タイトル: | 太平洋を渡った南房総のアワビ漁師たち |
掲載日時: | %2009年%07月%02日(%PM) %20時%Jul分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=417 |
2007(平成19)年、千葉ブランド水産物に“房州黒あわび”が認定された。申請者は共同で、白浜町、房州ちくら、和田町の各漁業協同組合。房州地方の伝統的な特産品であるあわびは、奈良時代722 (養老6) 年、平城京に税として送られた歴史を持つ。千葉ブランドの認定には千葉県を代表し、全国に誇れる優良な水産物であることが求められる。房州はあわびの特産地。幕末から明治へと時代が大きく変わり、生きて戻れる保障もないアメリカへ太平洋を渡った漁師たちがいた。地元で特産のあわびを採っていても十分に暮らして行けたのに、何が彼らを新天地へと導いたのか。
1897 (明治30) 年12月、25歳の小谷仲治郎は、渡航目的に漁業・製造監督と記された旅券を手にアメリカへ渡った。結婚して4年目の仲治郎。長男義雄はまだ1歳、妻みわは二男徹(てつ)を身ごもっていた。この時、一緒に指導者として渡米したのは、男あま(海士)の安田大助(41歳)、安田市之助(41歳)、山本林治(39歳)の3名。
その頃の南房総・安房の外房沿岸では、あわびの餌となる海藻が生えなくなる磯焼けが発生し、不漁が続いていた。1897年には七浦村千田(現南房総市千倉町千田)で大火があり、仲治郎の住居も全焼した。生活の基盤となる住む家を失い、妻子を養わなくてはならない逼迫した状況の中で、なぜアメリカへ渡ったのか。
安房郡根本村出身(現南房総市白浜町根本)の仲治郎は、水産講習所(現東京海洋大学)の第3回卒業生。当時水産講習所の所長は関澤明清。かつてウィーン万博やフィラデルフィア万博などへ日本から出展する農商務省の事務官であった。日本の水産業の黎明期にサケ・マスの人工孵化や漁業方法の改良に努め、捕鯨銃の導入により日本人で初めて近代捕鯨に成功した水産界のパイオニアでもある。
1891 (明治24) 年に仲治郎は水産伝習所を卒業したが、その翌年、農商務省を退官した関澤は、仲治郎の住む根本村の隣りまち館山町に転居して、関澤水産製造所を設立。近代捕鯨事業を始めた。当時の水産伝習所は、日本の水産教育の最高水準の学校であったが、日本の水産業界には、まだ卒業生を受け入れるだけの受け皿がなく、卒業生の職場がなかった。
仲治郎の卒業から遡ること13年前、1878 (明治11) 年4月から7月にかけて、根本村沖では日本で初めて器械式潜水法による、あわび漁試験操業が行われた。その時の出資者の一人が森惣右衛門であり、その弟清三郎の二男が仲治郎であった。この試験操業を成功に導いた増田万吉は、開港間もない横浜において、日本で初めて民間による器械式潜水事業を起こした人物である。彼は英語に堪能で商業英語辞典を編纂する力量を持っていた。
この年の大成功を契機に器械式潜水漁法は、瞬く間に日本各地に広まった。増田はハワイへの官約移民より2年早く、1883 (明治16) 年に日本政府の許可を得て、オーストラリアの木曜島に真珠貝採取のため、37人の日本人団を派遣した。このダイバーの集団派遣を境にして、木曜島への本格的な渡航が始まった。なお、1890 (明治23) 年に親善使節団として来日したトルコ軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県大島沖で遭難したが、その際にも増田は率先して遭難者や船体引き揚げに協力し、トルコ政府から多大な褒賞金を授与された。増田没後、顕彰碑建立の動きがあり、根本地区で趣意書が見つかっている。進取の気鋭を持った増田万吉の来村は、16歳の仲治郎に未知の世界を開かせた。その後、仲治郎が東京の佐野英語学校で1年間学ぶきっかけになったとも考えられる。
こうして10代半ばに増田万吉、20歳前後に関澤明清の影響を受けた仲治郎。渡米の直接の要因となったのは、野田音三郎からの情報であった。1889 (明治22) 年、25歳で渡米した野田音三郎は、労働者の斡旋や開墾請負などで日本人によるカリフォルニア州での開拓に重要な役割を果たしていた。
ある時、野田は、カリフォルニア州モントレーの海岸のおびただしい量のあわびの存在を知った。なぜ大量のあわびがあったのか。先住民のなかにはあわびを食べたり、その貝殻を加工していたものもいたが、当時のアメリカ人たちにあわびを食する習慣はなかったのだ。
