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タイトル:地域に根ざす館山病院
掲載日時:2011年12月29日(木曜日) 23時25分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=556

地域に根ざす館山病院

愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表)


■はじめに

医療法人博道会館山病院が創立したのは、120年前の1891(明治24)年である。現在までの館山病院のあゆみのなかで、とりわけ創立から戦前までの資料は少なく、地域のなかで病院が果たしてきた役割を十分に紹介することができない。ただ、戦後から66年、とくに近年の出来事については証言者が健在であり、他の項目において証言や思い出として取り上げられているということで、戦後のあゆみは割愛した。

まず明治の創立期に関わり初代院長川名博夫を中心に、地域の人びとの願いと近代的な病院設置との関係を取り上げた。また博夫の妻とりが資生堂創業者福原有信の長女であったことの意味や、博夫の姉幸子が古市公威の妻であったことでの人脈の広がりをさぐった。さらに明治期の産業革命による結核の流行と、転地療養の病院としての役割を概観する。

そして、大正から昭和にかけての館山病院のあゆみをたどりながら、とくに1923(大正12)年の関東大震災での医療活動や病院再建を取り上げた。また、2代目院長となった穂坂与明を中心に転地療養(サナトリウム)の病院として動きを紹介する。最後に戦時下での出来事を医師会の代表にもなった副院長川名正義を中心にさぐり、とくに本土決戦体制のもとでの医療の姿や終戦直後のアメリカ占領軍との関わりを紹介して、地域に根ざして住民とともにあゆんでいた館山病院の姿を概観する。


■館山に近代的な医療施設を

館山病院が所在する館山地区は、館山市全面積の8.5%ではあるが、人口は全体の4分の1を超える約1万3千人近くを占めている。この地域は江戸初期に里見氏の本城があり、城下町として栄えた中心的な支配地である。だが、1614(慶長19)年に里見氏が改易されると、館山は幕府の直轄的な湊町となり旗本の石川氏や川口氏が治めた。18世紀後半になって幕府の中枢にいた稲葉氏が藩主となって館山藩のもとで明治を迎えた。「館山」という名称は、里見氏最後の本城であった館山城(現城山公園)のある小山が「館山」と呼ばれたからといわれる。ただ、小山周辺の地域全体も「館山」と呼んでいたので町名は「館山」となった。

当時、館山上町・館山中町・館山下町・新井浦・楠見浦・浜上須賀・岡上須賀・北下台・根古屋・上真倉・下真倉という11の集落があった。明治維新後の廃藩置県で館山藩は館山県となったものの木更津県に統合された。そして1873(明治6)年に千葉県が設置され、たびたび区制が改正されたが、1878(明治11)に郡役所が設置された際に、館山上町・館山中町・館山下町・新井浦・楠見浦・上須賀を併せて館山村と称した。1889(明治22)年に町村制が施行されると、館山・上真倉・下真倉は併せて館山町となった。なお、江戸期には沼村・宮城村・笠名村・大賀村と呼ばれた村々が明治期に併せて豊津村となり、1914(大正3)年には豊津村が館山町と合併し館山町となっている。

ところで、江戸期まで漢方が中心の医療は公の許可がなくてもやっていたが、明治に入り、1875(明治8)年に医師の免許制度が導入され、1884(明治17)年に内務省の医師免許規則がつくられ、全国的に統一された医師免許制度になった。かつての漢方から西洋医学へと医療体系は変わり、近代的な医療施設が誕生していった。同時に地域医療や専門医学の連携という視点からは、広域的な医師会という組織がつくられ、安房地域でも安房医師会の前身となる安房四郡部医会が、1887(明治20)年に発足している。

この間、元長尾藩士であった東誠一は蘭方医佐々木東洋に学んで医師となり、1877(明治10)年那古観音下の寺町に入院施設を持つ安房で最初の近代的な那古病院を開業している。この年小湊村の医師沼野玄昌が鴨川町のコレラ患者を往診した際に、伝染病対策のための防疫活動を誤解して、住民たちに殺害されるという痛ましい出来事がおこった。当時の史料には「コレラ病発生し、次で流行の兆あるや、漁民はある医師が患者の生胆を抜き取り、あるいは飲料に毒薬を投じて、患者を改造するものと妄信の結果、明治10年11月21日当時官命により派遣せられたる医師沼野玄昌を襲ひて難責殴打し、玄昌はその苦痛に堪へず、自ら加茂川に身を投じ逃れんとし、漁民のために竹槍を以て惨殺せらる」とある。

海外から初めてコレラが伝染してきたのが1822(文政5)年とされるが、治療の手立てもなくすぐ死亡したので「コロリ」と呼ばれ恐れられた。沼野医師事件がおこった1877(明治10)年から2年ほどコレラは猛威をふるっていたが、1879(明治12)に伝染病予防規則が公布され、消毒・遮断・隔離を中心にした伝染病予防策が、医師や警察官によっておこなわれた。この年に布良村でコレラ対策にあたっていた北条警察署の左右田豊巡査が感染して殉職している。

この頃、館山町の医療活動はどうであったのか。館山仲町には里見家の家臣と伝えられ鈴木又右衛門を初代とした医師の家系が7代目鈴木正立(抱山)となり、1898(明治31)年に没するまで続いた。6代目の鈴木正立(東海)は著名な坪井信道から蘭方医学を学ぶなど、蘭方と漢方を折衷した治療をしていたといわれる。柏崎には南部藩穀宿であった鈴木家(通称赤門)があり、養子に入ったのが府中村(現南房総市府中)で代々産婦人科の医師を出していた平松家の生まれの鈴木勝太郎であった。勝太郎は済生学舎(現日本医科大学)を卒業後、1888(明治21)年に鈴木医院を開業した。また、北条町では1880(明治13)年に北条郡役所の隣に公設病院で公立千葉病院の分院が開設された。しかし、経営が思わしくなく9年後には、中三原村の医師角田佳一が買い受け、個人医院の北条病院として引き継いでいる。実はこの角田佳一の従弟が館山病院初代院長となる川名博夫であり、同じ東京帝国大学医学部で学んだ。

