2020年度になり、レスキューした古文書調査はゼロからの再スタートとなりました。研究チームは、市立博物館の古文書講座で学習したメンバーが中心となって、再び紙質や筆跡別に分類・封筒に仕分け・くずし字の判読・データ入力・目録作成と作業を進めました。さらに博物館の学芸員の協力を得て判読の添削を行い、精度を高めています。

台風被災で回収できずに散失したものもあり、さらに別保管していた襖絵4枚からも下張りを新たに取り出し、古文書はあわせて数百枚にのぼります。その中から、書簡を中心に目録作成まで完了したのはおよそ200余枚です。1枚1枚の内容を完璧に解読することは不可能ですが、地名や人名などを精査しながら研究を深めています。

古文書から見えるネットワーク

古文書類は、金澤屋の勘定書や貸付に関わるもの、家族や友人らと交わした書簡、水産物仲買人や乾鮑生産者、清国貿易関係者等との商取引に関するものなど多岐にわたります。金澤屋の店主であった小谷清三郎(1845-1910)は、海産物問屋の事業家というだけでなく、1907(明治40)年まで長尾村の議員を務めていました。前述のとおり、明治初中期から子弟に高等教育を与えていることは特筆すべきことです。慶応幼稚舎に就学中の源之助と父清三郎との書簡などはたいへん興味深いものです。

清三郎や渡米前の源之助らは、新潟の佐渡や秋田の能代などに出向いて就漁あるいは乾鮑などの加工技術を指導していたことなどがわかりました。清三郎・たよ夫妻は、留守中の自宅と出張先で頻繁に書簡を交わし、商売の状況や子どもの教育についてなど細かに報告・相談をしています。

根本に隣接する布良にも支店があり、布良郵便局から為替送金したことなども記されています。青木繁『海の幸』誕生の地として知られる布良は、マグロ延縄船発祥の漁村として栄えており、近代水産業の発展において重要な役割を担っていました。また、館山出身で銀座資生堂創業者の福原有信やその縁者などとも親しい関係にあったことも見えてきました。仲治郎の水産伝習所同窓生や水産会、農商務省関係者等とのネットワークなども、明治期の殖産興業を考えるうえで貴重な資料として、研究に期待が寄せられています。

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