タイトル: | 戦跡をまちづくりに活かした館山市でのこころみ(『土木施工』2011年9月号) |
掲載日時: | %2011年%11月%25日(%PM) %22時%Nov分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=554 |
愛沢 伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表)
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海に囲まれた房総半島南部(南房総・安房地域)の歴史をひもといてみると、古代より人びとが交流・共生し、戦乱や災害などを乗り越え、豊かな地域コミュニティをつくってきたことがわかる。しかしその一方で、東京湾口部という戦略的な拠点にあって、日清・日露戦争からアジア太平洋戦争において帝都防衛の最前線であり、軍事戦略上重要な役割を担っていた地域であったことを忘れてはならない。東京湾要塞の砲台群が配備され、館山海軍航空隊や館山海軍砲術学校、洲ノ埼海軍航空隊など海軍の中枢的ともいえる軍事施設が設置された。戦争末期にはアメリカ軍の上陸が想定された地域であり、本土決戦体制のもとで7万名近くの陸海軍部隊が配備され、さまざまな陣地や特攻基地が建設された。そのため今も数多くの戦争遺跡(以下、戦跡と略)が残っている歴史的な地域である。
人口5万人の館山市において、私は20年余にわたって地域の歴史・文化を学びながら、身近にある文化遺産の保存を呼びかけ、これらをまちづくりに活かしていく市民活動をおこなってきた。その一つが戦跡をまちづくりに活かすNPO活動である。
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房総里見氏の稲村城跡保存運動が起こった。曲亭馬琴の小説『南総里見八犬伝』の舞台のひとつであった稲村城は、戦国期の房総最大の大名里見氏が15世紀後半に安房国を平定した頃の本城という。安房地域にとってシンボル的な文化遺産ともいえる城跡が、市道建設によって破壊寸前におかれた。
高校教師であった私は、その保存の意義を訴えるために地元新聞に投稿し、市民に稲村城跡保存と史跡化を呼びかけた。保守的な風土のなかで市民運動は難しいといわれていたが、文化財保存に全くの素人であった市民たちが立ち上がって保存会をつくった。そして広く市民に訴えて1万名近くの署名を集め、市議会を動かすために請願書を提出した。異例ともいうべき6回にわたる継続審査を繰り返して、その間あわや不採択という危機もあったが、2年後には請願書が採択され市道建設はストップとなった。数年後には市道計画そのものが廃止されるとともに、館山市や教育委員会は史跡化にむけて動き出し、地元地権者の理解を得ながら、5年前からは「国指定史跡」をめざす調査事業をスタートさせ、今年7月文化庁に申請するまでになった。
この稲村城跡保存運動が、戦跡の保存と史跡化にも大きく影響を与えるだけでなく、まちづくりのなかで文化財の果たす役割を知らしめることになった。私は1990年代の初頭から安房地域における戦跡の調査研究活動をおこなっていた。その積み上げのなか、「戦後50年」の節目には、200名を超える市民が実行委員会を結成して、1年近くにわたって調査研究・聞き取り活動を実施し、8月に開催した手作りの集いには1000名以上の市民が参加した。その経緯のなかで、安房地域に残る戦跡が破壊され放置されている現状を打開し、身近にある貴重な文化財として保存・活用することを呼びかけていった。
その後に始まった稲村城跡保存運動では、地域においてシンボル的な里見氏の文化遺産を守れなくては、戦跡の保存などはありえないと痛感した。文化財保存の取り組みを実りある市民運動にするためにも、たとえ時代が違い、その歴史・文化も違う文化財であっても、文化財を守っていくという一点で力を合わせることを強く訴えていった。私は2つの保存運動を並行してすすめていくことで、互いに相乗効果がでるような文化活動を企画していった。町なかの10kmほどのコースの主なポイントにガイドを置いて自然や文化遺産を説明する「里見ウォーキング」や、里見氏の城郭から城郭へと古道を歩いて地域の歴史・文化にふれる「里見の道ウォーキング」、さらにミニ講演会付きのウォーキング「里見紀行」など、これまでにはなかった地域文化を学ぶ取り組みを次々に実施し、延べ2万名以上の市民参加の実績をあげ文化財保存の意義を深めることができた。
房総は明るい花と海のイメージなので、里見氏や「八犬伝」はいいけれど、暗い戦跡は観光にふさわしくないという風当りがあった。しかし、地域の公民館を中心に戦跡フィールドワークなど繰り返し実施し、市民有志による保存調査サークルも地道に活動を続けた。
このような文化活動とともに館山市当局や市議会に呼びかけてきたことが実り、戦跡が平和学習拠点としてまちづくりのなかに位置づけられ、館山海軍航空隊赤山地下壕跡(以下、赤山地下壕と略)が整備・一般公開されることとなった。
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館山市は、2002年に戦跡を活用したまちづくりという新規事業をすすめることを決め、財団法人地方自治研究機構に補助金の申請をした。その事業内容は「平和・学習拠点形成による町づくりの推進に関する調査研究—館山市における戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」とし、なかでも代表的な戦跡である赤山地下壕を中心に市内に点在する戦跡を調査検討し、平和学習だけでなく観光資源として評価をおこなうとともに、戦跡をまちづくりに位置づける具体的なプランを構想するとした。