全国的に交通網や産業構造の変革にともなって、海外からのコレラ感染ばかりではなく、赤痢や結核などの伝染病が広がっていた。館山町に療養にやってきた長州藩士の金近虎之丞は、館山町の公園であった北下台近くに汐湯と称する海水と真水につかる浴室施設を作って、1886(明治19)年には一般の人にも開放したと伝えられている。実は前年の1885(明治18)年に陸軍軍医総監でもあった松本良順が『海水浴法概説』を書き、海水浴がリューマチに良いという話をし、神奈川県大磯の海岸に海水浴場が開設された。政治家などが大磯に別荘をつくるきっかけは、治療としての海水浴法にあった。

高台である北下台は館山町の最初の公園であった。この場所は館山湾岸の中心部にあり桟橋も近く館山町の海岸は転地療養の地として申し分なかった。明治期の後半、東京の霊岸島からの船便が充実し5時間程で行き来できたので、もし転地療養に関わる病院が設置されれば、館山町にたくさんの人びとが訪れる可能性があった。

この時期、館山町の住民たちは町医者だけではなく、近隣の町にあった那古病院や北条病院のような近代的な医療施設を望んでいた。そのことは結果的に「館山病院」の設置を願う18名の発起人によって「設置連」がつくられ、住民運動がおこされたのである。この出来事がどのような経緯で始まったかなどは不明であるが、地域の人びとが設置を求めた名簿が見つかった。それは発起人たちが病院建設のために出資金を募ったもので、地域の住民32名が賛同し、出資金になる株数の下に署名し「設置連」関係者の名簿であった。

この「館山病院設置連名簿」は、1891(明治24)年4月に安房郡長吉田謹爾に提出され、病院設置の嘆願書となった。名簿の「緒言」には、次のように書かれている。

「夫レ社會ノ文明ニ進ムヤ繁忙多事又之レニ伴随セサルヲ得ス故ニ貴賎貧富ノ別ナク人ニ皆過度ノ悩(ママ)力ヲ使用シ為メニ疾病ニ陥ラシムルハ是レ又文明ノ一弊害ナリト雖モ方今醫術進歩ノ著シキ之レヲ救済スルノ通ナカルヘカラス士茲ニ我房国ノ如キ陸ニ電信ノ便アリ海ニ汽船ノ利アリ文明ノ利器略具備セリト云フヘシ而シテ吾人カ最モ貴重ナル生命ヲ委ヌヘキ完全ナル病院ノ設ケ未タアラサルハ生等カ切ニ遺憾トスルヤ久シ然ルニ今回醫学士川名博夫氏當舘山町ニ於テ開業シ獨国コツポ氏ノ発明ニ係ル肺労ノ療法ヲモ兼ネ普ニ治術ヲ施シ度ニ付テハ地方有志者諸君ノ賛助ヲ得病院設置ノ盡力ヲ乞ヘリ依テハ生等カ豫テノ宿望ヲ達スルノ好時期且当地ニ於テ病院ノ設置之レアル上ハ在京医學諸氏ヨリモ脚氣患者其他慢性症ノ患者ニシテ当地ノ風土ニ適スルモノハ漸ニ送院スヘキトノ趣ナリ請フ衛生ニ熱心ナル同志諸君ハ共ニ協賛アラン事ヲ其設置ニ関スル概要ハ左ニ掲ク 一 名称ハ館山病院ト称ス 一 位置ハ舘山町 地 一 病院設置ニ関スル諸費ヲ凡ハ百円トス 一 壱株ヲ金拾円トシ八十株ヲ募集スルモノトス 一 川名医學士又株主ノ一分タル事 一 株金ニ對シ相当ノ利潤ヲ付ス 一 病院開設ノ期ハ五、六月ノ頃トス」

この「緒言」の後には、18名の発起人名と署名捺印とともに、賛成者名とその人の出資金である株数が記載されている。病院設置の要望には「完全ナル病院ノ設ケ」と書かれているので、町医者ではない近代的な医療施設を望んでいた。さらに重要なのが「醫学士川名博夫氏當舘山町ニ於テ開業シ獨国コツポ氏ノ発明ニ係ル肺労ノ療法ヲモ兼ネ普ニ治術ヲ施シ度ニ付テハ地方有志者諸君ノ賛助ヲ得」たとし、1882(明治15)年にドイツの細菌学者コッホが結核菌を発見したことで、1891(明治24)年に結核に関わる感染予防と治療の最新予防液であるツベルクリン注射液が日本にもたらされ、医学士川名博夫によって結核治療が施されると判断したと思われる。この「緒言」にわざわざ「肺労ノ療法」という文言が入ったことをとくに注目したい。

また、発起人たちは文明が進展したことで医療技術が進歩し、館山町の住民にも貴賎貧富の別なく公平で平等に、誰でも恩恵を受けることが貴重なる生命を守っていくことになると訴えている。創立120年の館山病院を考える場合、この「緒言」の理念を忘れてはならないであろう。こうして病院設置の要望と建設資金の貸与を呼びかけた「設置連」の活動は、大きく実を結んだのある。


■川名博夫の業績と館山病院の役割

医学士川名博夫は上京後、外国語学校でドイツ語を学んだ後に東京帝国大学の予備門に入学して、東京帝国大学医科大学に進学している。同級生には後に、内科教授になった入沢達吉や外科教授の田代義徳がいた。東京帝国大学医科大学本科では、日本の近代医学の発展に大きく貢献したドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ博士の薫陶を受け、内科を中心に結核治療法を研究していたという。1889(明治22)年に卒業した博夫は、一時横須賀において医院を開業したものの、「館山病院設置連名簿」に記載されたように、館山町住民たちや安房郡長吉田謹爾からの要請を受け、1891(明治24)年に設置された館山病院初代院長となったのである。

