タイトル: | 漁業者と共に歩んだマイワシ資源の研究〜イワシ予報官の研究人生 |
掲載日時: | %2015年%05月%18日(%PM) %22時%May分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=599 |
平本 紀久雄(千葉の海と漁業を考える会)
私が青年時代にイワシの生活研究にのめり込む直接の動機になった2つの事件が、なつかしく思い出されます。
1964(昭和39)年から漁海況予報事業がはじまってまもなく、銚子市外川漁協で漁業者相手に漁況予報を発表したときのことです。ある銚子の有力な船主から、「いまのあんたの説明では、どこでイワシが獲れるか分かんねえや」と云われてしまいました。あろうことか、会場から拍手が起こったのです。当時20代の私は頭が真っ白になり、悔しさで2,3日間飯が喉をとおりませんでした。この悔しさが、その後「どうしたら船頭たちが注目するような漁況予報を出せるようになるか」を考えるきっかけになりました。
「1970(昭和45)年11月25日になにが起こったか?」、ご存じですか。作家の三島由紀夫が東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地で天皇親政の革命を叫んで、自決した日です。また、私がイワシの漁況予報の方法論を固めた出発の日でもありました。
その日私は、水戸で東海区漁海況予報会議のシンポジウムに出席していました。共同研究をしていた茨城水試の堀さんが、マイワシの質的変化に基づいて集合様式について説明したところ、当時東海区水研数理統計部長だった土井長之さんが、「イワシは1,2日も餌にありつけなければ、すぐに痩せてしまう。肥満度の変化なんて当てにならない」というのです。そこで、堀さんと共同戦線をはって、土井さんにかみつき、興奮さめやらぬままにロビーに出たところ、三島の生首がテレビ画面に映っていたのです。
私は生物の基本は、「種」にあると考えています。種が違えば姿かたちが違うばかりでなく、生活の仕方が違ってきます。つまり、マイワシならマイワシのみがもつ独特な生活様式をもっているはずです。しかし、私たちは「種社会」そのものに目で触れ、実感することはできません。
私たちがふつう見ることができるのは、「個体」であり、「群れ」です。種には生態学的に、個体から種まで、「個体→群れ→魚群→回遊群→系統群(生活集団)→種個体群」といった、いくつかの段階があると云われています。
イワシの行動や回遊をうながす衝動は何でしょうか? 第一に考えられるのは餌を食うことです。魚は一生のあいだ、絶えず餌を求めて回遊しています。第二は子孫をのこすことでしょう。要するに、「食い気と色気」が基本になっていると考えたのです。
魚の季節回遊は、次の3つに分類されると思います。第一は越冬場や産卵場から生育場にむかう「索餌回遊」であり、第二は生育場から越冬場にむかう「越冬回遊」、第三は生育場から産卵場へむかう「産卵回遊」です。このように魚の回遊は、かならず生理状態の変化と結びついています。
イワシはふつう群れて生活しています。漁船が日々追いかけている集まりを、「群れ」と呼びます。1つの群れはふつう2,3日は同じ漁場にとどまります。その広がりは群れの大きさにもよりますが、数マイルから10数マイル(平均5マイル)と云われています。
次の「魚群」レベルになると、1つの魚群が漁場にとどまる時間は、水塊の入れ替わりの周期と一致し、数日から半月間と云われています。
やがて、1〜3ヶ月も月日がたつと、イワシは質的にも目に見えて変化してきます。この1〜3ヶ月単位で同一運動能力、同一生理状態でくくられる季節回遊をしめす単位を「回遊群」と呼びます。回遊群の集合場所(分布)は群れや魚群段階よりずっと安定しています。ですから、回遊群は毎年決まった季節に、決まった海域にやって来るのです。
この回遊群の説明を阪神タイガースファンの私は、甲子園名物ラッキーセブンに飛ばす風船にたとえます。
