タイトル: | 【朝日】150907*赤山地下壕着工、日米開戦の前か |
掲載日時: | %2015年%09月%07日(%PM) %17時%Sep分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=994 |
(朝日新聞千葉版2015.9.7付)‥⇒印刷用PDF
戦争遺跡保存全国シンポジウムが5、6両日、延べ600人が参加して館山市で開かれた。6日の特別分科会では、市指定史跡の赤山地下壕(ごう)跡について1941年12月の日米開戦以前に建設に各種していたとする新たな証言が出てきた。
特別分科会では、青山学院大学高等部教諭の佐藤隆一さんと、敗戦直後の米軍の軍政を目撃した元教育長の高橋博夫さん(87)が報告した。佐藤さんは9年後の開学150年に向けた学院史の編集委員。戦前館山にあった水泳部合宿所について、青山学院長の子息から先月新たに入手した史料「買収交渉の顚末(てんまつ)」を紹介した。
青学は木造平屋建ての合宿所を26年に建設した。場所は赤山の海岸寄りで、4年後にはさらに海側の館山海軍航空隊(現・海上自衛隊第21航空群)ができた。
史料によると、41年9月に海軍省から「右土地は海軍にて急遽(きゅうきょ)施設を必要とするなる旨」と告げられ、買収に応じたという。佐藤さんは「赤山壕の建設が進み、海軍は民間の合宿所が目の前では都合が悪いと判断したのではないか」と語る。
また、同隊と赤山の間に家がある高橋さんは「地下壕を掘った残土を館山港に捨てる工事は39年ごろ始まったのではないか」と話した。「当時、トロッコが家の前の県道を越えて行き来し、工事で約10軒が移転を強いられた」と証言した。
同地下壕を記録した史料は乏しく、市のホームページでは、建設に携わった元兵士らの証言などから「1944(昭和19)年以降に建設工事か開始された」と記述している。
安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表は「米軍は赤山の正体が分からず神経質になっていた、との証言もある。地下壕の説明板を書きかえる必要があると思う」とまとめた。
(田中洋一)
館山市宮城の赤山(標高約60メートル)にある。旧館山海軍航空隊の南側に位置し、総延長は約2キロ。コンクリートぶきや素掘りの通路の奥に戦闘指揮所、発電所、野戦病院、奉安殿などの地下司令部があったとされる。2005年に市史跡に指定。NPO法人安房文化遺産フォーラムが個人と小グループ向けに毎月、無料で壕内を案内している。