タイトル: | 【読売】160730*千葉遺産〜四面に刻む4か国の平和 |
掲載日時: | %2016年%07月%30日(%PM) %15時%Jul分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=1085 |
(読売新聞2016.7.30付)…⇒印刷用PDF
館山市大網の大巖院(だいがんいん)の山門近くに珍しい石塔がある。高さ約2.2メートル、幅約50センチの四角柱で、4面に4か国語で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。南面に日本の漢字、東面に韓国のハングル、西面に中国の篆字(てんじ)、北面にインドの梵字(ぼんじ)。1624年に建てられた。
中でも、ハングルは、日韓の識者が「韓国なら国宝級の石塔。なぜ館山にあるのか」と指摘する貴重なものだ、現在のハングルとはやや異なる文字で、15世紀中頃に朝鮮王朝によって発布され、短期間で消滅したという初期ハングルであることが解明されている。
江戸初期の館山に、なぜ国際的な石塔が建てられたのか。県指定文化財になったのは1969年だが、その謎の解明が始まったのは最近のこと。「2002年に館山市で開かれた『日韓歴史教育シンポジウム』の研究交流などで少しずつわかってきた」と大巖院の石川龍雄住職(69)は語る。
大巖院は、里見氏9代の義康の寄進で雄誉霊巖(おうよれいがん)上人が1603年に創建した。石塔南面の「南無阿弥陀仏」は雄誉上人の揮ごうだ。雄誉上人は幕府にも重用され、江戸城正面の湿地帯を埋め立て、石塔と同じ年に霊巖寺を建立、霊巖島の地名にもなった。幕府の宗教政策にも参画したとされる。
雄誉上人は、幕府を通じて文禄・慶長の役で捕虜となった朝鮮人の帰国や江戸を訪れた朝鮮通信使が帰路、大巖院に立ち寄ったとの文書もあり、日韓の善隣友好に一定の役割を果たしたと考えられている。
02年の日韓シンポで韓国の学者は「雄誉上人が仏典で古いハングルを知り、日韓和解を望んだ」と発言。石塔に光を当てたNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表(64)は「秀吉の朝鮮出兵にかかわる供養であり、『四面』の各国間の平和を願い、自らの原点の地。館山に建てた」とみている。
(笹川実)