タイトル: | 漁村が誇る3つの〝あ〟のまちづくり〜青木繁・安房節・アジの開き(ヘリテージまちづく |
掲載日時: | %2014年%03月%25日(%PM) %22時%Mar分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=602 |
『ヘリテージまちづくりのあゆみ』収録 ‥⇒印刷用PDF
2011(平成23)年、石橋財団石橋美術館、京都国立美術館、ブリヂストン美術館で半年にわたり、巡回の没後100年青木繁展が開催された。「よみがえる神話と芸術」をテーマに、総点数300点で39年ぶりの大回顧展だという。その美術講座の演題が「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた場所」であった。
1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、画友の坂本繁二郎・森田恒友、恋人の福田たねとともに、房州布良(館山市)へ写生旅行にやってきた。思わぬ長逗留になり、路銀がなくなった4人は、船主の小谷喜録宅へ居候し、ひと月半もの間無賃宿泊でお世話になっているという。婿養子の続く小谷家では、先々代ゆきが6歳のときに見聞した出来事が語り継がれている。「親からはお客さんの部屋に近づくなと言われていた。ある日、あまり静かなので何をしているのかなと思い、障子に穴をあけて覗いたら、女の人が裸で絵を描いてもらっていた」とのこと。
『海の幸』の画中で、一人鑑賞者側を向いている白い顔は、恋人のたねといわれている。東京文化財研究所の研究においても、完成後に時間を経て上から描き足したものであるという。たねは、その後も『女の顔』をはじめ多くの作品に登場するほどの運命の女性となる。
布良は神話のふるさとでもある。房総開拓神・天富命(あめのとみのみこと)が四国の阿波忌部氏を率いてやってきて上陸した地。青木が泳いだ阿由戸(アイド)の浜は、目の前に女神山・男神山がそびえる。滞在中、青木が友人梅野満雄に宛てた絵手紙を見ると、この地の景観や歴史文化を賛美し、豊かな海産物を40種も列挙し、その素晴らしさを4枚にわたって書き綴るほど精神の高揚が伺える。そして文末には、最後に「今は少々制作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いずれ東京に帰ってから御覧に入れる迄は黙して居よう」とあり、作品への自信をみなぎらせている。こうして誕生したのが、後に重要文化財となる『海の幸』である。
絵をよく見ると、左右の端に近い人物はピントが甘い。未完成だという説もあるがそうではないと、石橋財団石橋美術館の森山秀子学芸課長は語る。「神話好きの青木は多くの神話を描いている。『海の幸』も漁師の姿をしているが、これは海からやって来て海に還るという神話を描いている」という。
さらに、布良崎神社の神輿世話人の島田吉廣氏は、『海の幸』は布良崎神社の神輿がモチーフだという新説を唱えている。「歩いている人の肩の位置が揃っていて、前の方は前傾姿勢で、後方は直立しているのは、神輿を担ぐ男衆の姿そのもの。青木は7月中旬に布良に来て、祭りは8月1日。布良崎神社は小谷家のすぐ隣で、当主は氏子総代だったから、青木も担いだかもしれない。布良の神輿は大天皇と呼ばれ1トンある。男衆が女装束で担ぎ、そのまま夕日の海に入る御浜くだりの神事がある。濡れて着物がはだけ、褐色に灼けた男の肌は黄金色に輝く。まさに『海の幸』そのものだ」と語る。確かに、漁師が隊列を組んで歩くことはなく、銛の矢尻を前に向けることもないだろう。