当初、内科病院として開業していくが、外科・産婦人科・耳鼻科を増設して近代的な総合病院をめざし、さらに全国に先駆けて近代的なサナトリウム(結核療養病棟)をもつ病院を志向していた。結核治療のためには、ベルツ博士が提唱していた空気のきれいな温暖な地で過ごす大気安静療法や温泉療法、あるいは海水療法をおこなう転地療養が求められていた。

そして、その病院経営の後押しをしていったのが、博夫の妻とりである。とりは館山出身の資生堂創業者福原有信の長女であったため、福原有信や後継者信三を通じての財政界の人脈によって、転地療養の病院として広く知れ渡っていった。大正期に入って、地方の病院のなかでも全国的に知られた病院の一つになったのである。

この川名博夫初代院長の生涯について、甥にあたる3代目院長の川名正義が、館山病院誌「せいわ」創刊号(昭和56年2月10日)のなかで次のように語っている。

「川名博夫初代院長は元治元年六月十四日、富浦町汐入の名主川名近太郎・妻ヨネの次男として生まれた。(幼名を千代吉といった)長男正吉郎と汐入の満蔵寺の寺子屋に通い、読書、ソロバンを習う。十歳位より兄と北条町八幡の士族の家に通い、漢文と算術を習う。その後、満蔵寺の寺子屋でそれらを教えた。明治初年に、長女の幸子(男爵古市公威夫人)が女子高等師範学校に入学するに当たり、兄とともに上京し、東京外国語学校に入学、独逸語を学ぶ。その後、東京帝国大学予備門に入学し医科大学に進級。明治二十二年三月三十一日に卒業し内科を研究した。

弟の浩は帝国大学医科大学別科に学び、卒業後河本教授の許で眼科を学んだ。博夫は明治二十三年に横須賀に開業した。翌年、吉田謹爾郡長の招きにより、十月四日館山町に内科の病院を開業した。そのとき、北条町には従兄の角田佳一が北条病院を開業していた。当時、千葉県には学士開業医が三人しかいなかった。そのため、患者は日々に多くなり川井清を代診とした。弟浩も北条六軒町の角に館山病院の分院として開業した。次で館山病院に外科、婦人科、耳鼻科を加えた。

明治二十年、千葉県議会県令第三十一号により医会規則が発令され、県及び郡の医会を創置することになった。当時の医師会は千葉県医会と各郡部と称し、強制加入の制度であった。安房医師会は千葉県医会・安房平朝夷長狭部会といった。初代の会頭には保田の渋谷玄道、次で平久里の加藤惇造、次で角田佳一、最後の会頭は川名博夫であった。明治二十九年に政府の法律第四十二号郡廃置法により千葉県医師会・安房郡部医師会と改称した。明治三十九年には内務省令第三十二号医師会規則で国県郡に医師会が設けられた。安房郡医会は安房郡医師会となり第一回の会長に川名博夫がなった。同時に千葉県医師会の初代会長になり、その後三代医師会長にもなった。川名博夫は、昭和八年に院長を辞任し、昭和二十二年八月二十四日に八十二歳で亡くなった。」

ところで、汐入村(現南房総市豊岡)の川名家は、幕末より名主をつとめる家柄であり、博夫の祖父川名近右ヱ門は「多寿(ダシ)の花」という醤油の醸造業を営んでいた。長男であった近太郎も明治の廃藩置県後に富浦村が置かれたとき、醤油醸造業を経営しながら初代村長になったという。近太郎には五男三女の子がいて、博夫の兄である長男正吉郎が醤油醸造業を継ぐとともに、やはり後に10数年間富浦村長になった。

この正吉郎は博夫が医者になるための経済的な支援ばかりでなく、館山病院長になってからも地域社会での病院経営や医師会活動に、千葉県会議員や村長の立場から政治的な支援をしたと思われる。ただ、博夫自身も医政活動を推進し、とくに安房政友同志会長として政友会の立場から政治的な動きを明確にしていた。1902(明治35)年から1918(大正7)年まで安房郡部医会の初代会頭や、安房郡医師会発足の際の会長であり、辞任後は千葉県医師会の会長になっている。また、館山町議として地元で強い発言力をもっていた。さらに町村合併運動で大きな影響力があったので、一度だけ衆議院議員に立候補したものの200余票差で落選している。

館山には公立病院がないが、地域の基幹病院として館山病院の存在は大きく、放胆豪快な性格の川名博夫の行動や発言が地域の政治や医療活動を左右していた。川名一家がもっていた人脈は大きな政治的経済的なネットワークになり、そのなかでも2つの人脈が交差しながら、大きな力を生みだしていた。


■館山病院の発展の土台になったさまざまなネットワーク

33歳の川名博夫と25歳の福原とりが結婚したのは、1897(明治30)年頃と思われる。とりは日本初の洋風調剤薬局として東京・銀座に資生堂を創立した福原有信の長女である。有信は、1848(嘉永元)年に父有淋と母伊佐の四男として、安房神社にほど近い松岡村で出生している。祖父有斎が漢方医であったことで、幼少より医学や薬草を学び、17歳の時に医者をめざして江戸に出向き、当時名医として評判の織田研斎のもとで西洋薬学を学び、幕府医学所に入った。

明治維新の混乱が落ち着くと、東京大学医学部の前身である大学東校で学んだ後、海軍病院薬局長に就任している。有信は日本における医学と薬学との関係から医薬分業が必要であり、そのために製薬業や薬剤師としての実践が求められている時と判断して、25歳のときに兵部省の官吏を辞し資金を集めて資生堂を開業した。日本で最初に医薬分業を提唱し、そして実践したのであった。

