タイトル: | 井口弘能*館山終戦連絡事務局の通訳 |
掲載日時: | %2009年%08月%29日(%PM) %19時%Aug分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=475 |
2003.4〜6
私はこの3月、85歳の春を迎えました。事実は小説より奇なりという言葉の如く、戦後の激動する荒波に翻弄されて今日に辿り着きました。誰もが終戦後の混迷の中で兎に角生きる方策を見付ける事に苦労しました。私も例外ではありませんでしたが、その辺の思い出を少し話させて戴きます。
私は終戦前、陸軍航空通信隊の展開先である熊谷飛行場で暗号兵として勤務中、1945年8月20日除隊命令を受け、本部中隊のある児玉町へ出頭しました。毛布2枚米若干を受領、復員軍人の姿で帰途につく折、中隊長から栃木と群馬県庁で英語の出来る人を幹部職員として採用したいとの要望が来ているがどうかとの打診がありました。私は先ず兄弟と相談してからと申上げ急いで上京しました。
然し、私の一応の落着き先である小石川篭町の長姉夫妻の家は思った通り焼失しておりました。昔日の思い出に浸る時間もなく、移転先表示を頼りに大塚の借家に辿り着き姉夫婦と再会した時は、互いに無事を喜び合いました。次の日勤務先の日立航空機㈱千葉工場へ出社した所、ここも全員解雇で大変でした。挨拶を一応済ませての帰路、学徒動員で私の班に勤務していた後輩宅に立寄り夕食をいただき乍ら、これからの生活を話し合いました。
先輩は英語が出来るのでこれを生かすべきであり、外務省の通訳試験が明日行われるので是非応募するよう強く薦められました。自分の能力など考えず、翌日後輩と共に外務省を訪れ、受験したところ見事合格となりました。
任地は館山終戦連絡事務局で同市木村屋ホテル内にあり、給与は300円、日立の私の給与が75円、破格の給与でした。前途に不安はありましたが乗りかけた船、兄姉友人に祝福されて9月3日、数百人の警官と館山行の電車に乗り、無事事務所入りが出来ました。事務所は外務省の役人林男爵以下5名、通訳20数名、私は最年少の27才、皆高学歴で海外在住経験者などでした。食事は上々、夕方は一杯もついて、これは満点。館山港沖の米国の軍艦から次々と命令があり、軍の上陸も近く、これが私の通訳生活13年の第一歩でした。館山の旧海軍施設に米軍が進駐し、私達通訳の仕事は米軍の要請によりMPのパトロールに同乗するとか、警察署での日本人犯罪者の取調べに協力する等でした。
10月末のある日、米軍柏基地から通訳1名の要求があり私が指名されました。翌日トランク1個下げて指定の部隊に到着、K大尉から食事、寝室、事務所内の私の机等説明を受けた際、笑い乍ら君の名前は発音しにくいので今日からOKIE(※)で良いかとのこと。OKで決着、柏基地10ヶ月の勤務がスタートしました。
翌日、兵隊が町の酒屋から馬車一台のビールを鍵のない倉庫へ運び入れ軍曹曰く、今からビールの必要な者は自由持出OK。OKIEも例外ではないといって私にウィンクしました。部隊の戦勝祝賀週間の初日で私もビールが配られましたが、今週の仕事は無理のようでした。その週末、夕食を摂っているとY中尉が来て、今晩市川の料亭に行くが君はどうかとのこと。二つ返事でOK。数台のジープに分乗、軍歌を合唱しながら一路市川へ。広い座敷には山海珍味の膳が並び、私の喉がなりました。美女もはべり盛上りましたが、いつの間にか深夜、通訳も疲れた頃帰隊のタイム。これが週末の行事となり、時折私に声がかかりました。
11月末突然、私の親しいN中尉が帰国命令を受け、彼が大事にしていた馬一頭、シェパード犬一匹を私に大切に飼って欲しいとのこと。私の今の生活状態では困難である旨申上げ、犬は同僚の将校へ、馬は私が飼育の方途を考えることで一応決着。私の知る農家へ差上げるまで3ヶ月位毎日の勤務の傍ら馬を大切に飼育しました。
その後風の便りには、馬は競馬で良い成績を挙げたとか。隊長は本国に自家用機と広い飛行場を持ち、その写真を私に見せてくれた。10名位の将校は全員ロッカーの上に葉巻の箱を置き、その中に給与精算で入った多額の円を入れてあって、必要の時には私にも遠慮なく使っても良いとの事で私には考えられない事でした。
話は変わってある日、日本文の匿名の手紙が配達され、内容はS市消防団の戦争中の告発でした。事務的に処理すれば一人の戦犯を生むだけで、日米両国に取って何の利益もなく、告発されたN氏及其の家族の事を考え私は迷いました。私は封書をポケットに入れ、祈るような気持ちで匿名氏の次の行動を待ちました。この件は其のまま流れましたが、私には頭の痛い日々でした。米軍機の墜落事故の調査、隠密物資の調達等々に加えて日米人間のトラブルもあり、日夜多忙でした。
占領初段階での通訳は頼る処も無く、自らの判断で何とか敗戦の国のために少しでも役立てばと四六時中気を配りましたが、これは数十年の通訳生活の中で私の一貫した考えでした。
(※)OKIE=旧姓の奥津から由来。
御子息:井口陽一氏(千葉市在住)よりご提供いただく。