一方、ブリヂストン美術館の貝塚健学芸員は、安房神社の神輿説を唱えている。布良崎神社の10日後には安房神社の祭礼があり、青木はどちらも見てはいるはずである。没後100年青木繁展に出展された個人所有の『海の幸』下絵デッサンには、姐さん被りに女装束の姿が描かれている。島田氏は「これが明治期の布良崎神社の男衆の様子だ。安房神社は一宮なので、正式な白装束しか担げない」という。
さらに、東京美術大学出身の彫刻家・船田正廣氏は、「『海の幸』を描いた目線の高さと波打ち際の様子を見ると、阿由戸の浜に間違いない。風と波が強いから浜に砂丘列が盛り上がっている様子が描かれている」という。
布良滞在中、青木は精力的に多くの作品を描いている。なかでも、石橋美術館所蔵の『海』とブリヂストン美術館所蔵の『海景(布良の海)』は、荒々しい黒潮の波と岩が印象的である。絵手紙で「好い処で僕等の海水浴場」といっているアイド(阿由戸)の浜から見て、真正面に伊豆大島、左に小さな正三角形の利島、平たい新島が並ぶ。よく見ると、この2つの作品はパノラマになっていることが分かる。
布良滞在中、海女メガネを借りて海に潜った感動と、2年後に長崎で体験した器械式潜水から、『わだつみのいろこの宮』が誕生したと書き残している。布良でも房州潜りと呼ばれる器械式潜水夫がいたので、憧れていたのかもしれない。さらによく見ると、山幸彦が海中におりて豊玉姫と出会う神話を描いているが、その足もとには池があり、海草の幹は樹木のように太い。小谷家で青木が滞在した奥二間の南窓から眺めると、庭の向こうに見えるトウジイの木があり、100年前にはその手前に池もあったという。40日間も見続けた印象が、『わだつみのいろこの宮』のモチーフになったと考えてみるもの一興である。
翌年、青木は再び、懐妊した身重のたねを伴い来房し、伊戸の円光寺に滞在する。このときは、本堂の板戸4枚に焼き釘で海の絵を描いている。現在は個人の所蔵になっているが、没後100年展に出展された。目の前に広がる太平洋の荒波、右の端には富士山、左方には伊豆大島、利島、新島らしき島影が見える。非常に力強いパノラマである。
後年、円光寺の本堂は建て直されているが、間取りは当時と同じだという。板戸がはまっていたでああろう位置の斜め上方の欄間に、存在感のある龍の彫刻がある。作者は安房鴨川生まれの宮彫師、武志伊八郎信由。波と龍を彫らせたら関東一と名を轟かせた、通称「波の伊八」である。この欄間彫刻もまた、板戸の焼き絵の構図に酷似している。
この後、たねの故郷・栃木県芳賀町で出産した子どもは『海の幸』から幸彦と名づけられるが、二人が婚姻することはなく、幸彦はたねの弟として入籍されている。これが長じて尺八奏者となり、『笛吹童子』で一世風靡した福田蘭童である。
スペインのガウディは、聖地モンセラット(のこぎり山)で啓示を受けて、その奇岩からインスピレーションが湧き、聖サグラダファミリア教会はじめ多くの不思議な建物を設計しているという。天才とはそういうものかもしれない。青木繁の没後50年建立の記念碑を設計した東京大学の生田勉教授もまた、『新建築』12号(1962年12月1日発行)に次のような文章を寄せている。
氏は、国立西洋美術館を設計したル・コルビジェなど欧米の現代建築を日本に紹介した第一人者であり、詩人の立原道造と東京帝国大学建築学科同期の友人である。余談だが、館山市立九重小学校の校舎は、生田氏の女婿である山下泉氏(多摩美術大学建築学部名誉教授)の設計であり、同大研究紀要第3号(1987年)に「大地に立って手をつなごう-館山市立九重小学校・九重幼稚園-」として紹介されている。不思議な縁である。
1962(昭和37)年、阿由戸の浜を見下ろす高台に、四角いアーチ型のモダンなモニュメントが建てられた。足もとの碑盤には、旧友である辻永(つじひさし)の筆により「青木繁海の幸ゆかりの地」と揮毫されている。碑文には、と建立趣意が刻まれている。