ここに1個の風船があるとします。空気の入っていない状態を1つの回遊群と定義すると、ふくらんだ状態の風船は別の回遊群だといえます。さらにふくらませてパンクさせてしまうと、また別の状態になってしまいます。つまり、空気の入っていない状態の風船を第1の回遊群、空気が入った風船を第2の回遊群、さらにパンク寸前の風船を第3の回遊群、パンクしてしまった風船を第4の回遊群というふうに考え、QRYデータから得られた単位面積あたり平均漁獲量や魚体測定から得られた体長・肥満度・脂肪量・食物量・オス・メス比などを用いて、質量両面から集合特性を整理して図示してみました。そうしたら、おぼろげだったマイワシの集合特性がはっきり見えてきました。これが私の漁況予報の隠し味です。
このような流儀で常磐〜房総沖に現れるイワシの測定を徹底的に測定してみました。片道160㎞もある房総半島の隅から隅まで車で駆け回り、マイワシだけでも年間最高100回以上、つまり3日に1回測っていたことになります。余談になりますが、現在私の運転免許証はゴールドカードですが、当時は毎年のように交通違反のキップを切られ、国や県の財政に寄与しました。
イワシの研究では産卵調査を除いて水産試験場の調査船が使えないのをテコに、当時青森から千葉県沖で操業している100ヶ統近くのまき網漁船が毎日定時に交信しているQRYという操業記録に頼ることにしました(当時は全国漁獲量の40%を占めていた。現在は3分の1に減っている)。QRYデータを知ったのは水試に勤めて10年ぐらいたったころ、当時「権兵衛伊東丸」の漁労長だった伊東平一郎さん(元銚子漁協組合長)が、「研究のお役に立てたら」といって、押入の中から秘蔵の資料をごっそり出してくれたことに始まります。10年たってやっと漁師に信用されるようになったというわけです。
よく大学や国立研究所の研究者から、「漁業情報にはごまかしや記載漏れがあるので科学的データではない」と云われます。しかし、私がQRYデータから算出し、処女作『私はイワシの予報官』に載せた海区別マイワシ資源量指数と三陸〜常磐沖のミンククジラの餌になっていたマイワシ量がピタリ一致し、当時鯨類研究所にいた笠松不二男さん(故人)をびっくりさせ、彼の論文や著書に引用されました。
魚体測定も工夫次第でおもしろい結果が出るものです。いまでは常識になっていますが、1970年代初めに「体脂肪と生殖腺熟度は反比例する」と発表したら、ある水試の方から「そんなの当たり前だ」と云われました。でも当時はそのことを示した論文は見あたらなかったのです。そこで、得意になって学位論文にも書いたら、残念なことにCaliCOFI(カリフォルニア共同漁業調査)のリーダーだったR・ラスカーさん(故人)が私よりも数年前に同じことを発表していたのです。科学の世界では二番煎じは鼻紙にもなりません。ただ、私の方がラスカーさんより進んでいたのは、「中羽イワシが産卵数ヶ月前にどの程度脂肪をたくわえるか否かで、ある群れは未成魚にとどまり、ある群れは成魚になるか」を説明できたことです。
柳田国男とならぶ宮本常一という民俗学者は旅する巨人と称されるように、「よく歩き、見て、書く」をモットーに、自分の足で地球を4周するほど日本国中を歩いて調査したと云われています。「学問や研究はあくまで民衆や庶民の生活を土台に築き上げるものだ」というのが彼の持論ですが、私が長年拘わっていた漁況予報も、まさにそういう作業ではなかったかと思います。
「いつ・どこで・どんな銘柄の魚が・どれくらい獲れるか」は、まき網のような生産性の高い漁業を安定して営むうえで欠かせない情報です。水試や水研の研究者は漁業者のこの要望に答えるために、「いつ・どこに・どんな魚が・どのように集合し、それはなぜか」を知らせなければならないと思います。水産資源の研究とは、「このような問いに答える科学的な資料をつくり、体系化していくプロセスではないか」と、私は考えています。
