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タイトル:小谷仲治郎を偲ぶ
掲載日時:2006年03月20日(月曜日) 22時20分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=587

本日から新しく南房総市として始まります。その喜ばしい日に、こうして説明できますことを嬉しく思います。

また、先祖を偲ぶ春のお彼岸のなか、彼岸法要の席で先人の苦労と功績について紹介できますことは二重の喜びでもあります。御前様ありがとうございます。

さて来月22日は、小谷仲治郎さんが亡くなって63年目となります。63年前、昭和18(1943)年4月22日に仲治郎さんは亡くなりました。71歳でした。碁を打つのが好きで、そのときも長性寺の先代住職・高梨盛真(たかなし・せいしん)さんのところに碁を打ちにきてその帰りに、この階段の下で倒れたようです。遅くなっても帰らない仲治郎さんを探しにきた家の人が見つけたようです。

仲治郎さんは碧水(へきすい)という雅号を持つほどに碁が好きだったようです。

千田の神社の鳥居の前に神社の社号の石柱が建っていますが、その裏に仲治郎さんの雅号の碧水の文字が彫ってあります。その石柱のおもてに彫られている筆で書いた書は、仲治郎さんが書いたものです。

仲治郎さんの訃報の記事は、当時の新聞に仲治郎さんの写真入りで紹介されました。

安房郡水産会長でもあった仲治郎さんでしたので、水産会としての葬儀が4月27日午後1時から、七浦国民学校で行われました。当日は、千倉駅からバスの臨時便が出るほどの盛大な葬儀だったようです。

仲治郎さんの雅号「碧水」の碧(へき)という文字には、純粋という意味と緑という意味があります。緑の水という言葉からは、明るい日差しに照らされた明るい緑色の海が連想されます。白い砂浜と緑色の海は、カリフォルニアのモントレーの海そのものです。

明治40年の帰国以降、二度と再びモントレーに戻ることの無かった仲治郎さんですが、その雅号を見る限り、青春時代の10年間を過ごしたモントレーへの熱い思いを垣間見ることができると思います。

仲治郎さんは、明治5(1872)年7月19日に、白浜の根本村で小谷清三郎・たよの次男として生まれました。海産物商を営んでいたという両親の仕送りを受け、16歳頃今で言う高校1年生くらいですが、佐野英語学校に通っていました。

明治21(1888)年、今から118年前のことです。現在でさえ、日々の暮らしのなかで外国人と接する機会の少ないこのあたりのことです。なぜ、少年だった仲治郎さんが英語を学ぼうと思ったのか私なりに考えてみました。

明治21年からさかのぼること10年前、明治11(1878)年に、根本村の沖で、日本で初めて器械式潜水によるアワビ漁の実験が行われました。試験を行ったのは当時、横浜にいた増田万吉です。実験の結果は大成功でした。船の上からのホースにより、長時間海の底で作業のできる器械式潜水漁法は、それまでの素もぐりに比べ画期的な漁法でした。

その実験を行うときに何人かがお金を出し合って、増田万吉を根本に呼び寄せたのですが、その中の一人が森惣右ヱ門です。惣右ヱ門の弟が仲治郎さんの父の、小谷清三郎です。

増田万吉は、当時、横浜で外国人居留地の消防や衛生関係の仕事を行っていました。英語ができることから、器械式潜水具を使って、外国船の船底の掃除や修理も行っていました。明治13年(1880)には、東京港区で、明治天皇を前にして、器械式潜水法の実演を行うほどでした。器械式潜水具は当時としては、最新の器械だったのだと思われます。

その万吉は、自分で英語の辞書を作りましたし、明治16年(1883)には、明治政府の許可を受けて、千葉県人・鈴木与助以下37人を日本で初めてオーストラリアに派遣しました。オーストラリアで真珠貝を採るための派遣です。

自分自身英語が喋れて、外国の風物に触れる機会の多かった万吉ですから、根本に来たときに仲治郎さんと外国の珍しい話をしたことは、ありうることだったと思います。仲治郎さんは、万吉を通して、外国での活躍に夢や憧れを持ち英語の勉強をしようと思ったのではないかと思う次第です。

仲治郎さんは、明治23年(1890)2月に、大日本水産会水産伝習所に入所します。水産伝習所は、今の東京水産大学です。今のといっても、東京水産大学は平成15(2003)年10月1日に東京商船大学と統合して東京海洋大学に変わっています。入所したときの所長が、関沢明清(せきざわ・あけきよ)です。関沢を顕彰する顕彰碑は、館山市の北下台(ぼっけだい)に建っています。何を顕彰しているかといえば、日本人だけで初めて捕鯨を行い、館山に捕鯨会社を作り、漁業の振興に大いに貢献したのです。

