◎赤山地下壕、総入壕者は1万5389人
...観光スポットに人気高く
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館山市が、平和学習・観光交流の拠点として一般公開している戦争遺跡の赤山地下壕の平成20年度入壕者数がまとまった。総入壕者数は1万5389人と前年度比8%のマイナスとなったが、1日平均では50人弱と相変わらず高い人気を維持しており、同市の観光スポットとして定着してきたようだ。
同地下壕は、米軍の空襲がはげしくなった太平洋戦争末期、当時の館山海軍航空隊の防空壕として使われた。総延長1.6キロと全国的にも大きな地下壕で、市を代表する戦争遺跡のひとつ。一般公開翌年の平成17年1月には、市の指定史跡にも指定されている。
入壕状況によると、入壕者の内訳は個人客が8165人で全体の53.11%と半数を超え、学習旅行などの高校生は18.9%にとどまり、大人が81.1%を占め、戦前・戦中世代の人たちに関心が高い。県外からの来訪者も8345人で54.2%と過半数を数える。月別では、10月が1675人と最も多く、次いで8月の1652人、5月の1597人、11月の1589人の順で続き、10月の1日平均入壕者は57.8人にのぼった。
同市は現在、戦争遺跡への修学・学習旅行の誘致に力を入れているが、市教委では大人を対象としたPR活動に一段と力を入れ、歴史遺産を後世に伝えていきたいとしている。
「おらがごっつお」 レシピづくりへ調理現場公開
館山 1回目は「田舎ずし」
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館山市は、昔ながらの我が家のごちそう「おらがごっつお」をテーマに、調理方法やそれにまつわる物語などをまとめ、レシピ集として発行することになり、制作現場を公開する。毎月1回のペースで進める予定で、1回目を、あす24日午前9時30分から市コミュニティセンターで行う。今回は「田舎ずし」を取り上げ、調理方法を知りたい人や、試食したい市民の来場を呼びかけている。
おらがごっつおは、NPO安房文化遺産フォーラムと市保健推進協議会が2年前、41種類の昔ながらの料理を冊子としてまとめている。嫁から姑へと受け継がれてきた〝おふくろの味〟を紹介したもので、「これを今後のまちづくりに生かそう」と改めて調理実習と試食会を開催。集まった人たちから、その料理にまつわる話を聞いて物語に仕立てようという。
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◎農民一揆「万石騒動」から300年
...三義民たたえ来年記念祭 館山
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江戸時代に安房国北条藩で起こった「万石騒動」から300年。騒動で犠牲になった3人の名主の300回忌に当たる来年に、「万石騒動安房三義民300年祭」開催の機運が盛り上がっている。
万石騒動は正徳元(1710)年、当時北条藩(現館山市)の27カ村約1万石を支配していた屋代越中守忠位のとき、藩政を預かった川井藤左衛門が元禄大地震からの復興に、労役や2倍近い年貢を課したことで農民が立ち上がった農民一揆。
数百名の農民が江戸の屋代家に押しかけて門訴し、老中にも駕篭(かご)訴した。農民代表の湊村角左衛門、国分村長次郎、薗村五左衛門の3名主が処刑された一方、屋代家は改易、川井らも処刑されるなど農民勝訴で決着した。
処刑された3名主は「三義民」とたたえられ、処刑場跡地がある館山市国分地区の国分寺には供養塔が建てられた。命日には毎年法要が営まれるほか、50年ごとに記念法要が営まれている。
300回忌の来年を前に今年2月、同地区や市文化財保護協会、NPO安房文化遺産フォーラムが共同して実行委員会(委員長・佐野邦雄市文化財保護協会長)を立ち上げた。17日に開かれた検討会では、来年11月20日の300年記念祭に合わせて、同地区の処刑場跡地に新たに記念碑を建立し、事業費を寄付金で賄う方針を確認した。「万石騒動で農民は武装蜂起せず、言葉で訴えた。“義”の心を後世に伝えたい」と記念事業の意義を示す。
寄付金の振込口座は郵便局で「万石騒動安房三義民300年祭実行委員会」(00150-4-263116)。問い合わせは国分区長の行貝さん(電話)0470(22)4824。
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◎「直接軍政」知っていますか?