そこで、過去数10年にわたって行われてきた研究成果をマイワシの成長・発育・栄養・摂餌など生物学的特徴を整理し、数年間にわたって集合様式を分密度・体長・肥満度・成熟度など生物学的側面の総合的に表す「漁業海図」を、1〜3ヶ月単位の「回遊群」や1週間から10日単位の「魚群」レベルで地図に描いてみました。そこから、同じマイワシ成魚でも「産卵群」と「索餌南下群」では、集合場所・餌・反応・移動速度などがかなり異なることがわかり、しかも視覚によって容易に比較できるようになりました。当時はしばしば銚子や大原などの港で船頭たちにつかまり、地べたに「漁業海図」をひろげ車座になってにわか説明会を開いたのもよい思い出です。
漁業者の要望で漁況予報の研修会は、最低年に6,7回はやっていたと思います。うち半分は、銚子・波崎・外川の三浜まき網船頭会の研修会で、魚探を売り込む古野電気と競争だったと思います。茨城水試の久保さんといっしょにやったときなどは、漁業者が集まりすぎて、急遽銚子水産高校の講堂を借りて開いたことがありました。研修会での船頭たちとのやりとりは、「だれが生徒か、先生か」で、まるでメダカの学校です。
イワシを一匹も獲ったことにない私は、現在茨城県日立市から銚子市までの船頭OBたちで組織している「南部まき網親睦会」の会員です。しかも肩書きは元久慈浜漁業無線局の庄司局長とならんで顧問です。といっても、年1回、犬吠埼の霧笛を聞きながらやる一杯会に出席するだけという楽しい集まりに過ぎません。
もう一つ、私流の漁況予報の実践論をお話ししましょう。それは、教科書に毛沢東の『実践論』を用いたことです。お読みになった方も多いと思いますが、簡単に話すと、
「ものごとを実行に移すには、まず事象をよく観察し、その時点の認識に基づいて実践にうつす。結果がうまくいかなかったばあい、失敗した原因をしらべ、さらに認識を高める。そして、実践に移す。以前よりうまくいくようになる。このように、認識と実践のサイクルを繰り返すことによって認識が深まり、うまくいくようになる」。この流儀を漁況予報に応用することによって、だんだんとまき網船頭たちに信頼されるようになったと思います。
ただ、現場を離れたいま予報したら、これまでの信用が失墜してしまいますので、現在はもっぱら評論家に徹しております。
25年も現場一筋に歩いてきたものですから、「イワシの予報官」というネーミングが珍しかったせいかマスコミなどから注目されるようになりました。44歳のとき、船橋で開かれた「いわしフェスティバル」を見に行ったとき、知人の著書を編集中の草思社という出版社の編集者に会い、イワシの本を書くよう勧められました。あまり乗り気でなかったのですが、その後栽培漁業センターへ転出したので、イワシと縁切りのつもりで書いたのが前述の『私はイワシの予報官』で、51歳のときです。さらに、以前イバラガニモドキというたらばがに科のカニの取材で来たことがある中央公論社の方の勧めで書いたのが中公新書『イワシの自然誌』です。
お陰で、いままでにイワシの本を5冊も書いてしまいましたが、先日これまであちこちに頼まれて書いたエッセーがあるので出そうと思ったら、「自費出版なら出してもよい」と云われてしまいました。何事も「鉄は熱いうちに打て」ではありませんが、現役のときに書くべきですね。
イワシの論文や本を書いたことで、もっともうれしかったのは、当時養殖研究所におられた白石学さんが「私の学位論文の記述をヒントに性ホルモンを使ってマイワシを実験室で産卵させた」ことです。そのヒントとは、「マイワシは体脂肪が最高になる9月ごろから卵形成を開始し、それは9月までに食べた餌の量(体重の0.5%以上必要)に影響され、同じ餌の量でも飼育水温が高いと始まらない。さらに、餌は動物性の油が含んでいないとうまくいかない」。
つまり、マイワシがもっとも脂肪量をたくわえる夏の索餌期に水温の低い道東沖へ回遊し、そこでかい脚類のカラヌス・プルンクルスやツノナシオキアミのような大型動物プランクトンをたらふく食うことが翌年春に産卵する必要条件だということです。
マイワシの年別資源量を何で知ることができると思いますか? 産卵量、それとも漁獲量?