関沢は、明治政府の農商務省で最初の水産係として、外国の博覧会に出かけることも多く、鮭の放流や改良あぐり網や缶詰製造など日本漁業にとっても先人です。千葉県とのかかわりも多く、鋸南の醍醐新兵衛と一緒に、捕鯨砲の改良実験を行ったり、九十九里でのあぐり網漁法の推進にも貢献しました。

仲治郎さんが水産伝習所を卒業したのが明治24年(1891)の9月。翌年の明治25年(1892)8月には、関沢は農商務省を辞めて館山で本格的に捕鯨を始めます。

そして、明治26年(1893)1月に根本から千田に来ました。へいみの平野みわさんと結婚したのです。

当時、日本漁業の最先端の水産伝習所を卒業しても、その卒業生を雇う就職先はなかったようです。関沢は、所長として卒業生の行く末を案じていました。

その頃、アメリカからあわびの専門家を派遣して欲しいという話しが、日本の農商務省に入ってきました。

カリフォルニア沖は寒流のため、素もぐりができません。また、アメリカ人はあわびを食べれるものとして見なかったため、あわびがたくさんいました。そのたくさんいるあわびを見て、干しあわびを作って儲けようと思い立ったのが、佐賀県出身の野田音三郎でした。

野田は自分で干しあわびを作ってみましたが、専門家ではないためうまく作れませんでした。そのおびただしい数のあわびを見て、何とか製品にしようとして日本に援助を求めたのです。

これも私の考えですが、アメリカから日本の農商務省に届いた援助要請は、すでに退官はしていましたが、関沢清明のところにも相談が行ったと思います。

当時、関沢は館山にいましたから、伝習所の卒業生の仲治郎さんに声をかけたものと思われます。

仲治郎さんにしてみれば、少年時代夢にみた外国に行くチャンスがやってきた思いだったでしょう。しかし、仲治郎さんは結婚していましたし、みわさんもお腹に赤ちゃんがいました。今でさえ、アメリカに行くには大変です。ましてや、当時、アメリカに行くことは生きて帰れないと思えるほど、遠い国でした。

仲治郎さんには、兄の源之助さんがいました。源之助さんは当時まだ独身でした。

まずは、野田音三郎との打合せのため、兄の源之助さんが先にアメリカに渡り、アメリカ側の様子を見ることにしたと思われます。源之助さんは明治30年(1897)9月に一人で渡米しました。

受入れの準備も整い、同年12月に、25歳だった仲治郎さんは、安田市之助、安田大助、山本林治の3人の男海士(おとこあま)を引率してアメリカに渡りました。

モントレー沖の海水温が低く、素潜りが無理だったため、翌年からは器械式潜水漁法にやり方を変えました。

その頃すでに始まっていた、カリフォルニアでの日系人排斥運動のなか、仲治郎さん、源之助さん達は現地のアメリカ人からの信頼を受け、あわび事業を進めていきました。

明治30年に、身重(みおも)のみわさんを日本に残してモントレーで働いていた仲治郎さんでしたが、10年目の明治40年に仲治郎さんは日本に帰ってきます。35歳のときです。その理由として、結婚していた仲治郎さんを日本に戻したいという残された家族や親戚の願い、また日本から潜水夫や漁師達を安定してモントレーに送りたいという仕事上の事情があったものと推測されます。

日本戻ってからの仲治郎さんは、41歳で千田漁業組合長となり、安房郡水産会長になるまでになります。その間、千田港の港内拡張・浚渫、ひじきの増殖にも貢献したという話しもあります。また、七浦小学校の学務委員を27年間務めました。他にも、氏子総代として千田の神社の再興にも貢献しました。

大正8年(1919)に千田を訪ねた新聞記者の岡本一平、彫刻家の岡本太郎の父ですが、その朝日新聞のなかで、仲治郎について、「辺鄙な田舎にしては流暢な英語を話す人物」と紹介しています。

昭和5年(1930)4月24日、ここ長性寺で、アメリカ人の共同経営者だった、アレンの追悼法要が行われました。その時に撮影された写真には、30人の大人が写っています。全員、モントレーでのあわび漁に関係する人たちです。

また、同年8月18日には、同じく長性寺で、7月1日・モントレーの病院で亡くなった兄・源之助の追悼法要が行われました。

平成6年(1994)年8月には、アメリカ・モントレーのポイントロボスで、小谷兄弟の功績を祝う式典が行われました。仲治郎さんたちが暮らしていた場所が「コダニビレッジ」(小谷村)として、正式に地名として命名されました。

仲治郎さんたちの、功績についてはまだまだわからないことがたくさんあります。皆さんの家に、残っている手紙や史料、言い伝えなど、この機会に教えていただければありがたいと存じます。

ご清聴ありがとうございました。

((2006.3.20)

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