1884(明治17)に官営の大日本製薬会社を設立するとともに、1878(明治11)年には『けはへ薬 蒼生膏』や健胃強壮『ペプシネ飴』などの製造販売に成功して、取次店を全国に拡大していった。また、日本最初の練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売し、一般に焼き塩や房州白土に香料を混ぜたものを歯磨粉として売っていたが、これは薬剤を入れて練った状態にして、歯石や口臭除去の効能をもたせたことで評判をとった。

海軍兵士に脚気が多いのは、主食にあるとした海軍軍医総監高木兼寛の学説に基づいて、本邦初のビタミン剤的な特効新薬『脚気丸』を開発し、資生堂は一段と注目されたのである。高木兼寛は、今の東京慈恵会医科大学と東京慈恵会病院を創設した人物であるが、有信は病院の薬局経営をすべて任され、大病院において本格的な医薬分業をはじめて実践することとなった。

温厚篤実な人柄で医薬学界を中心に人脈を形成して、後に生命保険会社を設立するなど財界や政府における功績は高い。資生堂が薬学的な手法で化粧品を製造販売したのは、1897(明治30)年頃という。従来の調剤薬局から化粧品工業へと事業転換を図っていき、後継者である三男信三とともに、洋風的な化粧品を普及させて、風俗文化史のなかに一石を投じていった。

福原有信には六男四女の子がいたが、なぜ長女とりが館山の川名博夫のもとに嫁ぐことになったのか。有信が故郷の館山にこだわったのであろうか。だが25歳になった娘とりの意志を無視することはなかった。そこで推察されることの一つが、3歳下の長男信一が札幌農学校時代に結核に冒され、後に苦しみながら44歳で亡くなった事実がある。姉のとりにとって、22歳であった弟信一が不治の病とはいえ、効果的な治療がないまま、失意の毎日を送っていることを憂いていた。当時、ドイツのコッホが結核菌を発見したことで、結核治療の最新予防液ツベルクリン注射液が1891(明治24)年に日本の医科大学に到着し、資生堂薬局もこの注射液を入手していたという。

恩師ベルツ博士の提唱する結核治療法を実践する医師が25歳のとりの見合い相手となり、弟信一の結核治療と重なって33歳の病院長博夫に対して関心を持ったのではないか。館山病院がおこなう大気安静療法による治療法は、休養をとって高タンパクと高カロリーの食物摂取で抵抗力をつけ、さらに日光の紫外線を多く浴びて結核菌が暴れ出すのを防ぐ方法であった。つまり転地療養は根気のいる治療方法だったが、姉とりは弟信一にそのような治療の機会をつくろうと思ったかもしれない。

福原有信は、医者であった博夫と娘とりが結婚し、夫妻としての繋がりが生まれた故郷館山の地に目を注ぐことになる。なお、博夫・とり夫妻には二男三女の子があり、三女露子が東京帝国大学医学部内科講師であった穂坂与明と結婚し館山病院副院長を経て2代目院長となった。そして、穂坂与明・露子夫妻には二男三女の子あり、長男博明が東京大学医学部卒業後同大内科に入局し、その後館山病院副院長に就任し、1983(昭和58)年には第4代院長に就任している。

館山病院設置では大きな役割を果たした安房郡長吉田謹爾は、地域振興を考え郡長職を辞し安房銀行を設立している。そのとき福原有信は安房銀行設立発起人のひとりとして名を連ねている。また、水産業に活路を見出そうという人物に関沢明清がいた。渋沢栄一は、あらゆる産業で企業を設立し投資もしていたが、水産業の分野では内房の勝山で捕鯨業を営んでいた醍醐新兵衛や農商務省の官吏であった関沢明清らが設立した大日本水産会社へ投資している。福原有信の四女美枝が、渋沢栄一の次男武之助に嫁ぐことで両家に縁戚関係が生まれ、また有信の娘とりの夫博夫の姉幸子が嫁いでいた古市公威と渋沢栄一は、土木事業をはじめ日本工学会関係で結びついており、幅広い人脈が館山病院に関わっていた。

大きな力を生み出していく、もう一つの人脈が日本土木行政の権威古市公威を中心にした流れである。博夫の5歳上の姉幸子は1860(万延元)年に生まれ、1875(明治8)に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)の第1回生として入学し、卒業後には元姫路藩士であった古市公威(1854(安政元)年生)に嫁いだ。古市公威という人物は、第1回のフランス留学生として土木工学を学び、帰国後は1890(明治23)年に東京帝国大学工学科大学教授となり、後に1906(明治39)年に統監府鉄道管理局長官を経て、男爵となり枢密院顧問官になった。

幸子の兄正吉郎は、房総沿岸に敷設する鉄道の内房線開設に際して、古市公威の義兄である立場を大いに利用している。古市の口添えを得て後藤新平を動かし、内房線に富浦駅の予定はなかったが、正吉郎の働きかけによって、1918(大正7)年富浦駅が開業し、村経済が発展するきっかけとなった。一方、小学校教育にも力を入れ、教育環境を整備充実し、1910(明治43)年には千葉県下トップの小学校に育成し、文部大臣表彰を受け富浦教育の黄金時代をつくったといわれる。

教育に強い関心をもっていた正吉郎は、九男四女の13人の子に恵まれたものの、そのうち長男・三男・四男・七男は安房中学卒業後、結核をはじめ病により若くして亡くなっている。五男正義は安房中卒業後、岡山の第六高等学校を経て、医師をめざし千葉医科大学に入学し、外科学を学び卒業した。そして、館山病院の副院長外科主任として勤務しながら、学位論文は「肺結核外科」であった。2代目院長穂坂与明の後を継いで、1975(昭和50)年には病院長に就任している。