それは、いまでも私たちが明らかにした生後1年の未成魚の資源量指数です(この研究は現在、マイワシ研究のホームランと云われています)。つまり、冬に常磐南部沖から九十九里沖にあらわれまとまって漁獲される小羽イワシの漁獲量から計算された資源量指数にまさる確実なデータは未だにないようですね。もっとも日本海側では2歳魚にならないと資源量を把握することができないと云われています。
動物の生態、あるいは社会をしらべる方法は、まず個体を認識することです。今西錦司博士を中心にした京都大学グループは、餌付けによってニホンザル1匹1匹を識別して、その社会構造、ひいてはサルが芋洗いや温泉に入る過程など、文化的行動まで発見しました。
昨年秋、館山に住む鈴木晃さんが、『オランウータンの不思議社会』(岩波ジュニア新書)を書きました。彼は今西錦司・伊谷純一郎の両先生に師事し、長らくアフリカのタンザニアやウガンダで伊谷さんとチンパンジーを研究していました。鈴木さんはニホンザルの温泉入浴やチンパンジーの子殺しを最初に発見した方ですが、現地の動乱でアフリカを離れ、21年前から上司の反対を押し切って対象をカリマンタン(インドネシア領ボルネオ)でオランウータンの研究を始めました。彼は私と同い年で、フィールドワーク40年という強者です。彼のオランウータン研究も個体識別が原点です。
ところが、イワシの研究では個体識別は意味がありません。なぜなら、メダカの学校の歌のように「だれが生徒か先生か」分からないし、群れて暮らしているからです。ですから、きょうの研究集会のテーマでもあるリモートセンシングが、マイワシ研究でも今後大切だと考えています。
そこで4年前に、千葉水試の創立百周年記念講演で話した内容をちょっと紹介してみようと思います。
「水産試験場における今後の漁況予測の目標は、向こう数日間から10日といった「魚群」を対象とした短期予測にあると思います。10年、数10年といった長期予測は、どちらかというと長期にわたるグローバルなデータ集積が求められ、とても地方水試でやれる代物ではありません。
それなら、短期予測をするにはどういう調査を行うか? それには調査船調査が欠かせない。重ねて云いますが、調査船で1週間程度繰り返し群れの行動を追いかける必要があると思います。こういう調査は水試しかできません。それに事前に綿密な調査計画をたてる能力が問われます。さらに、数年にわたって時期別にきめ細かな調査を数年間繰り返しやってみなければなりません。それには調査船の運航を現在の漁労優先から調査優先に切り替えなければできない相談です。
秋の大羽イワシは最初に三陸沖や常磐北部沖に現れます。群れはどう動くでしょう? 北から南へ? いくら索餌南下群と名付けてもそうはいきません。どちらかというと最初にできた漁場から北へ戻るような動きをし、やがて消えていきます。次の群れがやってきます。また、同じような動きをします。やがて、最初に現れる漁場が南へ移っていきます。これが成魚・索餌南下群の南下回遊パターンです。これを漁師は「沖寄せもの」と呼んでいます。このカラクリは、ここにおられる漁業情報サービスセンターの為石さんが以前、調査船とリモートセンシング調査によって明らかにされました。
それでは、日を追って南下、あるいは北上する群れはないのか? あるにはあるが、むしろ少ないと思います。
マイワシでは豊漁時、夏の終わりに銚子沖から金華山沖まで沿岸域を北上していく「越夏群」とか、カタクチイワシでは冬南下してくる大型魚(ゴボウセグロ)でみられます。これを漁師は「浦まわりいわし」と呼んでいます。
1988(昭和63)年2月のことです。外房一帯でゴボウセグロの刺身を食べて60名以上の人が食中毒症状を訴え、病院に担ぎ込まれました。当時私は勝浦市にある県栽培漁業センターに勤めていたのですが、地元保健所長の要請で内密に調査したことがあります。カタクチイワシの回遊速度は人が歩く速さと同程度といわれますが、患者の発生が日を追って南へ移って行くではありませんか? 結果は明瞭です。原因はカタクチイワシに寄生していたアニサキス幼虫でした。アニサキスはもともと三陸沖に棲むオットセイやクジラなど海獣の寄生虫なのです。
