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タイトル:3/7~8=無言館と梅野記念絵画館ツアー2日間
掲載日時:%2010年%03月%07日(%PM) %21時%Mar分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=393

◆春の信州、館山ゆかりの美術館を訪ねる旅

〜無言館と梅野記念絵画館ツアー2日間〜

戦没画学生慰霊美術館「無言館」には、志なかばで戦場に散った画学生たちが遺した絵画や彫刻などが展示されており、なかには館山海軍砲術学校に所属した若者の遺作品もあります。昨年夏、館山市の南総文化ホールで開かれた無言館主・窪島誠一郎氏の講演会では、心を動かされた来場者より「ぜひ無言館を訪れたい」という声が多数寄せられました。

また、明治の画家・青木繁が滞在した館山市布良の小谷家住宅は、昨年秋に館山市指定文化財となりました。青木繁は親友・梅野満雄に宛てた絵手紙で、布良・相浜・平砂浦… などこの地の素晴らしさを絶賛し、『海の幸』の大作に取り組んでいることを報告しており、その絵手紙は「梅野記念絵画館」に収蔵されています。

今春、館山にゆかりの深い信州の美術館を訪ねる旅を企画しました。



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■旅行日=平成22年3月7日(日)〜8日(月) 定員40名

■旅行代金=おひとり様25,000円 (2名1室の洋部屋利用)

※1人部屋のご希望は3,500円増しで承ります。美術館入館料を含みます。


■日程 コース 食事

【3/7(日)】

館山発7:00=東京湾アクアライン・海ほたる(休憩)=高坂SA(休憩)=佐久市内(昼食)=梅野記念絵画館(見学)

=信州松代ロイヤルホテル16:00頃着

・食事=朝 × 昼 ○夜 ○

【3/8(月)】

ホテル8:30=無言館・信濃デッサン館(見学)=上田市内(昼食)=上里SA・三芳PA・市原SA(休憩)=館山着18:30頃

・食事=朝 ○ 昼 ○ 夜 ×


■旅行日=平成22年3月7日(日)〜8日(月)

■旅行代金=25,000円(2名1室、シングル使用は3,500円UP)

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◇無言館・信濃デッサン館◇

*長野県上田市古安曽山王山3462*

「無言館」は、アジア太平洋戦争で没した画学生の慰霊を掲げて、平成9年に信濃デッサン館の分館として開館された美術館です。館主の窪島誠一郎さんは作家でもあり、戦没画学生の生涯を描いた著作や生き別れていた実父・水上勉との再会を綴った作品で知られています。昨夏の館山講演が縁となって、千葉市在住の遺族より戦没画学生の遺作が無言館に寄贈されました。ツアー訪問時には、窪島館主のお話が伺えるように依頼中です。乞うご期待!

左の作品「婦人像」(無言館展示)の作者は、島根県出身の小柏太郎(おがしわたろう)さんです。昭和18年9月に東京美術学校鋳金科を繰り上げ卒業の後、館山海軍砲術学校に入隊。昭和20年3月15日フィリピン・クラーク地区において戦死。享年25歳。

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◇梅野記念絵画館・ふれあい館◇

*長野県東御市八重原935-1芸術むら公園*

日清戦争の始まった明治37年夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、画友の坂本繁二郎・森田恒友・福田たねとともに、房州布良の小谷家に滞在し、後に重要文化財となる「海の幸」を描きました。同じ郷里(福岡県久留米)出身の親友・梅野満雄に宛てた絵手紙4枚には、館山の素晴らしさが綿々と綴られています(梅野記念絵画館所蔵)。

一昨年秋、館山市富崎地区コミュニティ委員会を中心に「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」が設立され、昨秋には小谷家住宅が館山市指定文化財となりました。梅野隆館長も「保存する会」発起人のおひとりです。106年前に館山から送られた青木繁の絵手紙とともに、私たちを心待ちにしてくださっています。

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◇コラム〜信州上田と房州館山をむすぶ芸術家

…山本鼎と倉田白羊…

山本鼎(明治15-昭和21)は信州上田を中心に民衆の芸術運動をすすめた版画家・洋画家。東京版画倶楽部・日本創作版画協会を設立、「版画」という語の生みの親といわれる。大正5年フランス留学の帰途に立ち寄ったモスクワで児童美術と農民美術にふれ、帰国後に「児童自由画教育」を推進した。子どもの表現力向上に大きく貢献し、クレパスも考案した。また、農村の文化と経済の繁栄を目ざし、農閑期の農民に副業として「農民美術」を奨励。戦後、農民美術は地場産業として定着、昭和57年に長野県伝統的工芸品の指定を受けている。

倉田白羊(明治14-昭和13)は、生涯の盟友である山本鼎の提唱する2つの大きな美術運動に賛同、重要な役割を果たした。大正5年の朝鮮・満州旅行を契機に、風景画へ転向。大正6年より館山に居住、「布良」「那古の山」などの水彩画を描く。白羊のもとに集まった小学校教師らに、従来の美術教育ではなく、自らの感性で表現する自由画を奨励する。千葉師範で研究会がもたれ、県下に自由画が広まる。房州北条で自由画展を開催、鼎も来房し意見を交す。大正11年に鼎の要請で上田へ移住、日本農民美術研究所の副所長に就任、本格的な農民美術の教育を始める。上田移住後も時々房州を訪れ、美術教育に尽力。白羊の妻・栄子は房州写生旅行中に知り合った網元の娘だが、明治期に房州根本から米国モントレーに移住したアワビ漁師の先駆者である小谷源之助・仲治郎兄弟の実妹だということも見逃せない。

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