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タイトル:旅は魔法のとびら
掲載日時:%2009年%10月%27日(%PM) %19時%Oct分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=484

旅は魔法のとびら 池田恵美子

……「これが私流地域振興(交流人口拡大)」奮闘賞=財団法人日本余暇文化振興会主催

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◎〝旅〟との出会い

〝旅〟とは、昨日とはちがう新しい人生が始まる〝魔法のとびら〟である。私がそんな〝旅〟を初めて経験したのは、小学校を卒業する春休みのこと。日本全国から集まり、初めて出会う子どもたちと行く1週間のハワイ・ジュニアスクールであった。親元を離れるのも初めてなら、海外に行くのも初めて。羽田空港で家族と別れてゲートに入った瞬間から、私は寂しさと不安で涙があふれ、誰とも口を利くことができなかった。そんな泣き虫の私がまったく新しい自分を手に入れたのは、翌朝だった。強い陽射しに輝く真っ青な空と海、真っ白な雲と波。私の心は一瞬にして解放され、自分でも驚くほど快活で明るい性格になっていた。ツアー仲間ともすぐにうちとけ、友情が生まれた。

白い砂浜のヤシの木陰で円陣を組み、ハワイの自然や歴史・文化を学んだ。大自然の一部として共生してきた原住民の信仰心や、西洋文化との融合などの歴史を知るにつけ、驚きとともに自分の国への興味がわいてきた。いったい日本はどんな国なのだろう。私の住む館山はどんなまちなのだろう。

旧日本軍の真珠湾攻撃を知ったのも、この〝旅〟だった。その衝撃は言葉に尽くせない。なぜ、こんなに美しくやさしい人びとの島を、日本は攻撃したのだろうか。なぜ、人間は戦争をするのだろうか。心に重くのしかかるこの命題は、私の人生を貫くテーマとなった。

最後の晩、キャンプファイヤーの後で誰からともなく声があがり、みんなで夜空に向かって大声で叫んだ。「お父さん、お母さん、ありがとう!」。〝旅〟は、感謝の念を育んでくれていた。

その年の夏は、カナダ・ジュニアスクールに参加した。ロッキーの大森林や大氷河、足もとを走りまわるリス、窓外の鹿やバッファロー、…ハワイとも異なる地球の多様さに圧倒されたものである。街なかでは、グループに分かれてオリエンテーリングを行なった。文具店で決められた金額の買物をすることや、公園にある銅像の生没年を書き写してくることなどがチェックポイントだった。その銅像こそ国際親善に貢献した新渡戸稲造であり、「我、太平洋のかけ橋とならん」といった名言は私の心に刻まれた。消費税もよく分からず、カタコトの英語で値引き交渉をするなどの珍道中であったが、この体験以来、地図を片手に知らないまちを歩くことは〝旅〟の最大の楽しみとなっている。

〝旅〟は、学校で習えないことを学べる実践のフィールドである。学校生活の窮屈さから解き放たれ、ほんものの自分自身と出会う体験でもあった。日常とかけ離れた友だちを得られることも大きな財産で、30年経った今でも親しくしている友人もいる。私は、ワクワクする学びの体験を多くの人にも味わってほしいと願い、将来の夢として〝学校外の教育〟を志すようになっていった。


◎〝旅〟は人生の転機

ときとして、〝旅〟は新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。人生の岐路に立ったとき、私が訪れたのはスペインのベンポスタ子ども共和国であった。1950年代のスペイン内戦時、キリスト教のシルバ神父が孤児となった少年たちを集めて、自立できる技術と教育を与えた生活共同体である。ここの住民は6歳から18歳の子どもたちが主役であり、学校の教師は生徒が面接で選ぶ。勉強のほかに農作業や陶芸などの技術を学び、放課後の子どもたちはそれぞれ労働している。あるいは本格的なサーカスの練習に励む子どもたちもいて、興業収入は施設運営の大きな財源になっているという。ここでは、勉強をしても、仕事をしても、サーカスの練習をしても、同じ価値としてオリジナル通貨が支払われる。子どもたちによる住民会議や選挙もあり、法律決定など運営はすべて委ねられている。

私がベンポスタを初めて知ったのは、映画『スペインからの手紙』である。母を亡くし、自分の殻に閉じこもってしまった少年が、ベンポスタの生活を通して自己を回復し、最後はサーカス団員として最高の笑顔を見せるほどに成長するという物語だった。以来私は、いつかここを訪ねたいと思い続けてきた。

それから3年後、私はベンポスタを訪問した。17歳の日本人少年クンペイが施設内を案内してくれた。世界中から集まっている子どもたちは約100人、そのうち日本人は15人で最年少は12歳だと聞いた。今なお戦禍の国から来ていて、親の安否も知れない子どももいるという。それでも映画同様に、精一杯生きている子どもたちの姿に心を打たれた。私が12歳から温め続けてきた夢の形が、そこにあった。私に何ができるか分からないが、日本に帰ったら夢に向かって歩き出そう。

帰国後、さまざまな活動に携わりながら3年が過ぎたとき、私は過呼吸発作を伴うパニック症候群に陥り、社会生活が営めなくなってしまった。幸いにも、友人宅の居候生活を経て、那須高原の温泉診療所で療養した後、ふるさと館山に戻ってきた。転地療養という〝旅〟もまた貴重な体験となった。この間、多くの素晴らしい出会いに恵まれ、生まれ故郷でありながら知らなかったことを知り、我がまちを再発見することができたのである。