■日本の医療事情と転地療養の館山病院

「殖産興業」のスローガンのもと、上から近代化の波が強力に押し進められていった日本の明治期の社会では、劣悪な衛生環境のもとで十分な栄養も取らない長時間労働を蔓延っていた。そこに労咳ともいわれていた結核を生みだし、不治の病とか、亡国病といわれていた。1889(明治22)年、日本では最初の結核療養所が設立された。当時結核は、肺炎や気管支炎、胃腸炎、脳血管疾患などと並んで、日本での主要な死因であった。

死因順位でみると1899〜1913年は第2位、1914〜34年は第3位、1935〜43年は1939年を除いて、ずっと第1位であった。死亡数全体の構成比でみると明治、大正を通じて、死亡原因のおおよそ10%を占めていた結核は、昭和に入るとしだいに比率をまして、第二次世界大戦中には14%にまで達していた。

日本の近代医学成立期とされる19世紀末を見ると、1897(明治37)年には志賀潔が赤痢菌を発見するなど、伝染病の病因が判明され予防が可能となり、診断から治療という現代医学の方法論が確立していく時期であった。1891(明治24)年に創立された館山病院は、結核で苦しむ患者のためにサナトリウム(結核療養病棟)をもつ病院を志向していた。

館山は観光の面から見ても、東京・館山間が汽船でわずか5時間となり、物資輸送はもちろん、海水浴や避暑避寒の地に多数の旅客が運ばれてきた。1892(明治25)年に旅館木村屋が独自に『房州避暑案内』を発行するなど、観光地として必要な情報を紹介している。東京からの自由な旅行客が急増し、後に東京湾内の汽船航路は「房州通い」といわれようになった。東京の霊岸島を出航して横浜・横須賀・浦賀などに寄港しながら、大勢の観光客が気軽に那古や館山に出向いてきた。1897(明治30)年頃には、館山湾にある各桟橋付近の宿泊施設が21軒を数え、大変な賑わいとなっていった。

この頃の海外の医学雑誌には転地療養が紹介され、日本でも取り入れられようとした治療法であり、川名博夫のもとへは東京から近いこともあり、結核治療を求める患者が増えていった。ただ、結核には特効薬がなく効果的な治療方法もないが、温暖な気候のもとで海岸浴などをしながら、十分な休養を取って栄養価のある食事をすることが延命になると判断されていた。館山の海岸は、東京からも海路で便利な場所であり、海岸浴に良く食事の素材なども豊富な地であり、館山病院などの施設や別荘地があったので転地療養の地として相応しかった。1908(明治41)年、多田屋書店が発行した『房総紳士録』には館山病院が「今般病室増築諸般ノ設備へ轉地療養患者入院ノ需ニ應ズ」という広告を掲載している。療養中の食事は、高価であっても栄養価のあるものが求められ、当時薦められたのが房州の果物や牛乳であった。この点でビワ・モモ・ナシなどの果樹生産が盛んにおこなわれ、日本の酪農の先駆けとなった嶺岡牧があり、館山でも酪農が盛んであった。外国人の滞在が増えたり洋風の食事が一般にも浸透し、東京を中心に牛乳の需要が急増していた。

気候が温暖で館山湾を望む海での海岸浴や日光浴から、波静かな鏡ヶ浦での海水浴など、都会の人びとに田舎暮らしも良いと映り、療養や避寒避暑のために永住するものもいた。1897(明治30)年頃から館山の海岸には、東京方面から文人墨客が人目を避けて訪れるようになった。小説の執筆や静養と称して特定の旅館を定宿にするものもいた。


■館山病院の発展と穂坂与明

川名博夫院長は、築き上げてきた病院をどのように維持発展させていくかを考え、病院の後継者として相応しい医者を娘露子の婿にと思っていた。そこで東京帝大の同級生である田代義徳教授や入江達吉教授に後輩のなかで、適当な人物がいないかを依頼した。大正に入った1921(大正10)年4月、館山病院初代院長川名博夫の娘露子18歳と結婚したのは、32歳の東京帝国大学医学部内科講師の医学博士穂坂与明であった。すぐに館山病院副院長に就任した。300余名が祝宴に集った結婚式では、医学部教授の田代義徳博士夫妻が媒酌人をつとめ、出席者は医学部の諸教授をはじめ先輩友人や資生堂福原家や渋沢家ゆかりの人びとであった。

この年10月に渋沢栄一を団長とする日本財界代表3名の渡米団が横浜港から出帆した。一行のなかには渋沢の侍医である穂坂与明がいた。安房郡では初めての医学博士であった穂坂副院長は、渋沢の侍医でもあるということで館山病院の評判は一段と高まった。

医学者である穂坂与明が、この年に着手した研究があった。それは東京と房州の気候に関する種々の要因を比較調査し、両地の気候の特徴を把握したうえで医学的な研究をスタートさせた。後に医学雑誌「治療及び処方」への掲載となり、1935(昭和10)年に川流堂小林又七本店から出版された『房州風土記』となった。この本には医学的に興味深い内容が取り上げられ、研究結果として「房州の氣候は東京及びその附近の避暑避寒地に比して遥かに優秀であることを科學的に證明することが出來た」とし、とくに結核患者と気候との関係を調査した結果、房州の外気は細菌量を比較しても空気が清浄であり、結核の予防上重大な役目を果たしていると結論づけ、転地療養の地として房州が相応しい場所であると述べている。

大正末期に発行された『千葉県安房郡誌』の衛生の項に「郡民一般の衛生思想普及に全力を注ぎつつあり。此等官衙の施設と共に醫師團體及び産婆看護婦團體等の活動も漸次向上發展」とあり、「近年鐡道の開通と共に、都人士の或は夏季海水浴に、或は冬季避寒てふ名の許に、肺結核患者の滞在せるものある」との記載がある。1907(明治40)年に内務省令によって「安房郡醫師會」が設立され、館山病院長川名博夫が会長の任にあたっていたが、1919(大正8)年に勅令にもって医師会が再発足してから、会長など役職は次代に引き継いでいる。当時、医師会員数は93名であり事務所は館山町にあったとされている。

