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タイトル:安房の高校生から始まった平和活動〜『子どもとつくる平和の教室』収録
掲載日時:%2019年%01月%20日(%PM) %22時%Jan分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=640

『子どもとつくる平和の教室』

第10章 安房の高校生から始まった平和活動

〜平和学習から生まれた安房地域のウガンダ支援活動〜

NPO法人安房文化遺産フォーラム 河辺 智美

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1.はじめに

私がウガンダ支援活動を知ったのは、安房高校3年次の2008年のときである。校内文化祭でJRC(青少年赤十字)部のウガンダ支援バザーに出会い、継続的な活動に感銘を受けた。その後、東洋大学国際地域学部(現・国際学部)に進学し、三年次のゼミ研修でウガンダを訪問した際、支援先のNGOウガンダ意識向上協会(CUFI)代表のスチュアート・センパラ氏宅にホームステイし、現地を見聞する機会に恵まれた。卒業論文ではウガンダ支援活動の実践事例を調査検証し、「国際理解教育における地域教材活用の有用性-身近な地域と世界をつなぐために-」と題して執筆した。現在もセンパラ氏との交流を続けながら、NPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラム)のメンバーとして活動に関わっている。

そもそも高校生によるウガンダ支援活動が始まったきっかけは、千葉県歴史教育者協議会安房支部代表の愛沢伸雄氏による地域教材を使った授業にあった。愛沢氏は、足もとの地域から世界を見て、そして自己に戻る視点を養い、地域社会に根ざして地球市民として生きるための教育を実践してきた。なかでも、戦争遺跡や婦人保護施設「かにた婦人の村」(以下「かにた村」)、ハングル「四面石塔」などの地域教材を活かした授業づくりに取り組んできた。旧県立安房南高校ではこうした平和学習を契機に、1994年より生徒会によるウガンダ支援活動が始まった。

アフリカのウガンダ共和国は、1962年の独立以降も紛争が絶えず、政治経済の混乱、教育や医療の崩壊が続いた。長期間の内戦のうえにエイズが蔓延して、孤児は数百万人ともいわれた。望まない少年兵に仕立てられて心に傷を負った者や、貧困で家もなく食事も満足にとれない者があふれていた。そんな子どもたちに生活や教育を与え、自立に向けてサポートしていたのが、CUFIである。

魚1匹あげれば1日食べつなげることができるが、魚の獲り方を教えれば一生食べていくことができるという。CUFIではこれを教訓とし、何かを与えるというより、知識や技術が身につく教育を重視してきた。設立メンバーの一人でもあり、2代目の代表となったセンパラ氏は、農村指導者として社会の再建に貢献するため、1994年に日本の栃木県にあるアジア学院へ留学し、持続可能な循環型農業を学んだ。

その際、研修の一環として館山市にある「かにた村」を訪問したことがきっかけとなり、安房南高校の生徒たちとの縁が結ばれた。センパラ氏からウガンダの状況を聞いた女生徒たちは、「ウガンダの子どもたちに夢と希望を」を合言葉に立ち上がった。同年は、国連の「子どもの権利条約」を日本が批准した年であり、学校で勉強がしたいと願う孤児たちのために支援をしようと考え、「相手の顔が見える」活動としてウガンダを支援先に選んだのであった。

以来毎年、文化祭でのバザー売上や募金を送り続け、2000年には、安房南と名づけられた職業訓練校が現地に開設された。その後、統廃合により安房南高校は閉校となったが、県立安房高校JRC部を経て、私立安房西高校JRC部へと継承された。愛沢氏は教員を早期退職し、平和学習支援とまちづくりを目ざすNPO法人安房文化遺産フォーラムを2004年に設立した。その代表としてウガンダ支援の窓口を担い続けており、高校生と市民の協働による支援・交流活動は4半世紀におよんでいる。


2.地域に根ざした平和学習とは

房総半島南部の安房・館山は太平洋に開かれ、東京湾口部に位置するため、古くから戦略的な要衝である。帝都防衛のための東京湾要塞であり、館山海軍航空隊・館山海軍砲術学校・洲ノ埼海軍航空隊が開かれ、アジア太平洋戦争における航空技術の開発や訓練地として加害の一翼を担っていった。さらに戦争末期には、本土決戦に備えた抵抗拠点として、約七万人の兵士が投入され、陸軍・海軍の特攻基地や陣地など軍備強化が進められた。現在一般公開されている館山海軍航空隊赤山地下壕跡(館山市指定史跡)は、日米開戦前から造り始められたことが判明しており、基地に付属し地下に建設された航空要塞であると考えられている。また、敗戦直後には本土で唯一、他にはあまりみられない「4日間」の直接軍政が敷かれており、平和裏に戦後日本がスタートする試金石となるモデル占領の地であった可能性も特筆すべきことである。

