タイトル: | 【房日講演抄録】120418*享徳の乱と里見義実(峰岸純夫) |
掲載日時: | %2012年%04月%18日(%PM) %22時%Apr分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=718 |
(房日新聞:講演抄録2012.4.18付)
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享徳の乱(1455年)というのは、年配の方はあまり知らない、昔は名前がついていなかった15世紀後半の大きな内乱だ。関東の首都鎌倉で、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誅殺。これをきっかけにして鎌倉公方陣営と上杉方が関東を二分して相争い、室町幕府は周辺守護に命じて上杉方を支援する。乱は28年間も続いた。応仁の乱(1467-77)は関東の乱が飛び火したもので、これが治まってようやく享徳の乱も終わる。両方合わせて考えなければならないと強調したい。
この大きな内乱の過程で里見義実が安房にやってくる。これをどう考えたらいいか。私が最近考えているのは、享徳の乱と当時起きた大地震との関係だ。地震・災害は武家政権下の諸勢力間の緊張、政治的混乱をしばしば引き起こす。
山梨市の八幡山普賢寺に伝わる『王代記』という年代記は、享徳3年11月3日に奥州で大地震・大津波があり、12月27日には「関東管領の上杉憲忠が殺害される」と、地震と享徳の乱発生を継続的に記載している。
また、同年の12月10には鎌倉で「大地震」があったと『南朝記伝』『鎌倉大日記』などが記録している。
最近の地層調査では、14世紀、15世紀ごろに奥州で2つぐらい大きな地震があったと推定できる地層が確認され、この享徳の地震の痕跡だとの見方がでている。
震災と戦乱のリンクは考えざるを得ない。一番の例は鎌倉時代末期の永仁元年(1293年)の大地震。これは『親玄僧正日記』という一級資料が存在するが、4月12日の地震の後、同22日には執権北条貞時が有力家臣の内管内領平頼綱を誅殺する「平禅門の乱」が起きている。北条氏(北条早雲)の伊豆制圧も明応地震(1498年)と密接な因果関係がある。
享徳の乱の発生と里見義実の安房入部についての関係だが、私は義実が里見氏嫡流の里見家基(刑部小輔、修理亮)の嫡子で、父が結城合戦(1440年)で討ち死にした後に美濃に逃れ、美濃里見氏の養子として成長し、足利成氏の鎌倉公方復帰の中で関東に随従したと類推している。
里見氏一族の拠点は新田荘のほか、西植野(こうずけ)、越後にもある。美濃の里見はけっこう大きな勢力で、承久の乱(1221年)で里見義直という人が手柄を立てて美濃の所領を得た。
美濃は関東と京都をつなぐような位置にある。美濃守護土岐氏の元には、かつて上杉禅秀の乱(1416年)で禅秀について滅亡した新田岩松満純の遺児家純がかくまわれ、後に将軍に召しだされて復権している。このように源氏一門の縁で関東の亡命者がかくまわれ、その再興を援助する役割を土岐氏は果たしている。
義実の出自についての類推は仮説的な掲示というか、細かい研究を重ねているわけではない。歴史研究は「未知なる過去の探索」であり、確実、着実な史料があればいいのだが、ない限りはさまざま状況証拠を積み重ねて追求していくしかない。多くの方々にこの問題について感心を寄せ、前期里見氏の解明をしていただきたい。
(本稿は、館山市内で14日に行われた「里見氏城跡国史跡指定記念シンポジウム」での講演内容を要約、再構成したものです)