1922(大正11)年に宮沢書店が発行した『北條舘山案内』には、館山病院の紹介が掲載され、その内容は「明治二十四年十月の創立である。今春創立三十週年の盛大な祝賀を擧行した。病院設備の完備してゐること患者數の多きことに於て蓋し縣下に冠たるものである。……院長の川名醫學士が有つ信用の偉大を物語るものがある。……病室は九十に餘るほどあるが何時も滿員である。」と書かれ、関東大震災前の館山病院の位置づけがわかる。


■関東大震災における館山病院の倒壊と再建

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が勃発した。相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計の針はすべて吹きとばされた。この大震災によって東京市と横浜市の大部分が廃墟となり、その被害は千葉県はじめ関東一円と山梨・静岡両県に及ぶことになる。安房地域でも館山湾岸沿いの館山・北条・那古は、地震により全壊したり、火災で焼失した家屋が全体の97.8%にのぼり関東大震災の被災地では最も大きな被害を受けた地域になった。

そして、館山病院の病棟(当時80床)や他の建物は倒壊して、看護職員が2名死亡し、多数の負傷者がでた。安房地域の死傷者は4千人余(家屋全半壊が多数)といわれ、『千葉県安房郡誌』の「安房震災誌」の項を見ると、館山町の被害状況は総戸数1,678のうち1,455が全壊し、被害率99%という関東大震災の地域のなかで最も破壊された地区となった。ただ、倒壊が多かった割に死傷者は少なく死亡者116名、負傷者152名であった。館山湾の海底隆起も甚だしく沿岸には50〜100mの砂浜が形成され、船で往来していた館山沖の鷹の島には干潮時に陸から島まで徒歩で渡れるまで浅瀬となった。

震災では倒壊を免れた北条病院や諸隈医院などが、無償で応急治療にあっただけでなく、安房郡内や他県の医師会とともに、千葉医科大学病院や日本赤十字社千葉支部の医師や看護師たちが巡回救護班や救護所に派遣された。館山町では館山水産講習所や館山病院を復旧させ、救護所が設けられた。館山病院の救護所は日本赤十字社千葉支部救護班が担当し3カ月ほど負傷者の治療にあたったといわれる。

1926(大正15)年に安房郡役所が発行した『安房震災誌』のなかの「復興計畫と善行美談」の項では「各町村の報告に係る震災美談中の二三を掲げる」とし、「館山病院と鈴木病院」が取り上げられている。「兩病院共、建物倒潰の厄に逢つたのであるが、傷病者の手當に全力を盡され、寝食を忘れて、仁術の實功を舉げられた。而かも月餘の間、治療費一錢もとらずに施療した。」と記載されているところをみると、倒壊したとはいえ館山病院の医療従事者は、寝食を顧みず救護活動にあっていたことがわかる。

また、安房郡復興会副会長であった川名博夫は「震後の感想」の項のなかで、次のように述べている。「一方極度の凄惨な實驗と他方バラック生活の呑氣の兩極端な實驗であつた」「震後暫くの間は、食ふことと寝ることの他に何一つ爲すことが出來なかった。丸で動物的な生活であつたので、複雑な生活から急轉した自分は、特にその單調な氣輕るさを感じた。しかし、斯うまで窮境に陥つた―普通の場合を超越した―人心の底に、果して無情荒凉の感じを湛えずに居られるであろうか。自分はそれを心配してゐる。」

関東大震災後の病院再建では、資生堂からの全面的な支援を受けた。1924(大正13)年7月に館山病院の病棟が復旧したものの、再建された病床数は20床程度であった。病院経営母体は株式会社組織とし、資生堂が大株主となり経営権を握って社長は福原信三がなった。病院再建当時の姿を伝えるものとして、1924(大正13)年に千葉石販印刷所が発行の『復興の房州』のなかに、「病室落成 入院の需に應ず 院長醫學士川名博夫」という広告が掲載された。病院経営を好転させるため、資生堂は新聞広告など館山病院の宣伝には力を入れた。昭和の初頃世界恐慌後の不況の時代であり、病院経営は極めて不振で館山病院は最悪な状態にあったという。

後の4代目院長穂坂博明は、館山病院誌「せいわ」第12号(昭和58年12月30日発行)のなかで次のように書いている。「大正十二年の関東大震災による病院の被害は大きく、八十余の病床が崩壊するという大打撃を受けた。そして二十余病床が再建されたが、内科へ外科のみとなり、経営形態も変わり、かなり苦しくなっていたようで、結核患者の比率が増え出したようである。……人工気胸療法が暫く結核治療の主力となるのであるが、大正十四、五年頃私の父の手で、日本では東北大の熊谷教授に次いで二番目にこの療法が行なわれている。……結核患者の転地療養を保険で扱っていたことを思い出す。此れも経営難の現われである。第一次世界大戦後の世界的な不況の時代であり、加えて館山市が当時館山町と北条町に分れており、その合併運動に祖父も父ものめり込んで、病院経営もかなり苦しくなった頃である。窮余の一策として、冬暖夏涼という房総の気象条件を考えてサナトリウムに衣替えした訳である。副院長だった叔父も千葉大で胸部外科を専攻しており、国立中野療養所の先生方の応援も受け、一時は成形、切除を大分手がけたようである。この頃の病院の雰囲気もまさにサナトリウムという感じで現在の第一病棟付近から南側にかけて、池のあるかなり広い公園があった。この池にうなぎを養殖して患者さんの栄養補給にしようという目算で父が東京から買ってきたのであるが、列車の中でうなぎが逃げ出し捕まえるのに大汗をかいたという珍談もある。此れも釣られたのか、逃げ出したのか、患者さんのカロリーになる前に自然消滅してしまった。サナトリウムとしてもかなり知れわたるようになり、多い時は百四、五十名の結核患者がいたように思う。」


