お知らせ » 新着記事一覧

「お知らせ」は以下のように分類されています。


【イベント】…NPOフォーラムが主催・共催するイベントのご案内です。

【知恵袋講座】…毎月第4火曜日午後に小高記念館でやっています。

【メディア報道】…新聞や雑誌などで紹介された記事です。

【ニュースレター】…「NPOだより」がPDFファイルでご覧になれます。

【ツアー・講演の感想】…ご来訪者から嬉しいお便りです。

【お知らせ】…その他のお知らせです。


※右上のアイコンで「タイトルリスト/コメントリスト」などの表示方法を選択できます。

表示順: 新着順 掲載順 ランダム

戦火逃れた友好の証

青い目の人形「メリー」展示 19日から 館山市立博物館

(房日新聞2014年4月17日付)

[ .. 全文表示へ ]

14年4月17日 1,908

【講師】石崎和夫さん

【テーマ】一茶が歩いた安房の道

【参加費】200円(茶菓子代)


【発表要旨】

15歳の春、信州柏原から江戸に出た一茶は、27歳頃にはプロの俳人としての道を歩み始めた。一茶を支えたのは、故郷信州と下総・上総・安房の俳人達であった。一茶が安房を最初に訪れたのは、28歳、元名の岩崎じせき児石等が長谷川ばこう馬光五十回忌に「霞の碑」を鋸山に建てた際、建碑式に参列したときと言われている。

その後、元名や勝山に度々やってきて、四代目醍醐新兵衛定恒・けんこんあんぎめい乾坤庵宜明のもとで鯨見学をするなどなど安房の俳人と交流している。文化12年・53歳、文化14年・55歳には、千倉の久保在住の房総を代表する俳人井上さんちょう杉長のもとを訪れている。勝山から久保まで途中那古寺に寄りおよそ35キロを一日で歩いている。私は、同好の仲間達と一茶の歩いた道を想定し、2日をかけて歩いてみた。一茶の健脚ぶりに驚嘆した。

一茶の活躍した文化文政期は俳諧が都市農村の庶民上層部にゆきわたり、民衆文芸の核となっていった。各地に「連」といわれるサロンが生まれ、神格化した芭蕉を慕い、地方の俳人たちは蕉風を伝える江戸の俳人と交流を持った。南房総市高崎の湯浴堂の文政8年(1825)奉納の句額には一茶の句や安房を代表する俳人たちの句がある。この奉納額などを考察し、一茶と安房の俳人たちの姿を追求する。

10年12月8日 5,956

小谷家のひな祭り

好評で8日に追加公開

印刷用PDF

[ .. 全文表示へ ]

14年3月7日 4,280

放映日時:2009年12月15日AM1:58〜2:28

テレビ局:TBS(6ch)

番組:ドキュメントナウ

内容:館山の戦争遺跡と元兵士の証言

庄司兼次郎さん(元海軍特別年少兵)

秋山巌さん(元海軍落下傘部隊)

09年12月11日 5,243

【講師】石神正義氏

【テーマ】立て直そう館山!、筆頭立て直し人の提言

10年8月24日 7,036

映画会は会員の方以外でも、どなたでも関心のあるに来ていただきたいと思います。

どうぞ皆さんお誘い合わせの上お越し下さい。

.

■映画(DVD)タイトル

「病気は回復過程である/ナイチンゲール看護覚え書きより」

「原発切抜帖」

.

■主催=安房医療介護福祉連携・東日本大震災支援の会(AWA311-MCW)

.

■場所=中嶋山住吉寺(南房総市千倉町南朝夷1353)

※ 車の方は、住吉寺の駐車場及び朝夷小学校の駐車場を利用してください。

.

■参加費=無料

※これまで、当会の被災地での活動に多大な協力をくださっている

全国訪問ボランティアナースの会「キャンナス」の支援目的でカンパをいただければ幸いです。

.

■スケジュール=8月9日(火)

.

・10:00〜10:45「病気は回復過程である/ナイチンゲール看護覚え書きより」

・11:00〜11:45 「原発切抜帖」

.

・14:00〜14:45「病気は回復過程である/ナイチンゲール看護覚え書きより」

・15:00〜15:45「原発切抜帖」

.

・16:45〜17:30「病気は回復過程である/ナイチンゲール看護覚え書きより」

・17:45〜18:30「原発切抜帖」

.