歴史から消された多くの史実は、愛沢氏が授業づくりのために地域を掘りおこし、明らかになったものである。NPOフォーラムのスタディツアーは全国から注目され、各地から平和学習の団体が館山へ訪れるようになっている。愛沢氏が地域に根ざした教育実践を志したのは、1989年に社会科教員研修で「かにた村」を訪問したことがきっかけである。

「かにた村」は売春防止法に基づく全国唯一の長期婦人保護施設で、さまざまな障害をもち社会復帰が困難な女性たちを救済するためのコロニー(共同体)である。創設者の深津文雄牧師が説いた「底点志向」とは、底辺よりさらに低い社会のどん底にいる小さく弱い人びとに寄り添うことであり、それを福祉事業の原点と考えていた。この理念に賛同した世界中のキリスト教ネットワークを通じて集められた基金により、1965年に館山の旧海軍砲台跡地に設立された。ここでは、傷ついた女性たちが支え合いながら、それぞれの障がいに応じてできる作業を通じて、人間性を回復し、働くことの喜びを得ていく共生の村づくりが実践されていた。「かにた後援会」と称して広く支援を呼びかけ、全国から送られてくる中古衣料や日用品をバザーで販売し、施設運営に充てている。

戦後40年のとき、ここで暮らしていた一人の女性が、戦時下に従軍慰安婦であったことを告白した。長い間心に秘め、毎夜夢を見て苦しいので、戦地で亡くなっていった仲間たちを弔ってほしいという願いを受け止め、深津牧師は「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑を施設内の丘上に建てた。石碑は空を突き刺すように建っている。

愛沢氏は深津牧師からの聞き取り調査を重ね、「かにた村」と石碑の存在を地域教材として取り上げ、女子校であった安房南高校で平和・人権学習の授業をおこなった。地域に生きる一人の女性として、告白に至った女性の生き様に焦点を当てながら、主体的で民主的な主権者の意識を育て、生徒の平和認識を変容・深化させることをねらいとした。

9時間にわたる授業を受けた女生徒たちは、「私たちの身近にこんな大事なことがあった」「平和は戦争をしないだけじゃなくて、自分の思っている事を自由に言えたり、人種差別で悲しい思いのする人たちもいない、心がやすらいで生活できる事だ」「平和とは国民一人一人がささえているもので、その国民は自覚しなければいつでも崩されていくものだ」などと感想を記した。「従軍慰安婦問題」の認識に伴い、戦争に関わって悲しみや苦しみ、怒り、葛藤を抱えた女性の生き方を、単なる同情を越えて、女子高生なりに自分と深く関わる問題として捉えた。地域の平和教材が生徒の心を揺さぶり、「何か自分たちにできることはないか」と模索を始めた。

奇しくも、「かにた村」では1989年から国際支援活動に取り組んでおり、バザーの中古衣料や日用品なども送っていた。このことは、「かにた村」が世界の人々の支援によって建てられた経緯から、自分たちもできることをと、恩返しとしての取り組みでもあった。他人の痛みや苦しみにとても敏感な「かにた村」の女性たちは、日々の作業で得たわずかなお金を出し合い、募金にも協力していた。そこで深津牧師に相談したところ、ちょうど来訪したばかりであったセンパラ氏を紹介された。まず取り組んだのは、ウガンダの状況について調べ、相手を知ることであった。次に、資金調達の手段や物資の送り方を「かにた村」から学び、足もとの地域から世界に目を向けた活動を始めるきっかけとなった。教室・学校を越え、ウガンダという一つの現場とつながった生きた学習であった。


3.学校で取り組むウガンダ支援

1994年10月、安房南高校の生徒会や生活委員会(後に、ボランティア委員会に改称)が中心となって、校内文化祭で第1回ウガンダ支援バザーを開催し、ウガンダの現状を伝える展示をおこなった。あらかじめ「かにた村」から提供を受けた中古衣料のほか、全校生徒や保護者、地域の商店や諸団体に呼びかけて、文具や生活用品などを集めた。バザー売上は18万円となり、それを送料に充てて支援物資28箱をウガンダへ送ることができた。