碑の隣接地には、前年、県営の館山ユースホステルが建設されている。布良出身の田村利男館山市長(当時)が地域活性化のために誘致した計画かもしれない。それに付随する観光振興のシンボルを模索し、奇しくも青木繁の没後50年であることもあり、顕彰碑を発案したと考えられる。
碑の建立にあたり市に予算はなく、青木の旧友らに呼びかけ、募金活動が始められている。発起人は、田村市長が代表となって、坂本繁二郎(文化勲章受章)、辻永(日展理事長)、富永惣一(国立西洋美術館長)、中沢弘光(文化功労賞受賞)、熊谷守一(画家)、金沢秀之助(画家)、石川寅治(日展監事)、山下新太郎(文化功労賞受賞)、河北倫明(国立美術館次長)、中村新一(芸術院会員)、鈴木千久馬(日展評議員)、嶋田繁(館山市議会議員)川名正義(千葉県公安委員・館山病院副院長)、穂坂与明(館山病院長)、赤穴博(千葉県婦人児童課長)、安田豊作(館山市立北条小学校長)、館山市布良漁業協同組合、野原肇、神田徳次、小谷庸、長谷川広治らが名を連ね、館山市役所内に事務局を設けている。この流れのなかで、設計は、館山ユースホステルと同じ東京大学の生田勉教授に依頼しているのである。
総工費約60万円のうち、約20万円は石橋財団からも支援を得ているようだ。また、当時の新聞には「現金の代わりに画家が描いてくれた絵を売り資金調達するため市長ら上京」と報じられており、市として力を入れた事業であったことが伺える。建立計画書や協力者への経過報告書を見ると、「碑は一つの芸術作品とも考えられますので、工事施工については万全の策を講じ、設計者の意図を充分にいかした碑を完成いたして戴く」「この碑を美術振興の一つの道標といたしたいと念願し、今後この管理に十分な努力をいたすべく所存でおります」「建立寄付の剰余金が生じたときは、おって組織予定の記念碑管理委員会基金として繰り入れさせていただきます」などとも記されている。
6月13日付の房日新聞には「福田蘭童から感謝のたより」という見出しで、とコメントが掲載されている。 福田たね『50年前の追憶』 栃木県芳賀町総合情報館像
その後、6月19日に田村市長は福田蘭童の自宅にたねを尋ねており、その談話メモが残されていた。
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10月1日の記念碑除幕式には母子二人で参列し、式典では蘭堂が遺族代表として挨拶している。この面談を通して思い出話を語ったたねは、その後『50年前の追想』の絵を数点描きあげている。
こうして、青木繁を愛し、布良を愛する人びとの尽力によって碑は完成をみたのだが、1998(平成10)年、記念碑は存続の危機にさらされることになった。1998(平成10)年8月13日付の房日新聞によると、とある。前述のように、市長が発起人代表で、県職員もその一人に入っており、同じ設計者に依頼する経緯のなかで建立しているのだが、土地貸借の契約が成立していないということらしい。その後、地元では「ゆかりの地に建立した碑をぜひ残してもらいたい」として、小谷家当主の小谷栄氏を代表として、吉田昌男(同地区連合区長会会長)、天野久雄(二斗田区長)、豊崎栄吉(神田町区長)、小宮剛志(本郷区長)、佐藤一郎(向区長)、長谷川広治(元記念碑発起人)、豊崎五三男(館山市社協地域福祉委員)、吉田清一(館山市文化財保護協会富崎支部長)、家守若吉(館山市文化財保護協会会員)、山口市彦(富崎地区公民館長)、小谷栄(富崎地区コミュニティ委員会会長)が捺印した要望書を市長や県議などに提出している。「文化的、歴史的価値も高く、存続の方向で国や県と話し合っていきたい」としていた同市が、正式に貸借契約を結び、賃料を払うことで取り壊しから免れ、現在に至っている。