館山市が申請した戦跡を平和学習のまちづくりに活用する調査研究事業は、全国の自治体からの多数のまちづくり事業申請を押しのけて、780万円の補助金が決定した。そして、市の負担分520万円の補正予算が組まれ総事業費1300万円の新規事業がはじまったのである。当時の新聞によると市の幹部は「資料も少なく、今やらなかったら時期を逸する。若い世代にも伝えていかなければならない」と語っている。
まず文化財関係やまちづくりの学識経験者が中心になって館山市戦争遺跡調査研究委員会がつくられ調査活動がすすめられた。翌年春に発行された財団法人地方自治研究機構の『報告書』によると、戦跡を活かした平和・学習拠点を実現するため、館山をまるごと歴史公園と捉える「『地域まるごとオープンエアミュージアム』としての館山歴史公園都市」を目標像として示し、戦跡を館山市の固有性の一つとして市民の歴史学習をはじめ平和学習や交流に活かしたまちづくりをめざすプランを策定している。
戦跡をまちづくりに活用していくという点では、とくに安全性に関わる部分の評価に関心がもたれた。一般公開のためには何といっても地下壕としての安全性が問われていたので、なかでも当初から一般公開が期待されていた赤山地下壕は、精密な測量地図がつくられ、危険個所はどうか、あるいは危険の度合いはどうかなど、専門機関が関わった地質や岩盤の本格的な実態調査が実施されたのである。
関係機関の調査や点検が終了した2004年4月に、赤山地下壕内の安全性が確保される個所250メートルに限定し、一般公開が実現した。そして翌年1月には館山市の戦跡としては初めて市指定史跡となり、平和学習の拠点として全国から注目される戦跡になったのである。現在まで子どもたちの体験学習や各種団体の平和研修、あるいはまちづくり視察の場として、年間2万近くの入壕者を迎え、館山市にとって代表的な文化遺産となっている。この戦跡をまちづくりに活かそうとガイド活動に取り組んできたのが、NPO法人安房文化遺産フォーラムである。
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赤山地下壕の一般公開に合わせ、私たちはNPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム(後に改称)を発足した。活動の理念は2つの柱からなり、1つは安房地域の先人が培った「平和・交流・共生」の精神が活きる、市民が主役のコミュニティ活動を図ること、2つは戦跡や房総里見氏、震災復興・海洋文化・転地療養・食文化などの多様な歴史・文化遺産を保存・活用し、持続可能な地域づくりをめざしていくということにある。
NPO活動では、地域課題解決への糸口をさぐるため、年度ごとに具体的な事業を展開している。その前提として足もとの歴史的環境や文化遺産を見つめ直して地域像を読み解いていく作業と、繰り返し起きる戦乱や震災を乗り越えて先人たちが培った「平和・交流・共生」の精神をさぐる作業を積み重ねている。そのなかで「生涯学習まちづくり」をタテ糸の時間軸に、「地域まるごと博物館」をヨコ糸の面にして、地域内外の人びとと連携を図り、支え合うコミュニティと交流文化の構築をめざしている。
振り返ると、任意の文化団体や公民館でのサークル活動を通じて、戦跡や房総里見氏などの歴史・文化を学びながら、まちづくり活動に関わっていた市民たちによって、NPO法人が設立された。さらに、平和学習や総合学習、地域づくり研修や視察など幅広いスタディツアーは、参加者の口コミによって次の来訪者に広がってきた。そのガイド活動を支えてきたのは、豊かな人生経験とまちづくりの高い志をもったシニア層であり、生涯現役で活躍する創造的世代「創年」と呼ぶにふさわしい市民たちであった。
戦跡などの文化遺産をまちづくりに活かす重要な視点は、何と言っても地域の人びとが関わって語られるガイド活動にあると思っている。そのためには地域への関心や学習意欲が高いといわれるシニア層、いわゆる「創年」たちが公民館講座的な枠から飛び出し、地域の歴史・文化を伝える担い手になるかどうかにかかっている。戦跡を活かしたスタディツアーの地域ブランドを育み、ひいては若者の雇用の場として活動が発展することを願っている。
財団法人地方自治研究機構の『報告書』では、50ヶ所近い館山の戦跡に一定の評価が与えられ、なかでも半数近くが「近代史を理解するうえで欠くことのできない史跡」としてA評価になっているのが注目される。
ところで、半世紀をかけて構築された東京湾要塞は、浦賀水道をはさんて三浦半島地区と房総半島地区に、廃艦の艦載砲を利用して強力な砲塔砲台を建設しているが、これは他の国では見られない大規模な土木事業をともなった要塞建設であった。また、他に類を見ない大規模は軍事的人工島(「海堡」)が浦賀水道内に3か所建設されるなど、土木遺産にとって極めて重要な戦跡群といっていい。かつて東京湾の制海権をめぐって房総側里見水軍と三浦側後北条水軍とが戦国期に戦っているが、古代から東京湾は海上交易や文化交流で人びとのつながりは深く、さまざまな時代における重層的な文化遺産をもった沿岸と海域である。この評価が高まっていけば、戦跡などを中心とする世界遺産も夢ではないかもしれない。いずれにしろ、東京湾岸の各地域との連携が図られ、まちづくりネットワークを組んで、戦跡などの保存・活用に取り組んでいくことがいま重要と思われる。