タイトル: | 絵画から読み解く館山まるごと博物館〜青木繁と倉田白羊 |
掲載日時: | %2015年%08月%17日(%PM) %23時%Aug分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=621 |
池田恵美子 (千葉県歴史教育者協議会安房支部)
『子どもが主役になる社会科』千葉県歴史教育者協議会
館山市最南端の布良(めら)は、房総開拓神・天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏を率いて上陸した地と『古語拾遺』に記された、神話のふるさとである。阿由戸の浜には女神山・男神山がそびえ、海の向こうには富士山や、伊豆大島・利島・新島などの島々が並ぶ。
1904年夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、友人の坂本繁二郎・森田恒友、恋人の福田たねとともに布良を訪れ、ひと月半にわたり小谷喜録宅に逗留して世話になった。もともと神話に造詣の深い青木は、漁村の神話や伝説、伝統的な生活文化や風習に触発され、精力的に海景や神話作品を描いた。なかでも『海の幸』は、日本で最初の重要文化財となり、多くの後進たちに影響を与え、布良は美術界の聖地と呼ばれている。
滞在の終わりごろ、青木は友人の梅野満雄に4枚の絵手紙を送っている。そこには、この地の素晴らしさが綿々と綴られ、40種もの魚貝名が記されて豊穣の海が称えられ、大作に取り組んでいる精神の昂揚がうかがえる。
古くからマグロ延縄漁発祥の地として栄えた布良は、明治期には隣接した相浜と合併し、富崎村と命名された。冬の危険なマグロ漁では、舟歌『安房節』で互いを励まし合ったが、海難事故が絶えなかった。亡くなった漁師の魂が赤い星になるという伝説が生まれ、冬、真南の水平線上に輝くカノープスは、全国で「布良星」と呼ばれている。
近年では、水産業の衰退と少子高齢化が深刻になっている。館山市立富崎小学校(2012年統廃合により休校)では地域の誇りを育むために、漁村文化を象徴する〝青木繁・安房節・アジのひらき〟の頭文字をとって、「3つの〝あ〟のふるさと学習」を実践してきた。
地域活性化を目ざした市民らも「3つの〝あ〟のまちづくり」に取り組むこととなり、2008年にはNPO法人安房文化遺産フォーラム(歴教協安房支部の法人会員)が事務局を担い、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」を発足した。市民の保存運動により、小谷家住宅は館山市有形文化財に指定され、「館山市ふるさと納税」制度のなかで「小谷家住宅の保存と活用に関する事業」の指定寄付が可能になった。現在は、全国の画家とともに保存基金を募りながら、2016年春の公開を目ざして修復に着手している。全国でも画期的な文化財保存運動だといわれる。
この経緯において安房支部では、小谷家当主や市民とともに、『海の幸』誕生の背景となる富崎地区の歴史について調査をすすめた。すると、美術史においても、水産史においても、日本近代史を読み解くカギとなる重要な出来事が次々と浮き彫りになってきた。
明治期の富崎村政は、アワビ漁を村営化して共有財産を蓄え、港湾整備や海難救助などの公共事業を行なっていた。とりわけ教育を重視し、小学校を作って近隣の子どもたちにも教科書を貸与するなど、先駆的な取り組みがあったという。
青木繁ら4人の滞在を世話した小谷喜録は、小学校卒業後に千葉や東京の私塾で和漢などを学び、25歳で富崎尋常小学校の「授業生」として教職を務めた。その後、村議や帝国水難救済会布良救難所の看守長やなどの多くの要職を歴任し、村政に貢献している。小谷家には、物理や商学など高等教育の専門教科書も大量に残っている。
次女の種子(青木滞在時10歳)は、1914年に千葉県女子師範学校を卒業し、東葛飾郡川間尋常小学校訓導に就任した。翌年病気で早逝しているが、教育熱心な家庭であったことが分かる。
ほかにも多くの感謝状や表彰状、著名人の書画などが見つかっている。なかでも特記すべきは、近代水産業を牽引した水産伝習所長・関沢明清からの書簡である。1890年に同所生徒が研修で世話になったお礼状であり、「日本重要水産動植物図」(日本初の魚貝図カラー印刷)が寄贈されている。
内村鑑三は、この研修に講師として随行していた。『内村鑑三全集』によると、このとき富崎村長の神田吉右衛門と出会い、語り合ったことが人生の転機になったと述懐している。神田は小谷とともに村政に改革をもたらした指導者である。奇しくも不敬事件の前年であった。