それから5年を経て、水産業の衰退に伴い少子高齢過疎はさらに深刻さを増し、すでに富崎幼稚園が統廃合されて廃園となり、同小学校の統廃合も時間の問題となっていた。奇しくも2005年秋には、石橋財団ブリヂストン美術館では「青木繁《海の幸》100年」の企画展が開催されており、これを鑑賞に行った吉田連合区長会長と豊崎区長は、「せっかく記念碑を守ったが、地域ではその重要性があまり認識されておらず、草刈整備もままならない。このままでは地域そのものが疲弊してしまうので、記念碑を保存する会を設立して子どもたちに漁村の誇りを伝え、地域を活性化させたい。力を貸してほしい」とNPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラムと略)に協力の要請があった。二人の熱い想いを受け、地区住民に呼びかけを広げて、12月4日に「〝青木繁《海の幸》100年〟から布良・相浜を見つめる集い」を開催した。午前の見学会を兼ねたフィールドワークに約70人が参加し、午後からは富崎小学校体育館を会場としたシンポジウムに約100人が集まった。第一部は、前年に『海の幸』の調査研究を終えたばかりの東京文化財研究所の田中淳研究員をお招きし、その報告を兼ねた講演をお願いした。第二部では、児童による『安房節』演奏と青木繁の調べ学習の発表と、呼びかけ人らの座談会が行われた。登壇者は、愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)、小谷栄(小谷家当主)、豊崎栄吉(布良の船大工・神田区長)、船田正廣(館山美術会顧問・彫刻家)、山口栄彦(布良出身・エッセイスト)、吉田昌男(マグロ船機関長・連合区長会会長)であり、布良の漁師や船大工、美術家の立場からそれぞれ語る『海の幸』への想いや解釈は、聴く者の琴線にふれた。この場において、小谷氏は「古い家で壊そうと思っていたが、地域活性化の役に立つなら、当時のままの家を残していきたい」と発言し、小谷家住宅の保存運動へと発展する契機となった。
その後、市民向けや観光のウォーキングガイドをおこないながら、コミュニティ委員会や連合区長会との話し合いを重ねて、2007(平成19)年6月17日には「輝け富崎!コミュニティのつどい」を開催した。全国生涯学習まちづくり協会の福留強理事長の「創年と子ども」と題した講演と、「富崎地区から未来を描こう!」をテーマとしたまちづくりワークショップで約80人の参加者がグループディスカッションをおこない、保存運動とまちづくりへの機運を高めていった。
小谷家当主の発言を受け、住宅の保存を模索するなかで、その文化財的価値を専門家に調査してもらったところ、価値が認められるという報告書が作成された。それに基づき、小谷栄氏より館山市教育委員会へ「文化財指定申請書」を提出し、後方支援として、NPOフォーラムと同地区連合区長会とが連名で「小谷家住宅と記念碑の保存・活用に関する要望書」を館山市長と教育長に提出した。並行して、地元の役員や市内外の著名人、全国の画家・美術関係者らに呼びかけ、金丸謙一館山市長と石井達郎教育長とともに発起人に名を連ねて、2008(平成20)年9月28日、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(以下、青木保存会と略)を発足した。吉田昌男氏の急逝に伴い、会長:嶋田博信(連合区長会長)、副会長:村田猛(元連合区長会長)・天野努(相浜出身・安房歴史文化研究会会長)のもと、運営委員30名が役員となり、事務局はNPOフォーラムが付託を受け、活動が始まった。保存管理活動・地域振興活動・広報普及活動・募金会員拡大活動という4部会で、記念碑や小谷家住宅の草刈整備や会報の発行、漁村の伝統的な家庭料理「おらがごっつお(我が家のご馳走)」の料理教室やレシピ集発行など、多様な取り組みを実践している。
