タイトル: | 地域教材から平和を学びウガンダ支援へ |
掲載日時: | %2009年%07月%02日(%PM) %21時%Jul分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=421 |
●地域教材から平和を学びアフリカ・ウガンダ支援へ●
会誌「家庭科研究」2006年
執筆=愛沢 伸雄(NPO法人 南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム 理事長)
■「かにた村」から学ぶ
1989年、高校の世界史教師であった私は、ひとつの石碑に出会ったことがきっかけで、地域の歴史に目を向けるようになった。「噫従軍慰安婦」とだけ刻まれた石碑は、千葉県館山市にある婦人保護施設「かにた婦人の村」(以下「かにた村」)の丘に建立されていた。社会復帰が困難な女性たちの暮らしている施設のなかで、戦後40年経たときに「城田すず子(仮名)」という一人の女性がその半生を告白したことを受けとめ、施設創設者である深津文雄牧師は、「城田すず子」の苦しみを癒すとともに、「従軍慰安婦」として傷ついていった数多くの女性たちのために、1985年に鎮魂の木柱を建て、翌年には天を切り裂くような石碑を建立したのであった。
地域にあった出来事に大きな衝撃を受けた。当時、県立安房南高校という女子校に勤務していたが、この世界史的なことを平和学習の地域教材にして現代社会の授業に取り組んだ。この問題は生々しい歴史的な事実であり、性に関する問題を含んでいるので、自己と他者の関係を鋭く問うものであった。女子の生徒たちにとっては、あまりにもショッキングな内容なので、ありきたりの「かわいそう」「悲惨だ」という他人事の感想ではなく、「心がこう動かされたのでこのように表現した」とか「こんな自分を発見した」など、一人ひとりの自己の気づきから平和認識を深めていくことを求めた。「すず子」の証言にある女性たちの悲痛な叫びを聞いて、生徒たちは強く心を動かされるはずである。「城田さんは大変だったが、今はそんなことがなくて、平和でよかった」という、単純に今日を平和だとみている生徒の平和意識や、過去と現在とを切り離す歴史認識を変容させることをねらいとした。
このような平和学習の取り組みは、1994年になって、一部生徒たちが世界を見ると、多くの子どもや女性たちが戦火のもとで苦しんでいるので、自分たちも何か国際的な取り組みをしたいとの声をあげた。国連のユニセフやユネスコに関わり、学校においても協力活動はあるが、生徒たちは相手の顔が見える国際協力にしたいと願った。そこで私は深津牧師に相談して「かにた村」がおこなっていたアフリカ・ウガンダへの支援活動に関わっていった。こうして教室から地域・世界に視線を伸ばした実践的な行動になっていった。
■ 生徒会によるウガンダ支援活動
1989年からウガンダ支援をおこなっていた「かにた村」は、自らの施設運営にも苦労が多いにも関わらず、世界の困窮地域へ手を差し伸べていた。ウガンダでは、内戦とともにエイズという病魔が国を襲い、100万人をこえる孤児を生んでいた。国の未来を背負う子どもたちに夢を与えようと、非政府組織(NGO)「ウガンダ意識向上財団(CUFI)」で活動するセンパラさんという青年は、「子どもたちは・・・・靴や学用品、机や椅子も持っていません。以前あなたが衣料や靴などを送ってくれたとき、私はとても嬉しかった。・・・・・再びそれをお願いしたいのです」と深津牧師に支援を要請していた。
このことを知った安房南高校生徒会とボランティア委員会では、1994年から「ウガンダの子どもたちを救おう」「ウガンダの子どもたちに夢と希望を」を合い言葉に支援活動を始め、文化祭では支援バザーと、ウガンダでのエイズ状況やユニセフ活動の資料展示をおこなった。バザーの売上げや募金は予想以上で、後日ダンボール28個を館山郵便局より発送することができた。2ヶ月後、日本のNGO「アジア学院」の研修で来日中であったセンパラさんは、帰国前に本校を訪れた。
「・・・・ウガンダは現在人口が1800万人です。68年間イギリスの植民地支配をうけ、ついに1962年10月9日に独立を勝ちとりました。多くの内戦と民族闘争、それにあらゆる困難に直面してきた国です。この状況下での最も多くの犠牲者は子供たちでした。彼らはこれらのうち続く戦争で両親を殺され、絶望的な状況にさらされました。1986年にスタートしたウガンダ意識向上財団は、これらの恵まれない無力な孤児たちへ、援助の手を差し伸べるよう設立されたものです。・・・・・200名にもなる子供らの世話をするには、かなりの資金を必要としています。組織を代表して、これまで私たちに差しのべて下さった物的、精神的援助にどうかお礼を・・・・」