また、「布良連」と称する俳諧グループもあり、文化度の高い漁村であったことがうかがえる。こうした地域性に支えられ、重要文化財『海の幸』が誕生したのである。
男たちが担いでいるのはマグロではなく、サメである。後ろから4人目で、鑑賞者側を向いている白い顔は、同行した恋人の福田たねがモデルといわれる。海面の幅が広く見え、砂丘が高く盛り上がっているのは、波の強い阿由戸の浜の特徴である。前後の2〜3人ずつは焦点が合わないため、未完成作品だという説もあるが、所蔵者である石橋財団石橋美術館の森山秀子学芸課長は、「人類が海からやってきて海に還る神話を描いたのではないか」と説いている。
一方、小谷家に隣接する布良崎神社氏子の島田吉廣氏は、「漁師が隊列を組むことはなく、モリの矢尻を前に向けて歩くこともない。前方の人が前傾姿勢で全員の肩が一直線にそろっているのは、神輿を担いだ姿そのもの」と語る。
当時、布良崎神社の祭礼は8月1日に行われており、神輿を担いだまま日没の海に入る「御浜下り」の神事があったという。海から上がる時に着物がはだけ、灼けた肌と神輿が黄金色に輝く様子は、荘厳であったにちがいない。『海の幸』下絵とされるデッサンには、襦袢に姐さん被りの姿が描かれており、かつて男衆が女装で神輿を担いでいたという話とも一致する。
また、同寸大(683mm×1800mm)の複製画を立ててみると、小谷家の板戸と同じ高さになる。しかも作品の両端で不自然に色の異なる部分は、板戸の框(かまち)部分に合致する。青木は、キャンバスを板戸に貼りつけて、作品を描いたのではないかと考えられる。
さらに、長逗留の青木が大量のキャンバスを東京から持参したとは考えにくい。船主であった小谷家や長逗留で親しくなった船大工から、漁船の帆布あるいは神社の幟旗を分けてもらった可能性も推察される。
もう1点の重要文化財『わだつみのいろこの宮』は、海底で山幸彦が豊玉姫と出会う『古事記』のシーンを描いた神話作品である。
『青木繁全文集 假象の創造』(中央公論美術出版)によれば、布良で海女メガネを借りて海に潜った感動と、2年後に長崎で体験した器械式潜水がイメージソースになったという。
サイズは『海の幸』とほぼ同寸の縦位置で、足もとには海底なのに泉が湧き、海草(カツラ)の幹は樹木のように太い。滞在した小谷家の奥二間から眺めると、庭の向こうにトウジイ(マテバシイ)の木があり、幹のくねり具合が似ている。関東大震災前までは、その手前には小さな池もあったという。約40日間も毎日眺め続けた景色が心象風景として、作品に描かれたのかもしれない。
同じような印象で描かれた2作品である。よく見ると、1枚は伊豆大島が描かれ、もう1枚には利島・新島が描かれており、これは繋がったパノラマ画面であることが分かる。
しかも、作品のサイズが同じで、水平線の位置や岩の形も合致することから、もともと1枚の下絵として描かれたものを、後から切り分けたのではないかという仮説が生まれてきた。
前述の島田氏は色彩印刷技術者であり、それぞれの同寸大複製画を制作したところ、「『海景(布良の海)』は右下にサインが書かれ、作品全体にヒビ割れが見られるので、布良で完成させて丸めて持ち帰ったのではないか」と推察した。一方、『海』にはサインもヒビ割れもないので、布良では下絵だけ描き、東京で色づけをしたとも考えられる。
特徴的な茶色の岩はどこで描かれたのだろうか。地質図を見てみると、布良地域は「布良層」と呼ばれる250万年前の地層であるが、海岸線に1ヶ所だけ300万年前の「白浜層」という岩場がある。火山灰で鉄を多く含むため茶色であり、青木の作品と合致する地層である。館山は日本で一番隆起しているため、100年前は海上にあった「白浜層」が関東大震災の隆起を経て、今は陸地に繋がっていたのである。
布良訪問の翌年、青木は懐妊した恋人たねを伴い再来訪し、西岬村伊戸(館山市)の円光寺に寄寓した。ここで青木は、本堂の板戸4枚に焼き釘を使ってパノラマ海景を描いている。中央に大きくうねる太平洋の荒波と、右端には小さく富士山、左端には伊豆大島・利島などの島々が見える。
円光寺には、欄間から飛び出るような力強い龍と波の彫刻がある。よく見ると板戸焼絵の構図に酷似しており、青木のイメージソースになったのではないかと推察される。この作者は江戸期の安房三名工と称された、鴨川生まれの武志伊八郎信由。通称「波の伊八」と呼ばれ、波と龍を彫らせたら天下一と名を馳せた宮彫師である。葛飾北斎の富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』も波の伊八から影響を受けたという説もある。