同年12月、アジア学院の研修を終えたセンパラ氏は、帰国直前に安房南高校へ来校した。歓迎会では、ウガンダの未来を子どもたちに賭けるセンパラ氏の想いを聞き、国際的な友情と交流を深めた。後にセンパラ氏から届いた手紙には、感謝とともに「どうか私たちのことを忘れないで下さい」と書かれていた。その言葉どおり、国際交流・支援の輪は、後輩たちへ受け継がれ、やがて学校から地域にも次第に広がっていくことになる。

翌年5月、先に送っていた支援物資がウガンダに到着し、夏には「かにた村」が次にコンテナで送る物資の箱詰め作業に協力した。その中には同校の体育用ジャージや運動靴もあった。卒業時に不要になった衣類などを捨てるのではなく、学校生活を見つめ直す風潮が生まれていった。しかし、物資の輸送には高額な関税がかかることもわかったので、支援金を送ることを活動の柱とすることに変更した。

その後、校内文化祭におけるバザーや募金の支援活動は定着し、毎年約10〜20万円を送金することができた。現地には魚の養殖池が作られ、「安房南池」と命名された。教師の中には、「ウガンダ支援は焼け石に水」と冷ややかな言葉を投げかける人物もいたが、生徒の主体的な活動なのだから応援していこうという機運が多くの教師の中にも高まっていった。高校生とウガンダの子どもたちは手紙を送り合い、写真や子どもたちが描いた絵も届くようになった。これらは文化祭の支援バザーでも展示され、多くの人びとへ理解と協力を呼びかける貴重な資料となった。

1999年、ボランティア委員会顧問であった愛沢氏がウガンダを訪問し、高校生の支援が様々な形で実っている状況を視察し、帰国後、全校集会の際に報告会をおこなった。

2000年にはウガンダに「安房南洋裁学校」と命名された職業訓練施設が開かれ、閉課となる家政科のミシンが活用された。校舎の正面には、友情の証として安房南高校の校章も掲げられ、生徒にとっても大きな励みとなった。

2001年に愛沢氏は他校へ異動となったが、安房南高校のウガンダ支援活動は、ボランティア委員会顧問であった高木淳教諭らに引き継がれ、送金窓口は引き続き愛沢氏が担っていった。


4.地域と取り組むウガンダ支援

2004年、愛沢氏が市民とともに進めてきた十数年にわたる戦争遺跡の保存運動が実り、館山海軍航空隊赤山地下壕跡が自治体によって整備され一般公開が始まった。同年、「平和・交流・共生」を理念として設立したNPOフォーラムでは、平和学習ガイドのほか国際交流を活動の柱に位置づけた。

翌年、NPOフォーラムメンバーからの呼びかけで誕生した「安房・平和のための美術展」では、高校生の支援活動に賛同し、ウガンダの子どもたちの絵画を展示するとともに、チャリティ収益金の一部を支援金とした。これは第14回現在まで続いている。NPOフォーラムは、館山病院感謝祭において

も、同病院健康友の会と協働して高校生とともにウガンダ支援バザーを開いている。また院内ギャラリーではウガンダの子どもたちの絵画や写真の展示をおこなってきた。

ところで、支援活動の当初に届いた絵画は、内戦直後の影響で、戦闘シーンを描いたモノクロの作品ばかりであった。交流の積み重ねを経て、高校生らが贈った色鉛筆で描かれるようになった絵画は明るく、学校で遊ぶ様子や動物の絵などが届くようになった。この変化は、この活動を担ってきたものたちに、平和とは何かを問うものになったことは貴重なことであった。


5.ウガンダ支援・交流20年に向けて

女子教育として県内2番目の歴史を誇った安房南高校には、1930年に建てられた木造校舎(県指定有形文化財)がある。しかし残念なことに、安房高校との統廃合に伴って、2008年に創立100年という由緒ある歴史に幕を閉じた。桐原書店の英語教材(2007年発行)では、「アフリカに残る日本の高校名」というタイトルで支援活動が紹介された。(注2)