・21:30〜22:15「病気は回復過程である/ナイチンゲール看護覚え書きより」

・22:30〜23:15「原発切抜帖」

[ .. 全文表示へ ]

11年8月8日 2,228

館山軍政〜少年が見た占領(下)

封鎖解け進んだ交流

(朝日新聞2015.8.8.31)⇒印刷用PDF(連載2本)

.

[ .. 全文表示へ ]

15年8月31日 1,431

◎「画家になりたい」愛沢さん遺作展

.

24歳の若さでこの世を去った館山市の愛沢綾子さんの絵画を紹介する「愛沢綾子回顧展―わたしは画家になりたい―」が、9月20日から23日まで南房総市富浦町の枇杷倶楽部ギャラリーで開かれる。

愛沢さんは安房高校を卒業後、日本女子大学心理学部に入学したが、在学中に統合失調症を発症。自宅療養する中で絵を描き始め、2006年と08年に個展を開催、この年の7月に永眠した。絵画展は、一周忌を過ぎたことから父親の伸雄さんが、綾子さんが残した多くの作品を一般の人に鑑賞してもらおうと企画した。イラストや、抽象画、静物画などおよそ50点が展示される。

09年9月17日 4,528

■ 2009年12月15日(火) 01:58〜02:28

TBS 『ドキュメント・ナウ』

「胸込み上げる関東の戦跡」



悲惨な体験をした人たちも年々少なくなっている。

だが、かつての基地や要塞の跡は、

意外にも、今でも生々しく残っている。

戦時中はどんな役割を果たしていたのだろうか。

そして、そこに関わった人たちは

今、どんな思いで見つめているのだろうか。

生き残った人びとの証言をもとに取材を始めてみた。


東京湾の入口に位置する千葉県館山市は、

戦時中、「東京湾要塞」の一角として、国防の重要拠点だった。

戦後から60年以上がたった今でも、その痕跡が残っている。


これは、1927年に竣工した洲崎第二砲台の跡である。

戦後爆破されたというが、円形の砲台の一部が残っている。


砲台から30mほど登ると、トンネルがあった。

これは弾薬などを貯蔵するための格納庫だったのだ。

トンネルの中には、2ヶ所に部屋のようなスペースが残っていた。


弾薬庫は、さらに砲台の下、今は民家の建っている山の中腹にもあった。

「砲台のね、弾薬庫という話だったんですよ。」

この家に住む佐野さんに、弾薬庫の中を見せてもらった。

もともとは土に埋もれていたのだが、

家を増築するために掘り返してみたところ、

この大きな弾薬庫が姿を現したのだという。

厚さ30cmはあろうかという頑丈な壁は、鉄筋コンクリート造り。

「対米英戦を考えて、こんなのを作っただっぺよ」


長い戦争の幕開けとなったのは、1931年に起きた満州事変だった。

関東軍はわずか5ヶ月で、満州全土を占領したという。

この衝突を境にして、日中戦争、太平洋戦争へと、

戦争はますます激化していくのである。


太平洋戦争が始まる半年前に、1941年6月、

館山には、陸上戦闘の実地訓練を主な目的とした館山海軍砲術学校が開校した。

そこでは、「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練がおこなわれていた。

今も残っているこの巨大なプールの跡は、

落下傘部隊の研究や訓練に使われていたという。

開戦の迫った1941年9月、

海軍は初の落下傘部隊を編成するため、全国から1,500人の精鋭を集めた。


その1,500人に選ばれ、かつて落下傘部隊として

ティモール島クーバンへの奇襲作戦に参加した秋山巌さんに話を聞いてみた。

「我々がいた落下傘部隊っていうのは、

いってみれば、殺人集団ですよ。

.割箸1本で人を殺すことまで教えましたから。

.簡単に死にますよ、人間。」

砲術学校では、機関銃や小型戦車などの操縦を学んだ。

そして、館山海軍航空隊で落下傘の基礎訓練を受けた後、

高度300mからの命がけの特訓に臨んだのである。

「そりゃ、怖いですよ。一番初めに降りるときは、

.へんな話、やっぱり、ちびっちゃいますよ。

.中には未練がましく、怖くて飛行機にしがみついて

.離さないわけですよ。でもむだですよ。ケツ蹴飛ばされて。

.あとから呼ばれて、さんざんバット食いますよ。

貴様、それでも軍人か≠チてね。」