左は青木繁が描いた絵画『繍斧』であり、右は青木繁の原画を版画家の山本鼎(かなえ)が木版画にし、蒲原有明の『春鳥集』の口絵に掲載された『繍斧』である。青木の原画も山本の版画も、画中に描かれた木の形が特徴的である。青木が滞在した小谷家の居室から見えるトウジイ(マテバシイ)の幹に似ている。
日本創作版画協会を設立して版画を普及した山本は、キリンビール商標の創作者としても知られる。1916年、フランス留学の帰途に経由したモスクワで見た児童画展に感動し、それまで模写中心であった日本の美術教育に、児童の感性で表現する自由画教育を導入しており、クレパスの考案者でもある。また、冬のロシアで農閑期に農民が木彫りなどを制作するのを見て、日本でも農民美術運動を広めていった人物でもある。
洋画家の倉田白羊(はくよう)は写生旅行中、布良に隣接した根本村(南房総市白浜町)の小谷英子と出会い結婚、1917年から館山に居住した。山本鼎の理念に賛同した倉田は、房州で児童自由画教育を奨励していった。自らも児童の指導にあたるとともに、自由画の採点基準が分からないという教師らに、絵を見る力と知識やデッサン力をつける研究会を行なった。館山で自由画展を開催した折には、山本も審査のため来房し、意見を交している。
千葉県師範学校付属小学校でも倉田の指導や研究会が行われ、県下に自由画教育が広まっていった。折しも同校では、後に自由ヶ丘学園を創設する手塚岸衛が「自由教育」を実践していた時期に重なることも注目すべき点である。
1921年には、安房美術会(現在は館山美術会)が創立されている。倉田が直接発足に関わったかどうかは確認されていないが、地域の芸術振興に貢献したといえるだろう。
翌年、山本が信州上田に日本農民美術研究所を開き、倉田は副所長に招聘された。房州の教師らは、引き続き倉田の指導を仰ぐため、児童画教育研究団「草山会」を組織する。移住後も倉田は時々房州を訪れ、美術教育に尽力したという。
佐倉市立美術館には、倉田の遺品として「房州児童画」と記された作品群が所蔵されており、そのなかに富崎尋常小学校児童(1927年3月卒業)の作品があることが確認できた。右の写真は大正期の同校授業風景であるが、壁面に児童画作品が展示されているのが分かる。
館山市立図書館に、倉田作品の『水門』が所蔵されている。これは、『三太物語』で知られる文学者で画家の青木茂(館山在住)の遺族が、懇意にしていた倉田作品を寄贈したものである。
写生地は、今も残る松林と大房岬の稜線から、館山市の湊川(平久里川)河口であると比定できた。背景の館山湾に浮かぶ帆船は、その帆型より日本初の洋式船「富崎丸」と考えられる。布良(富崎村)の船大工・豊崎政吉が造船した石油発動機付帆船は、従来船より大きいため富崎漁港には入港できず、館山湾に係留されていたという。
先述のように布良は先進的な漁村であり、小学校課題図書の『鬼が瀬物語』(岡崎ひでたか著・くもん出版)は、豊崎政吉をモデルに書かれた4部作である。
なお、倉田の義兄にあたる小谷源之助・仲治郎は、明治期に房州から米国モントレーに渡り、器械式潜水のアワビ漁を始めた先駆者である。仲治郎は水産伝習所の卒業生であり、帰国後は水産振興と水産教育に尽力している。
農商務省実業講習生としてイタリアでフレスコ画(塗りたての漆喰に描かれた壁画)やエッチングを学んだ寺崎武男は、日本の壁画・テンペラ・エッチング・水彩画・油絵など日本の美術史に多くの影響を与えた。山本鼎らと日本創作版画協会を設立した一人である。
先に館山に移住していた彫刻家の長沼守敬(もりよし)を師と仰ぎ来房するうち、自らも館山に定住。旧安房中学校(現安房高校)の美術講師として招かれ、海外仕込みの本格的な芸術指導で後進を育成した。
房総開拓神話に惹かれ、多くの壁画を描き、安房神社や下立松原神社などに奉納している。近年、布良崎神社からも、鳥居型に額装された巨大な奉納画『天富命の布良上陸の図』(120cm×210cm)が確認された。
茨城水戸生まれで軍人を志していた中村彝(つね)は、18歳で結核を病み、北条町湊(館山市)に転地療養在した。北条海岸で絵を描き、画家を志したという。青木繁の『海の幸』が発表された翌年のことである。