ボランティア委員会顧問高木淳教諭は統合先の安房高校に異動となり、JRC部顧問としてウガンダ支援活動の継承を呼びかけた。実は前年度から両校の交流や協働が始まった際に、統合後の文化祭でも支援バザーの開催が準備された。JRC部による通算15回目が実施された意義は大きい。地域の商店や諸団体にも協力を依頼し、校内文化祭でのウガンダ支援バザーは定例化していった。

安房高校を含む千葉県南部地区JRC協議会では、NPOフォーラムが講師となり、ウガンダ支援活動の経緯や現地の状況を学び、活動の意義を深く認識した。安房高校JRC部は支援金のほかに、文具や長縄などのプレゼントを贈り、子どもたちからはお礼の手紙や絵、写真などが届き、友情を育んだ。

2009年には、CUFIの農園作業用の軽トラックが故障したとの緊急相談があった。NPOフォーラムが中心となり、館山病院健康友の会や閉店した元衣料品店などから協力を得て、JRC部員と緊急支援バザーをおこない、中古トラック購入資金を捻出した。

2010年の東日本大震災では、被災地復興支援が優先される国内状況下となったが、「長く続いてきた交流の火を消さない」という部員たちの思いにより、校内文化祭では震災支援バザーとウガンダ支援バザーの両方がおこなわれた。この選択は、貧困という社会問題の根絶には長い時間を要することを理解し、それに関心を持ち続けることの重要性を示した点において、大変意義深いものであったといえる。

同年、私は大学のゼミ研修で訪問したウガンダに滞在延長し、支援先であるCUFIの現状を視察してきた。学校に通い続けることが難しい子どもたちは依然として多く、また学びの環境が十分に整っていないという状況でありながら、高校生らのささやかな贈り物に歓喜している子どもたちの笑顔に感銘を受けた。帰国後、報告会を開き、JRC部員や国際協力に関心のある生徒たちにその様子を伝えた。

しかし、学校ぐるみで取り組んできた安房南高校とは異なり、安房高校ではJRC部という一組織で担う活動の負担は大きく、活動は次第に困難になっていった。2012年にはとうとう同部は廃部となり、ウガンダ支援活動は止まってしまった。しかし播かれた種子は、その後積極的に国内外のボランティア活動に取り組む一人の人材に花開いていったと聞き、支援活動の意義は大きいと感じた。

NPOフォーラムでは高校生による支援・交流を重要視していたので対応を模索していたが、ちょうど南部地区JRC部協議会が開催され、その会合で私立安房西高校JRC部への活動を提案することができた。話し合いの結果、引き継いでいくという重要な決定がなされた。その後活動経緯を理解してもらうために、かつて支援活動に参加していた安房南高校卒業生らとのれていくことが決定した。かつて支援活動に参加していた安房南高校卒業生らを招いて、現役部員との懇談会を開き、取り組みを応援することを約束した。

2014年には安房西高校文化祭において初となるウガンダ支援バザー(通算19回目)が開催された。同年は活動20周年の節目であったため、各校で活動に関わった卒業生や顧問、地域の支援者などが一堂に会し、「ウガンダ支援・交流20年の集い」の記念式典を開催した。現役の高校生と歴代の関係者がそれぞれの思いを語り、活動に向き合う姿勢や継続の価値を見つめ直すとともに、幾度の存続危機を乗り越え、地域の人々と一緒に取り組んでいく意味を知る有意義な機会となった。

なおこの時に、安房南高校で美術教師であった彫刻家の船田正廣氏から、ブロンズの同校女生徒像が披露され、この像をCUFIに寄贈したいと述べた。こうして30㎏もあるブロンズ像の送料は後日バザーで捻出され、年末のクリスマスプレゼントとして発送された。

20周年記念として館山信用金庫より「ふるさと応援ファンド」助成を受けたので、『安房の高校生によるウガンダ支援・交流20年のあゆみ』報告書を発行した。この編集過程において、卒業生から活動を振り返るアンケートを得た。「ウガンダ支援は〝してあげたこと〟ではなく、〝自分のため〟でもあり、昔の自分に励まされる」「相手の立場・目線に立って考えることを学んだ。普段の授業では学べないこと」「思ったことや感じたことを行動に移すことが大事」などと述べた。