センパラさんの心のこもった挨拶は、一同に深い感銘を与えた。この出会いは、これからの草の根の国際交流の面で大きな意味があった。生徒会企画により手作りの歓迎会を行ったが、生徒の輪の中で明るく振る舞うセンパラさんのエネルギッシュで屈託のないその眼の輝きに、希望をもってウガンダの国作りに関わっている青年の力強い意志を感じた。「学校で学びたい」と願う多くの孤児たちに、ウガンダの未来をかける彼の理念に触れ、それに応える支援活動になっていくことを願った。
さらに、その後の手紙では「・・・・貴校と私のCUFI組織との間に、国際的友好と理解を押し進めるよう努力しながら、将来にはとてもすばらしい協力関係ができるものと期待しております。・・・・発展への道は多くの困難をともなう、長い道のりではありますが、私たちはうまくやりとげたいと思います。どうか私たちのことを忘れないでください」というセンパラさんの言葉に、ウガンダの未来を見つめ、どんな困難があっても希望を失わず明るく取り組んでいく決意を感じた。
その後、卒業生の体育服や運動靴だけではなく、家政科の生徒たちが中心になって子どもたちへの毛糸の編み物も加えられた。また校内では「ラブ・アンド・ピース」募金と名付けて日常的にも支援金を募っていた。こうして1996年に第1回目の資金支援として、CUFIに1000ドルを贈って以来、毎年1000ら1500ドルの資金を生徒会とボランティア委員会から贈り続けた。
センパラさんからは、「・・・・・・最もお金が必要としているときにいただきました。縫製作業所とコミュニティカレッジ建設資金にします。子どもたちの教育を支えることができ、大変うれしく思っております」という感謝の手紙とともに、子どもたちの絵がたくさん届いた。
この絵と手紙は、生徒会とCUFIの交流を語り継ぐ貴重な資料として、毎年文化祭のウガンダ支援バザーで展示されている。高校生によるこの活動は、生徒会顧問が替わったり、地域教材による平和・人権学習が実践されなくなった現在でも、安房南高校生徒会とボランティア委員会の取り組みとして脈々と引き継がれている。
■ 地球の裏側に「AWA-MINAMI(安房南)洋裁学校」
2000年、由緒ある安房南高校の家政科は、少子化に伴って新規募集を停止した。学科廃止によって使わなくなったミシン数台はウガンダに送られ、子どもたちの職業自立支援につながっている。センパラさんからは、「貴校の支援に感謝を表わすために、末永く形に残るものを作りたい。・・・・さまざまな事情で学校に行けなくなった若者のため…ひとり立ちができるように、職業技術の訓練として・・・・・AWA-MINAMI(安房南)という名の学校を作っている」との報告があり、完成のために資金援助をお願いしたい旨の要請があった。
その年の第7回ウガンダ支援バザーは大成功し、その収益金から学校建設費用として1500ドルをすぐに送金した。21世紀を迎えた新年、私たちのささやかな支援資金で建設された「AWA-MINAMI(安房南)洋裁学校」の完成写真が届いた。
当時の3年生のボランティア委員は『私にとってのウガンダ支援活動』と題して次のような作文を残している。「・・・・募金だけではなく物資も発展途上国に送りたいとのことを、顧問の愛沢先生に相談したところ、『かにた婦人の村』の故深津文雄牧師さんを紹介されたそうです。深津牧師さんのところには、ウガンダの孤児からの手紙が約3千通が届いていました。それらの手紙には内戦やエイズでなどで親を亡くした孤児たちの勉強がしたいという切実な願いが書かれていたということです。そのことを聞いた先輩方が子供たちに夢と希望を与えようと始めたことがきっかけで、ウガンダ意識向上財団との交流が今日まで7年間続いてきたのです。この間ウガンダのCUFIヘはコンテナ数百箱の物資と、約120万円の支援金を贈ってきました。そして、今年1月のセンパラさんからの手紙ではウガンダにとうとう『AWA-MINAMI洋裁学校』が完成したという報告が入りました。私達が送った支援金によって子供たちが洋裁技術を学ぶ場がつくられたというのです。
私たちは今、なに不自由なく豊かな生活をしていますが、不登校・いじめ・少年犯罪といろいろな問題が日本に渦巻いています。それは豊かだからこそ出てくるのでしょうか。発展途上国では、毎日生きるか死ぬかの問題に直面しているところが多いといいます。明日の食べる物さえないというぎりぎりの生活をしている子供たちが何百万人もいるといいます。ウガンダだけではなくアフリカにはこういう国が多いということですが、私はそういう国へ行って一人でも多くの人を助けたいという気持ち・・・・・」
この活動は学校だけではなく地域に広がり、1999年には、前述の生徒も含めて数名の卒業生によって支援グループ「ひかりの」が結成された。断続的ではあるがいまも地域において支援活動を続けている。しかし、創立100年を迎える安房南高校は、2008年、統廃合により姿を消すことが決まった。高校生が国際社会を身近な問題として関心をもったことから生まれた草の根の国際協力の火種を絶やさないように、「ひかりの」を核にして卒業生や地域の人びととともに、地球の裏側の「安房南」を支援し続けていきたいと思っている。