同年10月に小谷家住宅が館山市指定有形文化財となったが、調書には保存上の留意事項として「建物はほぼ良好に保存されているものの、次の箇所の修理が必要である。(1)正面本体・庇間鉄板を撤去して本来の軒廻りを表す、この際には庇屋根取り付き部及び本体部軒廻りの修理が必要となる。(2)正側面大壁、海鼠壁の補修・復原、(3)背面瓦屋根及び木部補修(緊急性あり)、(4)屋根桟瓦葺きの葺替え」と記載された。しかも、館山市文化財の保護に関する条例では「指定文化財の維持修理費は所有者負担」と謳われている。
折しも、青木繁を敬愛する画家の吉岡友次郎氏や女子美術大学の吉武研二教授らは、小谷家を後世に残せないかと考えていたようである。地元の動きに連動し、NPO法人青木繁「海の幸」会(大村智理事長。以下、海の幸会と略)を発足させた。記念碑同様、没後100年という節目に合わせ、全国の画家や美術関係者らが修復のための募金活動を始めようと立ち上がった2011(平成23)年、東日本大震災が起き、文化財保存の募金活動は自粛せざるを得なくなった。海の幸会では、チャリティ展覧会を開き、絵を販売して基金を創出することを発案し、同年より銀座と館山渚の博物館を会場に、青木繁「海の幸」オマージュ展を開催、以降毎年巡回展で成果を挙げている。
同年、青木保存会では文化庁の「文化遺産を活かした地域活性化と観光振興」事業の一環として、青木繁《海の幸》フォーラムを開催している。第一部はブリヂストン美術館の貝塚健学芸員の基調講演「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた場所」、第二部は《海の幸》井戸端会議として、小谷福哲(小谷家当主)、山口栄彦氏(布良出身、エッセイスト)、島田吉廣氏(布良崎神社神輿世話人・布良漁業協同組合長)、鈴木聡明氏(館山市観光協会副会長)、石橋鉄也氏(青木繁のひ孫)らが登壇した。石橋氏は、父がクレージーキャッツの石橋エータロー、その祖父が福田蘭童という血筋である。300人の千葉県南総文化ホール小ホールが満員になるほど、注目度の高さが感じられた。
青木保存会では、海の幸会とともに文化財修復基金を募るにあたり、非課税の寄付制度を整備するよう館山市への支援を働きかけてきた。2012(平成24)年4月、館山市ふるさと納税において「13.小谷家住宅の保存及び活用の支援に関する事業」を選択できるよう制度を整備し、税控除対象の寄付を可能にした。全国の画家と自治体とともに資金の確保に向けた動きが生まれている。これを機に、小谷家当主・青木保存会・海の幸会・館山市教育委員会生涯学習課は暫時、「四者協議会」として小谷家住宅の修復に向けた話し合いを重ねてきた。これらの熱意を受け、石橋財団らも800万円の支援が決定し、目標3,600万円のうち約半分の基金が集まった。いよいよ2014(平成26)年春から2ヶ年計画で修復工事にとりかかり、2016(平成28)年春の一般公開を目ざすこととなった。
この間、小谷家では、住宅の保存を英断した栄氏から福哲(ふくあき)氏へ当主が世代交代している。いずれも女婿であるが、福哲氏の定年退職に伴って青木保存会の活動に参加するようになった。これまで手つかずだった納戸や押し入れなどを整理してみると、次々と明治期の資料が出てきた。これをもとに、NPOフォーラムのメンバーとともに調査してみると、小谷家が地域で重要な役割を担っていた名士であったことが分かってきた。そればかりでなく、近代日本の水産業発展においても布良が果たした役割が大きかったことも明らかになってきた。
布良はマグロ延縄船の漁業基地としても古くから栄えていた。伊豆大島に向かう複雑な海域は「鬼が瀬(布良瀬)」と呼ばれ、豊かな漁礁であったが危険でもあり、特に冬の沖泊まり漁は大変厳しく水難事故が絶えなかった。冬の夜空に赤く輝くカノープスは通称「布良星」の名で知られ、亡くなった漁師の魂だといわれている。それほど危険な漁で、お互いを励まし合った舟歌が『安房節』である。