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1945年9月3日、米占領軍が館山市に上陸し、4日間にわたって本土では唯一の「直接軍政」を敷いたが、当時の市民が、どのように受け止めたかを伝える資料は乏しい。NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は、上陸の場面などを撮影した記録映画の上映会を9月3日午後1時半から同市館山の館山地区公民館で開催し、映っている人たちの証言を呼びかける。無料。
東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式があった翌日午前9時20分、米陸軍部隊約3,500人が上陸用舟艇で市の旧館山海軍航空隊水上班滑り台に上陸した。その様子を撮影したフィルムには、上陸シーンと街をパトロールする様子、それを見守る市民の姿などが記録されている。
カニンガム准将が率いるこの部隊は、日本軍の武装解除と民政監督を任務としていたが、その日のうちに裁判所権限や財産管理、市民の夜間外出などを禁じ、市を事実上の「直接軍政」下に置いた。
これに対して、外務省館山終戦連絡委員会は日本政府を介して撤回を求め、同准将もこれに応じた。安房中学校(現県立安房高校)の宿直日誌には「九月三日米8八館山上陸、学校ハ当分ノ間、閉鎖ヲ命ゼラル」とあり、7日付で「全校出校、連絡不充分ノタメ出校者約半数」などとこの間の経緯が記されている。
こうして沖縄以外でただ1ヵ所の「直接軍政」は4日間で終わった。
上陸部隊には、太平洋戦争で孤島を死守する日本軍と強襲上陸を試みる米軍兵士たちの人間ドラマを描いた「裸者と死者」の著書で、後にベトナム反戦運動の体験を下敷きにした「夜の軍隊」でピューリッツァー賞に輝いたノーマン・メイラー氏(故人)がいた。同氏は本社記者とのインタビューで「占領軍の一員として館山の空港に到着した。周囲の高い丘から機関銃がいくつもこちらをにらんでいた。日本軍が抵抗していたら、きっと砲火を浴びて殺されていただろうと思った」('06年9月9日朝刊)と語っている。
また、当時、米テキサスの州兵で、この時期、同市で任務についていたウィリアム・ガルボさん(84)は帰国後、地元の大学教授のインタビューで、同市布良の住民との交流などについて詳しく語っており、米軍側の証言や資料はいくつか残っている。
ところが、館山市民の証言は、敗戦による混乱のさなかだったこともあって数少ない。愛沢さんは「映像には、占領軍を迎えた館山市民もかなり映っている。その人たちを知っている人がいたら、ぜひ連絡して欲しい。貴重な証言を引き出すきっかけにしたい」と呼びかけている。
◆千葉遺産33◆
◎かにた婦人の村 従軍慰安婦碑
…歴史の闇ひそやかに、声なき同僚 鎮魂の場
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急勾配の坂を登ると、館山の海とミニチュアのような街並みが眼下に広がる。小高い丘の上に位置する「かにた婦人の村」(天羽道子施設長)。施設内には入所者がパンづくりや陶器づくりに従事する作業棟や農園、教会が並び、それらを見下ろす丘の上に「噫(ああ)従軍慰安婦」と書かれた石碑(高さ約2メートル)が建っている。
かにた婦人の村は65年、東京都のプロテスタント系社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」が母体となり、故深津文雄牧師が設立した婦人保護長期収容施設だ。1956年の売春防止法成立を受け、障害のある女性を長期間生活する施設として建設された。
施設には深津牧師の墨書が今も残る。「かにたとは、そこを流れる小さな川の名前でした。(中略)そのほとりに捨てられた、いとも幸うすき女性百人の、共に住む村の名前となりました」。ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏が72年に発表したルポルタージュ「棄(す)てられた女たちのユートピア」(新潮文庫「人の砂漠」所収)の舞台ともなった。
これまで全国各地の婦人保護施設から「長期収容が必要」と判断された延べ179人の女性が入所。38人は他施設などへ移り、59人はここで亡くなった。家族に引き取られたのはわずか2、3人だという。現在、20〜90代の女性82人と、職員約20人がともに暮らす。生活費は国、県からの補助金や寄付金で賄われている。
◇ ◇
深津先生
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◎米軍上陸時のフィルム上映
…9月3日、館山地区公民館で当時の目撃者募る
