タイトル: | 【千葉日報】150930*戦火の記憶(中)〜南房総市に残る発射台跡「桜花」 |
掲載日時: | %2015年%09月%30日(%PM) %18時%Sep分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=1006 |
戦火の記憶(中)ちば戦後70年 遺構は語る
(千葉日報2015.9.30付)‥⇒印刷用PDF
のどかな田園風景が広がる南房総市下瀧田地区の山中。野菜や果物が植えられた畑の中を、100メートルにわたり古びたコンクリートが横切っている。
70年前、本土決戦の秘密兵器として海軍が開発を進めていた日本初の特攻ロケット「桜花」の発射台跡。終戦を迎え、この場所から桜花が出撃することはなかったが、唯一残った無機質なコンクリートだけが、その恐ろしい計画の存在を静かに伝えている。
桜花が初めて開発されたのは、1944(昭和19)年。当初の初期型は、飛行機の下に吊り下げて敵艦近くまで移動した後に切り離し、搭乗員もろとも体当たりする様式だった。終戦までに約750機が生産され、多くの若い命が散った。
それでも、軍は「肉弾」の効率化を図った。45(昭和20)年、米軍の本土上陸が現実味を帯びてくると、軍は、“最後の切り札”作戦の準備を急いだ。「新型桜花」の開発。飛行機を使わず地上から発射できるよう、改良を目指したのだ。
「陸上発射式なら、沿岸部に停泊した米軍艦を直接攻撃できる。効率が良いと考えたのだろう」。市内の歴史などを研究するNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(63)はそう指摘する。
新型桜花の開発には最先端の技術がつぎ込まれた。中でも、桜花を離陸させるための射出機「カタパルト」は、世界でも類を見ない最新鋭の設備だった。「火薬ロケット噴射などを使用し、わずか8秒で離陸できる世界トップラスの技術。この国はそれだけの能力を、人間爆弾に使ってしまった」(愛沢さん)。だが、新型「桜花43乙型」の機体は試作段階のままで終戦を迎える。
作戦は市民をも巻き込んでいた。同年春、軍は三芳村(現在の下滝田地区)に新型桜花の発射基地建設を決定。米軍の上陸が予想された館山湾から近いことなどが理由だった。突貫工事に駆り出されたのは、10代の少年兵ら。
当時、建設地のすぐ近くに住んでいた佐久間嘉子さん(82)=同市=は「いきなり兵隊がやって来て土地を奪われた。住民は自分の畑に近づくこともできなくなり、生活のすべを失った」と振り返る。
桜花を敵の飛行機から守る掩体壕(えんたいごう)の工事は過酷そのものだった。「つるはしやシャベルで、ひたすら洞窟を掘り進めていたらしい。地響きのようなダイナマイトの音がほぼ毎日聞こえた。当時は、特攻基地を造っているなんて考えもしなかった」(佐久間さん)。
工事は終戦当日まで続き、朝鮮人労働者の姿も多く見られた。佐久間さんは「崩落で亡くなった人もいる。辛くて怖い思い出の場所で、今も近寄りたくない」と語り、「若い命を使い捨てにする特攻などとんでもない」と憤る。「(作戦の目的が)本土防衛、というのは建前。実際の狙いは戦後交渉を有利にするため、敵艦を一隻でも多く沈めておくことだった。命を軽視するむごい作戦。幻に終わったが、その陰で犠牲になった人も多く、忘れてはいけない悲劇」と表情を引き締める。
同地区の寺「知恩院」には、基地で使用されるはずだったレールの一部が忘れ去られたように放置されている。さびた鉄骨に触れ、愛沢さんは静かに語る。「これも立派な負の遺産。昔、この穏やかな街で、何が行われようとしていたのか。二度と戦争をおこさぬよう、後を生きるものがしっかりと語り継いでいかないと」