日本帝国水難救済会布良救難所の看守長であった小谷家当主の喜録は、救難事業の功績が顕著であると銀製賞標の名誉を表彰されている。海難による後家の家庭が多く、助け合うのが当たり前という風土の漁村であり、小学校教員や村政の役職をいくつも歴任するリーダーであったことを考えれば、4人の若者をひと月半もの間快く受け入れた背景が見えてくる。
日本で最初の水産教育をはじめた水産伝習所長の関澤明清から送られた1890(明治23)年の書簡が見つかり、小谷家の長押に掲示してある3枚の魚貝図が実習でお世話になったお礼として贈呈された『日本重要水産動植物之図』であることも判明した。小谷喜録とともに村政に携わっていた神田吉右衛門は、アワビ漁を村営とし、共有財産で学校をつくったり公共事業をおこなったりしているが、そればかりでない。水産伝習所教師として実習に同行してきた内村鑑三は、自著のなかで「余が聖書研究に従事するに至りし由来」として、神田との出会いが人生の転機になったと記している。これらの調査研究については、小谷福哲氏の報告に詳細を委ねるが、江戸期のものと思われる雛人形や高砂人形も、60年ぶりに日の目を浴びたことも特筆に値する文化財である。発見された資料は、枚挙にいとまがない。
先の福田たねの証言では、「おじいさんの亡くなった直後のようだった。13,4歳くらいの女の子があって、家族4人」を検証してみたい。先代の治助は1902(明治35)年に亡くなっており、符合する。「13,4歳くらいの女の子」とあるが、前述の「ゆき」は1898(明治31)年生まれであり、歳が合わない。そこで小谷家当主に尋ねてみたら、ゆきの姉がいて21歳で亡くなっており、名前は「種子」だという。福田たねは、その少女が自分と同じ名であることを知らなかったのであろう。1894(明治27)年生まれの種子は、当時10歳ということになるが大人びていたのかもしれない。ちなみに、種子は千葉女子師範学校を卒業し、千葉県東葛飾郡川間尋常小学校教諭として着任するが、1915(大正4)年に急逝している。父・喜録も、富崎尋常小学校で授業生(教員)であった時期もあり、小谷家からは師範教育のための教科書などが多数見つかっており、非常に教育熱心で文化度の高い家庭であったことが判明した。 また、記念碑建立の発起人である田村市長は自らも布良出身の医師であり、青木を紹介した「田村医師」は市長の親か祖父である可能性も考えられる。福田たねの証言メモとともに見つかった数々の資料は、たいへん貴重な証言である。
アワビ漁の収益を村の共有財産にして、明治の先人たちが創設していた小学校が、2012(平成24)年、少子化のため統廃合により閉校となってしまった。児童の誇りを育むための「3つの〝あ〟のふるさと学習〜青木繁・安房節・アジの開き」は統合された神戸小学校に引き継がれ、息長く実践されている。青木保存会でも同様に継承し、「漁村が誇る3つの〝あ〟のまちづくり」を活動の理念としている。青木繁の〝あ〟は芸術・文化、安房節の〝あ〟は漁村の歴史文化、アジの開きの〝あ〟は食文化や生活文化を象徴とし、多様な文化遺産を活かした地域活性化に取り組んでいる。