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館山市のNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)は9月3日午後1時半から同市館山の館山地区公民館で、終戦間もなく館山に上陸した米占領軍の模様を記録したフィルムの上映会を行なう。
9月3日は昭和20年、米陸軍の3,500人の部隊が、館山に上陸を始めた日。同フォーラムは、所有する貴重な上陸シーンの映像を今回初めて一般向けに上映。この機会に「当時の模様を目撃した人や、終戦直後の館山の様子をよく知る人たちの新たな証言を募り、歴史の掘り起こしに役立てたい」(池田恵美子事務局長)としている。
上映するのは米軍が日本占領時の模様を撮影し、米公文書館に保管されていたフィルムの一部。20年ほど前に愛沢代表が公開部分を業者を通じて購入したが、その中に館山、房州の模様が映っている部分が約20ほどあった。
フィルムには▽米艦船が館山海軍航空隊の施設に接岸し、兵員とともに荷物や自動車が荷揚げされている様子▽館山駅に集合した米兵が、列車で移動する様子—などが記録されている。上陸地点の高の島周辺で米軍の様子を遠巻きにうかがう住民、子どもや、館山駅で改札を通る女性の姿なども映っている。
当日はフィルム上映のほか、愛沢代表が「終戦直後の館山での直接軍政」などについて、これまでの歴史調査の概要を報告する。
同フォーラムによると、マッカーサー将軍が厚木に到着した翌日の昭和20年8月30日、館山と富津岬には米軍の先遣隊が上陸。9月2日の戦艦ミズーリ号での降伏文書調印を経て、3日には館山市に占領軍の第1陣が上陸した。市内には日本外務省の出先機関として「終戦連絡委員会」が置かれ、4日間にわたり米軍の「直接軍政」が敷かれた。
■ 2009年12月15日(火) 01:58〜02:28
TBS 『ドキュメント・ナウ』
「胸込み上げる関東の戦跡」
悲惨な体験をした人たちも年々少なくなっている。
だが、かつての基地や要塞の跡は、
意外にも、今でも生々しく残っている。
戦時中はどんな役割を果たしていたのだろうか。
そして、そこに関わった人たちは
今、どんな思いで見つめているのだろうか。
生き残った人びとの証言をもとに取材を始めてみた。
東京湾の入口に位置する千葉県館山市は、
戦時中、「東京湾要塞」の一角として、国防の重要拠点だった。
戦後から60年以上がたった今でも、その痕跡が残っている。
これは、1927年に竣工した洲崎第二砲台の跡である。
戦後爆破されたというが、円形の砲台の一部が残っている。
砲台から30mほど登ると、トンネルがあった。
これは弾薬などを貯蔵するための格納庫だったのだ。
トンネルの中には、2ヶ所に部屋のようなスペースが残っていた。
弾薬庫は、さらに砲台の下、今は民家の建っている山の中腹にもあった。
「砲台のね、弾薬庫という話だったんですよ。」
この家に住む佐野さんに、弾薬庫の中を見せてもらった。
もともとは土に埋もれていたのだが、
家を増築するために掘り返してみたところ、
この大きな弾薬庫が姿を現したのだという。
厚さ30cmはあろうかという頑丈な壁は、鉄筋コンクリート造り。
「対米英戦を考えて、こんなのを作っただっぺよ」
長い戦争の幕開けとなったのは、1931年に起きた満州事変だった。
関東軍はわずか5ヶ月で、満州全土を占領したという。
この衝突を境にして、日中戦争、太平洋戦争へと、
戦争はますます激化していくのである。
太平洋戦争が始まる半年前に、1941年6月、
館山には、陸上戦闘の実地訓練を主な目的とした館山海軍砲術学校が開校した。
そこでは、「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練がおこなわれていた。
今も残っているこの巨大なプールの跡は、
落下傘部隊の研究や訓練に使われていたという。
開戦の迫った1941年9月、
海軍は初の落下傘部隊を編成するため、全国から1,500人の精鋭を集めた。
その1,500人に選ばれ、かつて落下傘部隊として
ティモール島クーバンへの奇襲作戦に参加した秋山巌さんに話を聞いてみた。
「我々がいた落下傘部隊っていうのは、
いってみれば、殺人集団ですよ。
.割箸1本で人を殺すことまで教えましたから。
.簡単に死にますよ、人間。」
砲術学校では、機関銃や小型戦車などの操縦を学んだ。
そして、館山海軍航空隊で落下傘の基礎訓練を受けた後、
高度300mからの命がけの特訓に臨んだのである。
「そりゃ、怖いですよ。一番初めに降りるときは、
.へんな話、やっぱり、ちびっちゃいますよ。
.中には未練がましく、怖くて飛行機にしがみついて
.離さないわけですよ。でもむだですよ。ケツ蹴飛ばされて。
.あとから呼ばれて、さんざんバット食いますよ。