訓練中には、落下傘が開かずに、

そのまま地上に落下してしまった隊員もいたという。

「開かないで、サーッと、落ちて行くんですわ。

.サーっと。そりゃ、即死ですわ。

.全然開かないで落ちて行くんですから。

.何回か、2回、見ましたよ。

.明日は俺か、なんていう、いやな予感がしますよ。」

およそ3ヶ月の訓練の後、ク―パンやサイパンなどへ出撃した。

1,500人の落下傘部隊のうち、生き残ったのは200人ほどだったという。

「こりゃ、勝てんと思ったよ。絶対勝てん。

.こんだけ船が沈められて、飛行機がなくなる。

.それで大本営はウソばっかり言う。

.だから、いい加減ポンポン打っておいて、逃げろ、と言ったんだよ。

.1機や2機落としたところで、戦局に影響しねえわい。」


1942年6月、ミッドウェイ島の攻略を目ざす日本軍をアメリカ軍が迎え撃った。

日本軍は、主力空母4隻を失い、大敗した。

この海戦を境にして、日米の攻防は逆転、戦況は悪化していくこととなる。

ミッドウェイ海戦の大敗から3ヶ月後の1942年9月、

海軍特別年少兵の第1期生が全国から集められた。

まだ、14、5歳の少年たちが戦争にかり出されたのだ。


館山市内で電気店を営む庄司兼次郎 (しょうじかねじろう)さんは、

その第1期生のひとりだった。

15歳で横須賀にある海兵団に入団し、新兵教育を受け、

その後、海軍コウキ学校で戦闘機の理論や

陸上戦闘の演習などをたたき込まれた。

追いかける班と逃げる班に分かれて全速力で走らされる追撃戦の特訓は、

地獄のような苦しみだったという。

「毎晩のように、バットの精神棒で殴られてました。

.船に乗せて行って、放り投げて、陸まで。

.中には溺れかけるのもいるんで、船がいて助けたり。

.それも、よくよくでないとね。」

庄司さんは、1944年6月、17歳のときフィリピンのダバオへ派兵された。

「餓死だとか栄養失調ですね、マラリア、デング熱、というような病気ですよね。

.実際の戦闘で亡くなった人より、そういう人のほうが多い。

.とにかく、戦争がない、ということが一番、でしょうね。

.戦争というのは、二度とやっちゃいけないと思う。」


アメリカ軍の空襲がはげしくなってきた1944年、都市部では学童疎開が始まっていた。

そして、本土決戦に備えて、女たちにも竹槍の訓練が始まったのである。

館山でも決戦に備えて、数多くの地下壕が掘られていた。

かつてあった館山海軍航空隊の基地のすぐ南側にある、

通称「赤山」には、総延長およそ2kmにおよぶ地下壕が今でも残っている。

資料がほとんど残っていないため、何に使われていたのか確かなことは分かっていない。

しかし数少ない地元の人たちの証言によると、1930年代の半ばから1940年代にかけてつくられ、

病院や発電所、兵器の貯蔵庫、さらには戦闘指揮所としての役割を果たしていたといわれている。

当時はどんな様子だったのだろう。地元の人に聞いてみた。

[ .. 全文表示へ ]

09年12月15日 5,600

印刷用PDF


□謹賀新年ごあいさつ

・愛沢伸雄

■戦跡ガイド学習会

・1/14(日)=布良陣地跡(館山野鳥の森)

・2/3(日)=金谷砲台跡

■知恵袋講座

・1/22(火)=大場俊雄さん「関澤明清の開いた水産伝習所と房総アワビ漁の変遷」

・2/26(火)=愛沢伸雄「沖縄戦から安房の本土決戦体制へ」

■元気なまちづくり市民講座

・2月23日(土)12:00〜15:30

*ワークショップ

*地域実践報告「3つのあ≠フまちづくり」

*シンポジウム「文化遺産を活かした館山まるごと博物館」

■第46回千葉県歴史教育研究集会

・2月23〜24日(土日)

13年1月1日 6,733

特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム

旧称:南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(2008年5月に現在の名称に変更)

〒294-0036 千葉県館山市館山1016-1さらしな館

Copyright (C) 2007 bunka-isan.awa.jp All Rights Reserved