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タイトル:【東京】060624*ハングル「四面石塔」
掲載日時:2006年06月24日(土曜日) 00時15分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/News/item.php?iid=79

1624年、館山の寺にハングルの石塔建立

朝鮮出兵で連行偉大な石工刻む?

(東京新聞 2006.06.23)

ハングル石塔が立つ大巌院の境内

千葉県館山市の古寺「浄土宗仏法山大巌院(だいがんいん)」に珍しい石塔がある。建立は江戸初期の一六二四(元和十)年で、四つの面を刻んでいるのは、日本の漢字、インドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(てんじ)、朝鮮半島のハングル。それぞれ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と名号(仏の名、尊号)を記しているが、韓国でこの時期に建てられた石塔や碑に、ハングルを刻んだ例はないというのだ。房総半島の突端の町に残る「ハングルの謎」とは…。


■韓国にも例ない

「寺を訪れた韓国の大学の先生に『これは国宝に値する』と言われたことがあります。私は詳しい歴史はよく知らないのですが」。石川龍雄住職の妻順子さんは笑う。

JR館山駅から南東に約1.8キロ。古くからの住宅や水田に囲まれた大巌院の境内にある「四面石塔」は、玄武岩質で一辺約50センチ、高さ約2.2メートルの重厚な姿だ。周囲には、水を張っておく石造りの「水向け」が四つある。石塔の南面は漢字、北面は梵字、西面は篆字、東面はハングルが刻まれている。

特定非営利活動法人(NPO法人)南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長で元県立高校教諭の愛沢伸雄さん(54)によると、こうした石塔は日本全国でも例はなく、これを模したとみられる石碑が同県富津市の松翁院に一つあるだけだ。

朝鮮半島では、石碑などには漢字を使う場合がほとんど。主に女性や子どもに使われた歴史のあるハングルを刻むことがあっても、「碑に触れるな」などの注意書きに限られるという。

国内外のどちらにしてもユニークな存在の石塔は、北面に漢字も添え書きされている。読み取れるのは「山村茂兵が生前供養の儀式をし、水向けを寄進した。元和十年三月十四日雄誉」との内容だ。

「水向けを寄進」とは石塔全体と解釈されており、「雄誉」は浄土宗の総本山・知恩院(京都)のトップに上り詰めた雄誉霊巌(おうよれいがん)上人(1554-1641年)を指す。大巌院も1603(慶長8)年に霊巌が創建した。石塔については、漢字の筆跡の特徴や添え書きの花押から、「山村茂兵」のために霊巌が筆を執ったとみて間違いなさそうだ。

では、石塔のハングルは何に由来するのか。そして、「山村茂兵」とはいったい何者-。

「石塔のハングルは、今とは違っています。『東国正韻』式という十五世紀半ばの表記にのっとっていて、中でも『仏説阿弥陀経諺解』という仏教本の書体に似ているのです」。『千葉のなかの朝鮮』(明石書店、千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会編著)の編集にかかわった県立千葉女子高教諭の石和田秀幸さん(49)が説明する。

豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-93年、1597-98年)は、朝鮮半島から連行された陶工や儒学者、印刷技術者らが、後の江戸文化の開花に大きな役割を果たしたとされる。石塔が建てられた1624年には、こうした人材も日本に溶け込んでいただろう。石和田さんは「日本に持ち込まれたハングルの仏教本を、石塔の見本にしたのかもしれない」という見方を示す。

また、「山村茂兵」についても、半島から連れてこられた石工だったというのが愛沢さんの考えだ。

石塔は「伊豆石」と呼ばれる貴重な石材で、江戸城の築城や江戸幕府が許可した建築事業以外には使用されなかった。2メートルを超える高さと水向けを持つこと、高僧の霊巌から生前供養の儀式を受けたことなども併せて考えると、山村茂兵が高い技術を日本に伝えた石工として尊敬されていたと推理できるという。「山村茂兵が日本人であれば、あえてハングルを刻む必要はないのではないか」と愛沢さんは話す。

館山市立博物館に残る「霊巌和尚伝記」には、朝鮮通信使が日光参詣の後、大巌院を訪れたとの記述はあっても、石塔や山村茂兵に触れた部分はなく、石塔の謎を解明するのは難しい。

1970年、韓国の大学院生が大巌院を訪れ、石塔のそばに現代ハングルで「南無阿弥陀仏」と記した碑を建てた。朝鮮出兵や終戦までの植民地支配など、日本と朝鮮半島は断絶の歴史を持つが、今では石塔のハングルが日韓両国の交流のシンボルになっている。

@(文と写真・出来田敬司)

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