◎〝旅〟を再創作

ところで、地図は本来、進行方向を上に見ながら現在地を確認し、目的地へ向かうナビゲーションシステムとして使われるものである。昔も今も、日本沿岸を海路で南へ向かうときは逆さまに地図を見たことだろう。こうして見てみると房総半島最南端の館山は、「へ」の字型になった日本列島の頂点に位置していることに気づく。太平洋に突き出た要衝として、古くからさまざまな支配権力の影響を繰り返し受けた地であったことが推察される。

館山周辺には、その象徴ともいえるアジア太平洋戦争の遺跡群や中世城跡群が多いが、そのほとんどは放置あるいは破壊されつづけてきた。これらに着目した高校教師によって歴史教育が実践されたことが契機となり、調査研究・ウォーキング・講演などの社会学習活動を重ね、それぞれ保存を求める市民運動に広がった。10余年を経て、「館山海軍航空隊赤山地下壕」は平和学習の拠点として一般公開され、館山市指定史跡となった。『南総里見八犬伝』の舞台として登場する「里見氏稲村城跡」も、市道建設のために分断寸前だったところが計画変更となり、現在は国指定史跡に向けた調査検討が進められている。観光地にとってマイナスイメージと言われてきた歴史的環境は、その価値が見直されてプラス要因となり、「ピースツーリズム」という新しい観光スタイルが生まれはじめたのである。

私がたどり着いたライフワークは、地域の文化遺産をまちづくりに活かすNPO活動であった。加害と被害の両面を学ぶことができる館山の戦跡めぐりは、口コミのリピーターによって広がり、NPOでは年間約200団体のスタディツアーガイドを実践している。メンバーが制作した戦跡などのガイドブックは、地域の隠れたベストセラーとなっている。房総里見氏にゆかりのある群馬県高崎市(旧榛名町)や鳥取県倉吉市(旧関金町)とも「里見トライアングル交流」のネットワークが生まれ、手作り甲冑や子ども歌舞伎などの市民文化の醸成にも結びついている。若い女性を中心に戦国ブームの昨今、『八犬伝』ゆかりの地やそのモデルとなった房総里見氏の史跡めぐりも人気が高くなっている。


◎〝旅〟は交流

逆さ地図からもうひとつ気づくことがある。房総半島には、南部の安房から北に向かって上総・下総という古称が残っている。鉄道が敷かれて「下り」と位置づけられる前は、安房国が海の玄関口として朝廷とつながった「上り」であったことがうかがえる。古くから、海とともに生きた人びとが往来し、共生してきた地なのである。

その交流の証を館山に見ることができる。江戸時代初期に建立された「四面石塔」には、東西南北の各面に朝鮮ハングル・印度梵字・中国篆字・和風漢字で「南無阿弥陀仏」と刻まれているのである。その時代背景から、朝鮮侵略と朝鮮通信使修交の歴史のなかで、拉致被害者や戦没者の供養と世界平和への祈願がこめられた石塔ではないかと推察される。

日中韓の歴史認識を乗り越える学習教材として注目され、今では「ピースツーリズム」のひとつとしてさまざまな日韓交流が育まれている。日韓友情年の館山子ども交流では、両国の歴史・文化を学び合うとともに、歩いて渡れる無人島での環境学習ではハングルの漂着ゴミを発見し、海を通じてつながっていることも実感した。館山を訪れる子どもたちはグローバルな視野を養い、言葉を超えた理解と友情を育んでくれている。


◎〝旅〟はまちづくり

ガイドとして活躍するNPOメンバーは、大半がシニア層の市民である。とくに移住者はホスピタリティとアイデアにあふれ、知識や技能ばかりでなく、豊かな趣味もまちづくりに活かしている。あるメンバーは地図づくり講座の参加をきっかけに、60歳過ぎからまち歩きと絵地図に目覚めたという。あまりに素晴らしい作品が完成したので、ウォーキングマップとしてNPOから商品化している。

また、JRのデスティネーションキャンペーン(ちばDC)でSLが特別運行されたときには、〝鉄チャン〟と呼ばれる鉄道ファンを満足させるための工夫を考えた。少年時代から鉄道ファンだというメンバーが、鉄道グッズや雑誌のコレクションを提供してくれるという。そこで駅前商店街の空き店舗を借り、期間限定の「まちかどミニ博物館」を開館した。かねてより平和研修で連携してきたJR労組を通じて呼びかけてもらい、かつて機関士だったという鉄道OBらが、昔とった杵柄を語るガイドとして活躍したのである。

徐々に賛同者が増え、「まちかどミニ博物館」は6店舗となった。千葉県立安房水産高校(当時)と国立館山海上技術学校では、貴重な海洋教材を商店街に持ち込んで展示し、本格的な「海のミニ博物館」とした。週末には、生徒や教員、同窓会メンバーらが学芸員となって観光まちづくりに参画した。かつて割烹だった店舗には、公民館サークルの和紙人形や段ボール製甲冑などの手作り作品を展示し、無料休憩所としてお茶をふるまった。

私にとって、毎日暮らすまちでありながら多くの人びとと出会うことは新鮮な〝旅〟であり、気づきの多い成長途上の日々である。館山を訪れた人びとが、それぞれのまちに戻ったとき地域を見つめ直し、まちづくりに一歩踏み出すきっかけになれば幸いである。まちづくりネットワークの〝旅〟が広がれば、明日を拓く〝魔法の扉〟となるにちがいない。

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