〝貴様、それでも軍人か〟ってね。」
訓練中には、落下傘が開かずに、
そのまま地上に落下してしまった隊員もいたという。
「開かないで、サーッと、落ちて行くんですわ。
.サーっと。そりゃ、即死ですわ。
.全然開かないで落ちて行くんですから。
.何回か、2回、見ましたよ。
.明日は俺か、なんていう、いやな予感がしますよ。」
およそ3ヶ月の訓練の後、ク—パンやサイパンなどへ出撃した。
1,500人の落下傘部隊のうち、生き残ったのは200人ほどだったという。
「こりゃ、勝てんと思ったよ。絶対勝てん。
.こんだけ船が沈められて、飛行機がなくなる。
.それで大本営はウソばっかり言う。
.だから、いい加減ポンポン打っておいて、逃げろ、と言ったんだよ。
.1機や2機落としたところで、戦局に影響しねえわい。」
1942年6月、ミッドウェイ島の攻略を目ざす日本軍をアメリカ軍が迎え撃った。
日本軍は、主力空母4隻を失い、大敗した。
この海戦を境にして、日米の攻防は逆転、戦況は悪化していくこととなる。
ミッドウェイ海戦の大敗から3ヶ月後の1942年9月、
海軍特別年少兵の第1期生が全国から集められた。
まだ、14、5歳の少年たちが戦争にかり出されたのだ。
館山市内で電気店を営む庄司兼次郎 (しょうじかねじろう)さんは、
その第1期生のひとりだった。
15歳で横須賀にある海兵団に入団し、新兵教育を受け、
その後、海軍コウキ学校で戦闘機の理論や
陸上戦闘の演習などをたたき込まれた。
追いかける班と逃げる班に分かれて全速力で走らされる追撃戦の特訓は、
地獄のような苦しみだったという。
「毎晩のように、バットの精神棒で殴られてました。
.船に乗せて行って、放り投げて、陸まで。
.中には溺れかけるのもいるんで、船がいて助けたり。
.それも、よくよくでないとね。」
庄司さんは、1944年6月、17歳のときフィリピンのダバオへ派兵された。
「餓死だとか栄養失調ですね、マラリア、デング熱、というような病気ですよね。
.実際の戦闘で亡くなった人より、そういう人のほうが多い。
.とにかく、戦争がない、ということが一番、でしょうね。
.戦争というのは、二度とやっちゃいけないと思う。」
アメリカ軍の空襲がはげしくなってきた1944年、都市部では学童疎開が始まっていた。
そして、本土決戦に備えて、女たちにも竹槍の訓練が始まったのである。
館山でも決戦に備えて、数多くの地下壕が掘られていた。
かつてあった館山海軍航空隊の基地のすぐ南側にある、
通称「赤山」には、総延長およそ2kmにおよぶ地下壕が今でも残っている。
資料がほとんど残っていないため、何に使われていたのか確かなことは分かっていない。
しかし数少ない地元の人たちの証言によると、1930年代の半ばから1940年代にかけてつくられ、
病院や発電所、兵器の貯蔵庫、さらには戦闘指揮所としての役割を果たしていたといわれている。
当時はどんな様子だったのだろう。地元の人に聞いてみた。
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◎青木繁の「海の幸」記念碑
解説モニュメント設置
…地区の観光振興に期待
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明治の洋画家・青木繁が滞在した館山市布良の地に建立されている「海の幸」記念碑脇に、その経緯などを詳述した解説モニュメントが設置された。記念碑の保存活用をめざす地元の声を受け、国の地域活性化・生活対策臨時交付金で市が事業化。新たな観光スポットとして期待されている。
1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業した青木は、恋人の福田たねや画友の坂本繁二郎らとともに写生旅行に布良を訪れ、網元の小谷家に滞在。ここで、後に近代洋画では最初の重要文化財に指定された「海の幸」を描いた。
記念碑は、青木の没後50年を記念して1962(昭和37)年、当時の館山市長らが発起人となり、「海の幸」の舞台となった阿由戸の浜が一望できる小高い丘の上に建立された。
布良を含めた富崎地区では最近、地区住民などが中心となり、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」も設立され、青木繁や「海の幸」を題材とした地域活性化に向けた動きが活発化。地区内には青木繁が逗留した小谷家住宅や阿由戸の浜、布良崎神社などの地域資源も多く点在する。
そこで、市商工観光課が「地域における観光振興の一助になれば」と解説モニュメント設置を事業化。高さ1メートル、幅1.6メートルほどの台座にCAPPセラメタルで「海の幸」のレプリカを、さらに経緯などをまとめた解説を加えた。事業費は約173万円。