■戦争のなかでの館山病院と本土決戦体制

昭和に入って、関東大震災によって隆起した館山市宮城浜が埋め立てられ、1930(昭和5)年に館山海軍航空隊の館山航空基地が完成した。また、1933(昭和8)年には川名博夫院長が引退して、2代目院長に穂坂与明が就任している。ただ、この年に館山町と北條町が合併し館山北條町が誕生した裏には、川名・穂坂両名の奔走があった。そして6年後の館山北條町と那古町・船形町とが合併し館山市が誕生した際も、極めて熱心に合併推進運動をおこない、市政を実現させた。同時に館山市安房郡医師会が誕生する。1935(昭和10)年に川名博夫の甥である川名正義が千葉医科大学講師をやめて、館山病院副院長に就任するとともに、その後医師会の理事や幹事に就任し、戦時下での地域医療に奔走している。日中戦争が本格化していく1937(昭和12)年頃に、館山病院では庭園環境を取り入れたサナトリウム(結核療養病棟)を完備させ、「房州館山病院案内」や「病院絵はがき」を作成している。それは東京方面からの転地療養の誘致を積極的におこなうために、銀座・資生堂には診療所が置かれ、館山病院のPR案内所がつくられた。

そして、1941(昭和16)年にハワイ真珠湾攻撃で対米英戦が開戦し、太平洋世界への出撃地でもあった館山は最前線となっていった。また東京湾要塞地帯にあって、あるいは館山海軍航空隊や館山海軍砲術学校、1943(昭和18)年に開隊した洲ノ埼海軍航空隊など軍事施設が多数存在していたので、空襲は激化していき、館山は戦場になっていった。

戦争末期になって、千葉県各市町村では国民義勇隊がつぎつぎに結成され、5月末には館山市の住民たちも本格的な本土決戦に組み込まれていった。挙国一致で本土決戦に突入し、最後の最後まで戦争を遂行するとした御前会議では、老幼者や病弱者、妊産婦を除く全国民が会社工場や地域ごとに国民義勇隊を結成して戦うことを義務づけた。「一億玉砕」「一億総特攻」をスローガンのもとに、子どもから老人まで全国民が軍隊化され、天皇制を護るという一点で本土決戦体制が敷かれた。千葉県立安房高等女学校(以下、安房高女)の生徒たちはどのように置かれていただろうか。

千葉県内政部長から「看護ニ関スル補習教育実施ノ件」の通達が届き、「…大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ女子中等教育ノ一環トシテ看護ニ関スル教育訓練ヲ強化シ以テ有事即応ノ体制ヲ確立シ女子学徒ヲシテ戦時救護ニ挺身セシムル様致度…」という内容であった。沖縄県立第一高等女学校生や沖縄師範学校女子部生徒による「ひめゆり学徒隊」と同様の対応が求められた。沖縄戦では南風原陸軍病院に動員され、その後日本軍とともに行動して221名中123名が犠牲になったが、もし館山において本土決戦が現実のものとなっていたなら、「ひめゆり学徒隊」と同じ状況になったと思われる。

1944(昭和19)年4月、千葉県医師会館山市安房郡支部支部長に就任した川名正義副院長は、東部軍管部司令部より安房地方兵站病院長に命ぜられている。川名の証言によると、本土決戦に備えて東京の陸軍軍医学校で戦傷医学の講習を受けるとともに、安房地域の医師会が中心となって歯科医師や薬剤師、看護師などを4つの救護班を組織して訓練に励んだという。もし戦場になった時には、地域の外科病院を収容所として、各衛生関係の団体の会員はもちろん、高等女学校の生徒らもその指揮下に入れて、軍隊とともに臨時野戦病院を数か所開設するとした。その際に安房高女の校舎は兵站病院として開設する準備は完了し、安房高女の生徒が毎日交代で10数名ずつ館山病院での実習がおこなわれたという。そして、血を見ても驚かずに働けるようになる訓練が続けられた。基幹病院として館山病院は、海軍施設部の協力を得て院内の中庭に地下手術室を設け、医薬品や医療の重要物資は疎開させるなど、本土決戦に備えて万全の医療対策をとったと述べている。


■終戦直後の館山における館山病院の役割

館山は軍事上、最重要地域にあったので、アメリカ軍は決戦の上陸地点として想定しただけでなく、日本の敗戦後は上陸占領地とした。アメリカ占領軍が直接軍政を敷いた沖縄を除いて、日本本土ではポツダム宣言にそって、日本政府を通じた間接的な占領行政を指示していたが、敗戦直後に最初に上陸した館山においては、4日間ではあるが、本土で唯一の直接軍政を指示したといわれている。この軍政下で医療活動の中心にあったのが館山病院であり、地元医師会の代表であった川名正義は重要な役割を果たしていた。敗戦後の混乱のなかで、医薬品や衛生材料の不足など地域医療に関わる課題を処理するため、アメリカ占領軍館山地区司令官カニンガムと直接交渉している。

安房医師会発行の『安房医師会誌』のなかには、「終戦前後の館山」と題する川名正義の一文がある。アメリカ占領軍上陸時の館山の様子を川名正義副院長や館山病院を通じてさぐってみたい。8月15日を迎え、「終戦でほっとした一面、突然目標を失って……心の中にぽっかり大きなうつろの様なもの」を感じ、「押さえてもは押さえ切れない敗戦の痛手…やるせない日々」が続いたと川名は語る。

実際に館山はクーデタ騒ぎがあったといわれているが、「戦闘継続のビラをまき……在房軍部隊も不穏の状態」で、8月27日に大本営の海軍参謀将校より「陸海軍の首脳の外、民間代表も安房高等女学校の二階大広間に召集」されて、「海兵隊は館山に上陸するかも知れないから直ちに陸軍部隊は戦わずして航空基地を明け渡すべし。二、航空隊附近の民間人は戸を閉ざし全員避難」などの終戦処理方法が示された。