18歳で天涯孤独となり結核を病んだ中村彝(つね)は、1905(明治38)年、北条町湊(館山市)に転地療養で滞在、海でスケッチをして画家を志した。《海の幸》から5年後の1910(明治43)年、布良で描いたのが《海辺の村(白壁の家)》‐東京国立博物館蔵‐である。それまで写生地は布良本郷の墓地とされていたが、青木保存会の調査によって誤りであったことが判明した。小谷家から徒歩5分、海が見渡せる高台の狭い路地であり、白壁の蔵は1930年代半ば(昭和10年頃)まで存在していたことが分かった。海の向こうの陸地は、平砂浦から続く洲崎の岬である。その後、彝は新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光の支援を受け、中村屋サロンで活躍する。奇しくも、前身の本郷中村屋から新宿へ出店する際、本郷店を任されたパン職人の長束實は、昭和初期に独立し館山へ出店している。相馬夫妻から暖簾分けを認められ、館山中村屋の商号を得る。新宿中村屋の流れを受けて、インドカリーやロシアケーキが人気の老舗パン屋として、今も市民に親しまれている。中村屋つながりという縁もあり、《海辺の村(白壁の家)》の同寸大複製画を制作し、館山駅前の本店2階喫茶室に常設している。店主は代々美術愛好家であり、伊東深水や向井潤吉など著名な画家の作品を多く所蔵し、季節ごとに展示を入れ替える「まちかどミニ美術館」でもある。
多々羅義雄は16歳のとき、亡くなる前年の青木繁に絵画指導を受けたという。1922(大正11)年、《房州布良を写す》‐千葉市立美術館蔵-を描いているが、わざわざ「写す」とタイトルに入れたのは、何か意味があるのだろうか。そうして見てみると、中村彝の《海辺の村(白壁の家)》と同じ蔵だと気づいた。同じ位置から構図を左寄りの向きに描いているため、水平線上の陸地は伊豆半島の天城山と伊豆大島である。さらに、船の帆は同じ型であり、画中の洗濯物や腰をかがめた女性の姿などが酷似している。多々羅が彝を意識していたかどうか分からないが、同じ写生地だと比定できたことにより、当時の地形の変化など様々な情報が読み取れる。美術作品も面白い歴史的資料といえる。
倉田白羊は、写生旅行先の根本村(南房総市)で出会った小谷英子に恋をして、1910(明治43)年に結婚、館山に居を構えている。根本は布良の隣村であり、児童自由画教育を実践した白羊は富崎尋常小学校でも絵画指導していることが分かってきた。後に山本鼎(かなえ)が長野県上田市に開く農民美術研究所の副所長に招聘されている。『三太物語』で知られるもう一人の青木茂は、文学者であり画家でもある。1911(大正10)年の館山美術会発足にも関わっており、没後、遺族から館山市立図書館に多くの作品やスケッチブックが寄贈されている。その中に、友人である倉田白羊から譲られた『水門』という作品もある。青木保存会の調査により、今も残る松林とその奥に見える山影が大房岬であることが分かり、写生地は館山市の湊川(平久里川)河口であると比定できた。白羊の義兄は、根本から米国モントレーに渡り器械式潜水のアワビ漁を始めた小谷源之助・仲治郎である。仲治郎は水産伝習所の卒業生で、関澤明清の指導を受けている。源之助の息子ユージンの岳父は、戦前からヨセミテ国立公園を描いて認められていた日本人画家の小圃千浦(おばたちうら)である。日米開戦後は日系人強制収容所に送致されるが、所内に美術学校を開いて人びとを勇気づけた。戦後はカリフォルニア大学バークレー校の名誉教授になった美術教育のパイオニアである。
東京美術学校で青木繁の3年後輩であった寺崎武男は、イタリアから帰国後、山本鼎らと日本創作板画協会を設立する。東京美術学校に彫塑科を開いた彫刻家の長沼守敬(もりよし)が1914(大正3)年から館山に移住しており、師を慕って館山を往復するうち気に入って、自らも震災後に本格移住。房総開拓神話に惹かれ、多くの壁画を描き、安房神社や下立松原神社などに奉納している。近年、布良崎神社からも、鳥居型に額装された縦120cm×横210cmの奉納画が見つかっている。旧安房中学(現安房高校)などで美術指導にあたり、伊東博子・井上忠蔵・松苗禮子らが今なお現役の画家として活躍している。
活性化の一助として、小谷家では同寸大の《海の幸》《わだつみのいろこの宮》を制作した。