このほか、漁師が「じぼいわし」と呼ぶ地付き群れがあるようですが、このような群れレベルまで具体化すると、いまのところ漁師たちの経験則に及ばないのです」
どうか、現役の皆さんの中に、群れの研究をやる人が現れたら、うれしいと思います。群れの行動が明らかになれば、学問的な進展は元より、必ずや現在よりもより具体的なレベルで資源管理ができる突破口になると思うからです。
かれこれ10年前になりますが、「次郎吉の大船頭」といったら銚子で知らない人がいないほど有名な鈴木正次さんの聞き書きを書いたことがあります。 彼によると、「魚探がなかった当時、彼ほどの名船頭でも、会心の漁は10日に一遍あったかどうかだそうです」。また、「戦後はイワシが北上して漁が切れると、秋には網船の1艘を棒受け網に仕立てて、南千島沖までサンマを獲りに出かけた」そうです。このように、戦後の銚子のまき網漁船は、年の大半はイワシを追い、秋にはサンマを追っていたのです」。
その点、現在の大中まき網漁船はマイワシなりマサバなり、漁獲対象が1つの卓越魚種に偏りすぎて、小回り利かなくなっているのではないか。わが国の食用資源のみで考えたばあい、1魚種20万㌧もあれば十分過ぎるくらいです。まき網の長期安定を考えるなら、魚種交替によってあらわれるすべての卓越種を漁獲できるような漁法に変えていく必要があるのではないか?
また、マイワシも10年以内は無理としても、いずれ豊漁期は必ずやってくる。そのさい、マイワシの新しい利用方法が開発されてなくてはならない。同じマイワシでも、戦前・戦後の豊漁期では価値がまるっきり違っていたからです。戦前イワシ油は戦争経済下とはいえ日本の化学工業を担っていた。一方、80年代のフィッシュミールはせいぜい家畜の餌が主で、戦前よりシェアの小さくなった同じ第1次産業のサイクル内にとどまっていたのではないか。
21世紀の豊漁期にはどんな利用があるか? いまから、必要とされる利用方法が開発されないことにはイワシは浮かばれない(私は、アルツハイマーなど薬用を考えているのですが)。
どうか、今後イワシが食用以外に各方面で必要とされるよういまから新しい製品開発など準備されるよう働きかけていただきたいと思っています。
研究者の人生は、4期に区切ることができるそうです。第1期は準備期、つまり学生時代。第2期は収穫期ともいえる現役時代。第3期は伝道期。つまり、現役時代に培った経験や体験を活かして総合的にものを見、いわばコンサルタントとして働くこと。第4期は瞑想の時、つまりあの世へ行く準備。
この区分でいけば現在私は、3期の伝道期に入っていると思います。本来なら何もしないでのんびり暮らしたいと思っていましたし、やらなきゃならない義務もないのですが、いろいろな方に引っ張り出されてこれまで県内数カ所で地域住民や漁業者とともに海岸侵食問題に首を突っ込まざるを得ませんでした。海岸問題は素人にも拘わらず、現役時代に培った海や漁業の知識が存外役立つことが分かってきました。
海岸問題は土木工事という公共工事が主で、県や市町村などお上に楯突くことが多いのですが、我々水産屋が魚や環境問題について勇気を持って発言することで、なるべく自然を壊さないように工事を変更させることができるのです。また、私自身住民と話し合い、学び合うことによって現役時代より視野が数段広くなった思いがいたしております。今後いつまで続けられるかどうか自信はありませんが、体力と気力が続く限りあと数年はがんばってみようと思っています。
* 2004年1月10日銚子市で開かれた水産海洋学会主催「水産海洋地域研究集会」の特別講演で話した内容です。