一方、CUFIで支援を受け成長した子どもたちのメッセージも得た。幼少期から支援を受けてきたウガンダの子どもたちは、今では大学生や社会人として活躍している。「日本の高校生の手紙や贈り物に友情を感じ、交流に感謝と誇りを感じている」「内戦や病気に苦しみ、空腹で安全な場所で眠ることが難しい環境にあったが、支援のおかげでご飯を食べ、ぐっすり眠ることができ、学校で勉強ができるようになった」「日本の高校生とつながっていることは私の誇り」「7歳の時にもらった楽器は(盲目の)僕の人生を大きく変え、自信を与えてくれた」「私たちを愛してくれてありがとう」などと書かれている。高校生や市民によるささやかな支援が、どれほど子どもたちを勇気づけてきたのかを感じ取ることができる。


6.新たな取り組み〜クラウドファンディングからウガンダコーヒー月間へ

支援交流23年目を迎えた2017年春、孤児の送迎や食糧・生活物資等の運搬をしていた活動車両が、水牛と衝突して故障してしまったという緊急支援の相談があった。CUFIでは首都カンパラを含め4ヶ所の活動拠点を駆け回っており、今なお孤児が多く、厳しい生活下にある北部のメデ村までは片道410キロもあり、車は必需品であった。

緊急事態のため、IT型募金システムのクラウドファンディングを活用することにした。これはインターネットを通じて取り組みを表明し、賛同者から寄付を募る仕組みである。愛沢氏とセンパラ氏が共同名義で「ウガンダの子どもたちのための活動車両を買い替えよう」というプロジェクトを登録した。120万円を目標額に設定したが、2か月余の期限内に達成できない場合は支援を得られない。

NPOメンバーと卒業生らを中心に体制をつくって取り組み、新聞やフェイスブック、口コミを通じて呼びかけた結果、安房地域内外の200人を超える賛同者から寄付が寄せられ、目標を達成した。すぐに一万ドルを送金し、現地ではトヨタ・ハイエースの8人乗り3000CC(1996年式)を購入することができた。

緊急支援活動のなかで、達成への追い風となった申し出を2つ紹介したい。1つは、地元の自家焙煎珈琲店オーナー鈴木正博氏が支援のためにわざわざウガンダ産コーヒー豆を仕入れて、売上の一部を寄付し、店頭募金をおこなった。ウガンダのコーヒーは、「アフリカの真珠」と呼ばれる美しく自然豊かな大地で栽培されたもので、アフリカ第2位の生産を誇る代表的な輸出品であった。

もう1つは、闘病中の画家のチャリティ油彩画展である。脳血管障害で入退院を繰り返したうえ、癌になり、絵筆を執れなくなった姿を見ていた夫人は、友人から作品をチャリティ募金してウガンダ支援に充てるという提案を受けた。3週間の個展では200名の来場者で賑わい、多数の作品が売れ、作品売上から約30万円が寄付された。会期が終了した2週間後に、その画家は逝去された。ほとんど意識が混濁しながら大きな仕事を成し遂げた人生の最期に大きな貢献をされたことことを末永く語り継ぐため、この基金を報告書『安房の高校生によるウガンダ支援・交流23年のあゆみ』の発行に充て、感謝とともにご冥福を祈った。

クラウドファンディングでのウガンダ産コーヒー豆のチャリティ販売を契機として、コーヒー豆をフェアトレードで取り扱い、今後の持続可能な交流と継続的な支援活動につなげられないだろうかと、珈琲店オーナーの鈴木氏から提案があった。フェアトレード(公平貿易)とは、開発途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することにより、立場の弱い生産者の生活改善と自立を目ざす国際協力の方法である。新しい支援のかたちがうまれ、これまで続いてきた交流の輪がさらに広がる可能性が期待できる。

そこで、2018年8月、鈴木氏とNPOフォーラム役員の愛沢香苗氏、筆者の3名がウガンダへ訪問することになった。筆者にとっては、7年ぶり2回目の訪問になった。CUFIの活動状況を視察することと、コーヒー豆のフェアトレードの可能性を模索することが大きな目的であった(注3)。

コーヒーベルト地帯に位置するウガンダのコーヒー豆は、風味豊かで、自然にも体にもやさしいといわれている。コーヒーを通じてウガンダのことをもっと知ってもらいたいと、2018年度の安房西高校文化祭では、鈴木氏の協力のもと、JRC部は初めてウガンダのコーヒーを販売し、大変好評であった。より多くの人にその魅力を知ってもらおうと、10月を「コーヒー月間」と位置づけ、各店舗でウガンダコーヒーの提供・コーヒー豆の販売を行うキャンペーンを展開することにした。安房地域内の喫茶店などに呼びかけ、約20店舗が賛同してくれた。

