タイトル: | 050625田中澄さま*袖ヶ浦高校 |
掲載日時: | %2006年%06月%25日(%PM) %22時%Jun分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=548 |
7月に実施するリーダー研修で「館山の戦跡めぐりを入れてみたい」という生徒の希望があり、その下見で館山へ出かけました。NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムがお世話をして下さいます。
待ち合わせのたてやま夕日海岸ホテルは、館山北条海岸沿いにあり、おまけに真夏日となったので、海を見ているのはとても気持ちが良かったです。
「これまで何校もの高校がこちらの平和学習に来られましたが、生徒さんが下見に来たのは初めてです」とNPOの池田さんは感激していました。「生徒から行ってみたいと乗り気だったんだもの」と思い、「袖高生は意識が高いなあ」とも心の中で思いました。
30分ほどの講義がありました。日本地図を逆さにして千葉県を見ると、そこは太平洋側に突き出ており、古代から支配権力が関わってきた場所であることや、黒潮の影響もあり、実は他のアジア諸国の玄関口になっていたこと、沖ノ島という無人島にはアジアからのゴミが流れ着くこと、第二次大戦では首都東京を守る大切な場所であったため、館山には砲台跡や海軍航空隊跡などの戦争遺跡が今でも数多く残っていること。第二の沖縄戦を想定し7万人の兵士が配備されたことなど。当時、近くの中学・高校生はウミホタルを採集し、軍部はそれを粉末にし、唾液や尿で発光させ、ウミホタル照明爆弾で敵の艦船に当てて発光させ、命中しやすくするのです。現在、南房総は花の栽培がさかんですが、食糧が不足した戦前・戦中は、花の栽培をする者は非国民扱いされました。
NPO法人のメンバー、優しそうなご夫婦で、海上自衛隊周辺、沖ノ島、米軍が本州で唯一上陸した場所、赤山地下壕などを、ゆっくり丁寧に説明をしてくださいました。
そのほとんどが軍事施設でしたので、地上戦を行い、多くの犠牲者を出した沖縄とは違った印象がありました。住宅地に突然現れたゼロ戦を1機ずつ隠した掩体壕や、立派な射撃場を1つ1つ見て歩き、「あの時代、同じ労力と時間をもっと別のものに使っていたら、日本は、いや世界は大きく変わっていただろう。そして人の心も変わっていたのだろう」と思いました。ガイドの奥さんは「戦争はお金がかけられています。今、イラクにかけている金額を食糧難に悩む国にかけることができれば、何人の命が救えるのでしょう」とおっしゃいました。
生まれて初めて、NPO法人の活動に触れました。NPO、よく耳にする名称ですが、そこでどんな人がどんな形で活動をしているのか、ほんのちょっと理解ができたような気がします。
ガイドのご主人は、「私は自分の思想に片寄らず、とにかく事実を正確に伝えることを心がけています。まだこの戦跡にはわからないことがたくさんあります」と言っていました。
池田さんは「もともと安房の出身。東京で働き、20年ぶりに戻ってきました。もともと社会教育に興味がありました。NPO活動を通して、地域に誇りを持てる若者を育て、彼らが夢と希望を抱いて働ける雇用の機会を提供したいのです」と言っていました。
働き方とか、夢の持ち方とか、やりがいっていうのは、いろいろな形があるものだ。まだまだ知らない世界がたくさんあるもんだなあ、と改めて思いました。
またまた新しいことを知り、ちょっと得をした気分になり、帰ってきました。