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泥田に恐る恐る入り、足を取られて悲鳴を上げる子、はしゃぐ子…。館山市で5月上旬、東京都中野区の子どもたちが田植えを体験した。
「子どもたちの声を聞くのは久しぶりだよ。いいもんだねえ」。受け入れ農家のお年寄りも表情がほころんだ。30分もしないうちに、子どもたちは泥んこになって、田植えを楽しんだ。
仲介したのは館山体験観光協議会(海老原斉会長)。館山市の海や里山を生かして、漁業や農業などの体験を希望する首都圏などの人たちに体験先を紹介している。地元の農海産物などを首都圏の各種催しの産直コーナーなどで販売もしている。
館山市と東京都中野区との交流は10年を超える。きっかけをつくったのは県立安房高校のOBたちだ。第19回卒業生で同じ3年5組で机を並べた仲間が十数年前に再会。そこで、中野区に住む1人から、館山市で電機工事会社を営む和泉俊明さん、純子さん夫妻(61)に相談が寄せられた。
「中野区の商店街活性化のために館山市の農産物や海産物を目玉に出来ないか」
和泉さんは館山体験観光協議会に協力を呼びかけた。中野区の商店街で、館山産び農海産物の直売が実現し、同区との交流事業に発展した。
●残留組の願い、徐々に浸透
和泉さん夫妻が子どものころは、高度成長の恩恵が地方にも及び、商店街にも活気があった。子どもの数も多かった。
1967年、安房高の19回卒業生は、その多くが古里を後にした。それぞれの思いを胸に、ある者は就職、ある者は進学のために首都圏に向かった。
いま、同市は小規模な農漁業と観光を除くと目ぼしい産業がない。人口は減り、高齢化も著しい。和泉さん夫妻らと同じ3年5組約50人のうち、館山市を含む南房総に残っているのは、十数人に過ぎない。
しかし、古里を元気にしたい、という和泉さんら地元残留組の願いや活動は、還暦を迎えてリタイヤ後の人生を考えるようになった。首都圏などに住む館山市出身者に、次第に浸透しつつあるようだ。
以前と比べて同窓会などの参加者が増えてきた。里帰りのついでに、和泉さんの店に立ち寄ってくれる人も。
「雑談ついでの情報交換が、思いがけない形で生きることもある」。和泉さんは手応えを感じている。
●活動きっかけ新たな出会い
中野区での和泉さんたちの活動を機に、館山と縁が生まれた人も。中野区の職員篠原文彦さん(55)は仲間と館山市に家を借り、数年前から農業を楽しんでいる。「畑は広くないが、都会暮らしなので、ぜいたくな気分になれる」。仲間を含め、全員東京で生まれ育ったが、篠原さんは退職後、館山で暮らすことを真剣に考えている。
数年前、館山市内で関係者が集まった際、館山体験観光協議会の海老原会長が言った。
「若い連中はみんな館山を出て行ってしまう。でもリタイアしたら帰ってきて欲しい」。地元に向けた一言だったが、それを聞いた篠原さんは「自分たちも役に立てるんだ」と感じたという。
館山市のNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表は「団塊世代のエネルギーを古里再生に生かす好機だ」とみる。12日には市内で「まちづくりシンポジウム」がある。退職時期を迎えた団塊世代が、まちづくりにどうかかわるかが、テーマだ。
(福島五夫)
(日本経済新聞2010.3.14付)
「海の幸」会のこと
入江観
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山国育ちの私は、今、四十年を超えて海辺の街で暮らしていることを幸せに思っている。
朝寝坊の私は同行しないが、妻は早朝の海岸歩きを習慣にしている。時折、地曳網に出合うことがあり、鯵や時には平目などを分けてもらってくることがある。「魚が減った」という漁師の嘆きも聞こえてはくるが、そんな時、海の恵みと直につながっているという実感はある。
今日の話は、そのことではない。青木繁の描いた「海の幸」についてである。
この作品は、近代日本の洋画としては最も早い時期に国の重要文化財に指定され、美術の教科書にも載っており、現在は作者の郷里でもある久留米市の石橋美術館にあるが、長年にわたって東京・京橋のブリヂストン美術館に陳列されていたので多くの日本人の眼に触れ、記憶に残っているはずである。
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青木繁没後100年回顧展
「海の幸」に豊かな解釈
(日本経済新聞2011.4.11夕刊文化)
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日本近代を代表する洋画家、青木繁の没後100年を機に39年ぶりの回顧展が開かれている。代表作「海の幸」をめぐる斬新な解釈が現れるなど「早世の転載画家」の新たな側面に光が当たる。
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国の重要文化財に指定されている青木の代表作「海の幸」。日焼けした漁師たちが大魚をぶら下げ、誇らしげに行進する。この絵がしばしば「祝祭的」と評される理由をブリヂストン美術館の貝塚健学芸員は「祝祭そのものを描いたから」と見る。
2列目の男たち、水平に近い角度で担ぐ銛—。「祭りの御輿みたいだ」と感じた貝塚学芸員は展覧会の調査を進める中で、安房郡の布良)現千葉県館山市(にある安房神社の例祭を知った。
漁業で栄えた村が最も活気づく例祭の中心的な行事が8月10日の「お浜出」。日暮れに鳳凰を頂いた輿を浜辺に持ち出すことから「夕日の祭典」と呼ばれた。「青木はお浜出を見たのではないか」と貝塚学芸員は直感する。
1904年7月4日に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した青木はその11日後、恋人の福田たね、親友の坂本繁二郎らを伴って写生旅行に出かけた。約1ヶ月半の布良滞在時に「海の幸」を描いたことはよく知られている。
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