そこで奇しくも、10月1日は「国際コーヒーの日」、9日は「ウガンダ独立記念日」である。呼びかけ文では、「コーヒーを作る人、届ける人、飲む人がつながり、ウガンダコーヒーのおいしさや魅力を広く知ってもらい、また市民同士の交流がより一層深まり、豊かな地域コミュニティになっていくことを願っています。そして、そのことがウガンダの貧しい子どもたちにもつながり、彼らが笑顔で学校に通い続けられるように、ささやかな力添えをしていきたいと思っています。」と、多くの方に呼びかけた。

高校生や市民による国境を越えた友情と知恵や意見の交流が、個人や地域をより結びつけ、平和を促進する芽が増えていくことを期待している。


7.おわりに

ウガンダ支援活動とは、「裕福な側から貧困な側へ一方的に手を差し伸べるというものではなく、むしろ、センパラ氏らの活動から学び得ることがとても大きい」と、長年センパラ氏との友情を育んできた愛沢氏は言う。それは、地域に根ざし、分かち合い、支え合うコミュニティの在り方であり、物理的な貧しさを上回る精神的な豊かさと、前向きな子どもたちの輝く笑顔である。

4半世紀にわたり、3校がバトンをつないで継承し、多様な市民ネットワークの応援を得ながら継続されてきた安房地域の国際支援活動は、全国的にみてもおそらく稀有な事例といえよう。卒業生らは一様に、活動が息長く続いてきことを驚き、引き継いでくれた後輩たちに感謝の気持ちを述べている。その多くは、今は子を持つ母親であり、なかには、母子2代で活動に参加している者もいる。現役の安房西高校JRC部員は、「自分が生まれる前から続いている活動を誇りに思う」「末永く活動を引き継いでいきたい」と決意を示す。先輩たちの姿を見て、そして活動を通して、学び感じ取ることは人それぞれである。

教育は、いつ成果が見えるかわからない「投資」といえるかもしれない。人が成長するのを3年、4年という単位で見るのは短すぎる。何かを学んでから10年後、20年後にようやく理解できることもあるだろう。この活動・交流は、安房の高校生やウガンダの子どもたちをどのように成長させたのだろうか。活動を見守り、応援し続けてきた先生方や市民もまた、どのような想いを抱いているだろうか。これらを検証していくことも、活動の教育的・歴史的意義を示すことになるのではないかと考えられる。

まちづくりはひとづくりといわれる。自らの行動が持続可能な未来につながっていくように、一人ひとりの変革が、地域社会に変革をもたらし、世界に変革をもたらすことを自覚しながら、この活動が永続するようサポートをしていきたい。


【注1】具体的な授業実践の内容については、次を参照されたい。愛沢伸雄「『噫従軍慰安婦』の碑は平和を心に刻む」『子どもが主役になる社会科の授業』国土社(1994年)。愛沢伸雄「平和学習と地域の掘り起こし‐『かにた婦人の村』と従軍慰安婦問題‐」千葉県歴史教育者協議会『子どもがたのしくわかる社会科』(1992年)など。

【注2】10年間建物が使用されていないことを懸念したNPOフォーラムの呼びかけにより、市民有志による草刈りや掃除、話し合いが重ねられ、2017年秋に、安房高等女学校木造校舎を愛する会が発足した。「館山まるごと博物館」のまちづくり拠点として、永続的な有効活用ができるよう、会員を募って意見交換をしながら催事等の企画を検討している。

【注3】クラウドファンディングで購入した車は、孤児たちの送迎はもちろん、生活物資の運搬に大活躍していることを確認した。CUFIの活動地である四か所を新しい車で訪問した。「安房南洋裁学校」「キタリア小学校」「カウム・トレーニングセンター」「グル県メデ村」にて、子どもたちの教育・生活支援、農業指導、コミュニティの自立支援などの活動状況を見てきた。また、自分たちの生活を良くしていこうというビジョンを持って、自然栽培のコーヒー豆の栽培に取り組まれている実践的なコーヒー農園の視察をすることができた。

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