そして「8月30日には連合軍司令官マッカーサー元帥も厚木に乗込み、大艦隊が相模湾に集結した」ことを知り、館山市民は「館山湾に艦隊が姿を見せ」ていたなかで、アメリカ軍機が「数機ずつが超低空で旋回し、ビラをまいていた」ことを見ている。ビラには「今から連合軍が館山に上陸するので市民は外出してはならない……上陸に妨げありと見れば射殺する」という脅迫的な内容であった。だが、砲声は全く聞こえず「病院に行ったが街には人影もなく、病院も休診状態で、看護婦達と敵上陸後の不安を語り合うばかり」だったと回想している。

そして、アメリカ占領軍本隊が「上陸用艇で続々館空岸壁……上陸後直ちに館空本館に本部が設けられ、洲空にはキャンプ兵舎を急設、館山駅等重要拠点はMPが占領」した。「日本政府は林大使と鈴木書記官を政府代表として館山に派遣し、両氏は木村屋旅館に滞在し、占領軍司令カ二ンガム准将との交渉」し、9月2日に戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式後は、「軍政は布かず、マッカーサー司令長官の指令のもとに日本政府が政務を続行する事が許された」と川名は述べているが、実際には直接軍政が敷かれた。「九月三日私は林大使に市民代表として木村屋に呼ばれ」たという証言は注目される。つまり、館山市長ではなく館山病院副院長の川名正義を「市民代表」として、アメリカ占領軍との交渉員に指名したのである。

そこで「林大使は市民代表として、私を連れて司令部に行き、カニンガム准将に紹介」した際には、医師の立場から要望を述べたという。「通行禁止で特に西岬方面の患者を往診することも、また入院収容することも出来ず、人道上困っている」と実際に館山病院でおこっている不自由な医療活動を伝えたところ、その後占領地区通行許可証の交付が下り、「米軍の人命尊重に対する理解は当時の日本人にとっては驚き」であったと述べている。当時のアメリカ占領軍が地元の医療活動にどんな対応をしたかを知る貴重な証言である。このように戦後のスタートでは、館山病院や医療従事者たちに困難な状況もあったが、平和を願う館山市民たちは川名正義を代表として、館山病院の医療活動を通じてアメリカ占領軍と向き合っていったのである。


■戦後復興のために貢献する館山病院

混乱する戦後において、地域医療の再建に取り組む館山病院と医師たちは、医師会にも大きな役割を果たしていった。1945(昭和20)年の医師会令改正に基づき千葉県医師会の役員選挙がおこなわれると川名正義は副会長に選出され、後には会長に就任している。と同時に日本医師会代議員を兼ねたことで、その後政府の医療政策の交渉に直接関わる日本医師会代議員会議長に選出されたのである。安房地域の基幹病院である館山病院を通じて、地域医療と日本の医療政策を検討していく立場となったのである。

1947(昭和22)年に社団法人千葉県医師会が発足すると、安房地域でも館山市安房郡医師会が結成され、新会長には地域の医師たちからの信頼が厚い館山病院長穂坂与明が選出された。穂坂は堅実な病院経営を地道にすすめていただけでなく、地域の人びととともに戦後の混乱期にあって、さまざまな社会福祉活動にも積極的に取り組んでいた。とくに千葉県内で最初の館山ユネスコ協会を結成して会長となり、当時全国的に見ても画期的といわれた乳児保育をおこなうユネスコ保育園を設立させたり、また学ぶ機会を求める働く若者たちのために高校の定時制課程設置を実現させるなど、地域のなかでユネスコ精神を実践していた。当時、安房医師会の窓口として事務所を置いた館山病院の姿は、地域に根ざした地域医療を支える病院として、住民たちから大きな信頼を勝ち得ていたのである。

かつてコレラや結核などの治療法やその予防医学・健康教育を深く理解する医師を育てていたベルツ博士の教え子の一人が初代院長川名博夫である。結核菌を根絶することは難しいが、結核菌に負けない身体をつくることはできるとしたベルツ博士の転地療法を実践する医療施設が、地域の住民たちの要望で設置された館山病院であった。ベルツ博士の精神と大きな功績を記念し創設されたベルツ賞は、今日の日本医学界において非常に権威をもつ医学賞である。2001(平成13)年に理事長・院長に就任し、現在総長である大島博幸は、元東京医科歯科大学医学部附属病院長であり医学部名誉教授であるが、奇しくも1970(昭和45)年に「アンドロゲンの生成・代謝とその調節機構」でベルツ賞を受賞しており、初代院長以来、120年にわたって困難に立ち向かっていくベルツ精神を脈々と受け継いできたといえる。その精神をもって地域に根ざしてきた館山病院は、後に安房医師会がつくり上げていった地域医療のモデル的な総合健診制度の一翼を担って、大きな役割を果たしてきたのである。



【主な参考文献】

『安房震災誌』千葉県安房郡役所 1926年

『千葉郡安房郡市』千葉県安房郡教育会 1926年

『房州風土記』穂坂與明著 川流堂小林又七本店 1935年

『福原有信伝』永井保・高居昌一郎著 株式会社資生堂(非売品)1966年

『穂坂与明伝』本多定喜著 館山ユネスコ協会(非売品) 1970年

『安房医師会誌』安房医師会誌編集委員会 安房医師会 1973年

『しんしおば』4号・5号 川名正直(非売品) 1979年・1980年

『千葉県の歴史 通史編 近現代1』千葉県史料研究財団 2002年

『村の医者どん』展示図録NO.17 館山市立博物館 2008年

『本土決戦の虚像と実像』山田朗監修 高文研 2011年

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