彝は1910年に再来訪し、布良で『海辺の村(白壁の家)』を描いている。写生地は、布良本郷の墓地とされていたが、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」の調査により、その定説が覆った。それは、青木が滞在した小谷家から徒歩3分、海が見渡せる高台の狭い路地だと判明したのである。白壁の蔵は、1930年代頃まであったという。海の向こうに見える陸地は、布良から続く平砂浦と洲崎の岬である。
その後、彝は新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光の支援を受け、中村屋サロンで活躍する。相馬夫妻はインドのボースやロシア革命の亡命者などを匿ったことでも知られ、中村屋サロンは国際交流の場となっていた。中村彝の代表作は重要文化財『エロシェンコ氏の像』であるが、エロシェンコは相馬夫妻に支援されたロシアの盲目詩人である。
奇しくも、相馬夫妻が新宿へ出店する際、前身の本郷中村屋を任されたパン職人の長束實は、昭和初期に独立し館山へ出店している。相馬夫妻から暖簾分けを認められ、館山中村屋の商号を得た。新宿中村屋の流れを受けて、インドカリーやロシアケーキが人気の老舗パン屋として、今も市民に親しまれている。館山駅前の本店2階喫茶室には、『海辺の村』の同寸大複製画が展示されている。
大正期に建てられた彝のアトリエは、再三の保存運動により、新宿区に寄贈されて修復を経て、新宿区立中村彝アトリエとして公開されている。生まれ故郷の水戸では、茨城県立美術館の敷地内に新築復元されたアトリエが公開され、隣接した文化センター前には絵筆を執る彝の巨大な銅像が建立されている。
多々羅義雄は、太平洋美術学校教授を経て太平洋画会代表となり、後に光陽会を設立している。佐賀生まれの多々羅は、16歳のとき、放浪中の青木繁に絵画指導を受けたという。
1922年、多々羅は『房州布良ヲ寫ス』を描いている。画家が敢えて「写す」と題した背景には、何か意図が感じられる。単に景色を写したというよりも、何かを写したと考えられないだろうか。改めて見てみると、中村彝の『海辺の村(白壁の家)』と同じ蔵だと気がつく。
同じ場所から左寄りの構図を描いているため、水平線上の陸地は伊豆半島の天城山と伊豆大島である。さらに、船の帆は同じ形であり、画中の洗濯物や腰をかがめた女性の姿などのディテールが酷似している。多々羅が彝を意識していたかどうか分からない。しかし2つの作品の写生地を特定できたことにより、当時の地形の変化など様々な情報を読み取ることができる。
多々羅は、同じ構図で印象の異なる作品を『房州の海』と題して描き、1916年の第10回文部省美術展覧会に出品している。『房州布良ヲ寫ス』は、『房州の海』のリメイクという意味かもしれない。いずれにしろ、相当思い入れの深い作品といえよう。
NPO法人安房文化遺産フォーラムは、戦争遺跡の教材化から始まり、四半世紀にわたる文化財保存運動を進めてきた。この間、館山海軍航空隊赤山地下壕跡は館山市指定史跡に、里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)は国史跡に、青木繁『海の幸』誕生の家・小谷家住宅は館山市指定文化財にと成果を実らせた。
私たちは多様な文化遺産を活かし、地域全体を「館山まるごと博物館」と見立てて、市民が主役のまちづくりを提唱している。点と点がつながって線となり、面としての広がりが見えてくる。文化財保存運動は、市民を巻き込んだまちづくり活動となり、地元ならではの美術解釈が生まれている。まさに、市民による地域のほり起こしである。特に今回の発表は、近代美術史と水産史と教育史がつながった事例であるが、安房支部の調査では、さらに戦争史や殖産興業史など様々なつながりに展開している。
たとえば、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」には、館山海軍砲術学校に在籍した者の作品がある。同校は布良の隣町にある。画学生にとって青木繁が『海の幸』を描いた布良は憧憬の地であり、非常に厳しい砲術学校の休暇に訪れ、ささやかな癒しと安らぎを得たかもしれない。
あるいは、青木繁が滞在した小谷家の先代は、漁船「海幸丸」が戦時中に軍の徴用船とされ、機雷にあたって戦死している。
「戦後70年」にあたる2015(平成27年)は、第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会を開催する。さらに調査を深め、「館山まるごと博物館」に磨きをかけていきたい。