起業家でもあった野田はかねてから日本人労働者の窮状を見かねて、労働者の地位向上、職場の開拓に努めてきた。おびただしい量のあわびを見て、日本人の働く場の確保に活かせると気がついた。早速、労働者を集め、干(ほし)鮑(あわび)作りを始めたがうまくできない。野田には技術がなかった。指導者が必要だった。
そこで野田は日本の農商務省に専門家の派遣を要請した。その結果、1896 (明治29) 年頃に白羽の矢が当たったのが仲治郎だった。おそらく関澤明清から話があったと思われる。仲治郎も職がなかった。そこへ、監督者としてアメリカに来て欲しいと誘われたのだ。家族もあり迷ったに違いない。しかし、水産の最高学府で学んだ知識を生かしたいという向学心を抑えきれなかった。
1897 (明治30) 年1月の恩師関澤明清の急逝や、七浦村千田の大火による家の全焼にもかかわらず、その決心は揺るがなかった。まず独身であった兄源之助が、弟仲治郎や指導者の男あまたちの受け入れ準備のため、単身渡米した。その旅券の渡航目的は、水産業調査と記載されていた。
仲治郎と一緒に渡米した3人の男あまを先生に、あわび漁は行われた。次第に漁場が沖合になるにつれ、もぐり襦袢1枚の素潜り漁法では具合が悪くなった。長時間の潜水が難しくなったのだ。千葉県沖の黒潮は、7月において海水温24°Cの暖流。モントレー沖のカリフォルニア海流は、7月の海水温15°Cの寒流であった。小谷らは郷里根本での漁法を思い出した。素潜りから器械式潜水漁法に方法を変えたのである。
1898 (明治31) 年、栗原石松(46歳)、山口次郎松(41歳)、早川千之助(34歳)ら3人のあわびダイバーが渡米した。その頃、すでに日系人排斥の兆候は出始めていた。1900 (明治33) 年頃、カリフォルニア州議会やモントレー郡議会で、日系人のあわび漁業禁止法案が提出されそうになったことがあり、小谷らの尽力により法案提出は見送られていた。しかし、翌年には漁獲あわびの大きさ規制が行われ干鮑への影響が出て、収益は思うように上がらなかった。
小谷らのあわび事業は、投資家でもあったA.M.アランの協力を得ることになった。1902 (明治35) 年には、共同でポイントロボス缶詰会社を設立し、アメリカ人の味覚に合うように缶詰に加工して販売することになった。
それに呼応するかのように、ドイツ人ポップ・アーネストは1906 (明治39) 年、モントレーにレストランを開業。彼は、あわび肉を柔らかくすることを発見した。1915 (大正4) 年には、パナマ太平洋国際博覧会開催中にサンフランシスコであわびステーキを紹介。博覧会を機にあわび料理はサンフランシスコに定着していった。1917 (大正6) 年には第一次世界大戦の反ドイツ感情のため、サンフランシスコからモントレーに戻り、あわびダイバーから提供された新鮮なあわびを氷詰めにして、サンフランシスコへ送る努力を続けた。そして、当時の牛肉不足も相まってあわびステーキはますますアメリカ人の食卓に普及していった。
ちなみに現在、日本の英和辞典でアバローニ(あわび)の説明には「日本では刺身で食べることが多いが、西洋、特にアメリカの太平洋側では通例ステーキにして食べる」と紹介されている。後に辞典に載るほどアメリカ人社会にあわび料理を浸透させた事跡は、小谷らの功績の一つと言ってよい。ポイントロボス缶詰会社のあわび取扱量は、カリフォルニア州のあわび市場で最大75%を占めるまでに成長した。
1905 (明治38) 年2月、サンフランシスコの新聞紙上で反日キャンペーンが行われ、同年5月にはサンフランシスコでアジア人排斥同盟が結成された。その後、1907 (明治40) 年2月には、ハワイ等からの日本人の転航移民が禁止され、翌年3月には日米紳士協約で日本人移民が制限されたのであった。
日本から、交代のあわびダイバーたちが渡米しづらくなることを察知した仲治郎は、1907 (明治40) 年はじめ、10年間暮らしたアメリカを後に、日本に帰国した。仲治郎は、日本にいて缶詰工場の共同経営者として、あわびダイバーの渡米許可を日本政府に要請し、アメリカ側では、兄源之助やA.M.アランらが奔走してアメリカ政府に要請した。そして、一時的な滞在を条件に少人数のあわびダイバーたちの入国が特別に許可されたのであった。
その後も、漁獲あわびの大きさ規制は強化され、干鮑製造も禁止されていった。1930 (昭和5) 年にA.M.アランが亡くなり、同じく源之助も亡くなると、翌年にはポイントロボス缶詰会社は閉鎖された。しかし、閉鎖した後も源之助の三男セイゾーやアランの義理の息子であったジュリアン・バーネットによりあわび事業は続けられた。
そして、日米開戦の翌1942 (昭和17) 年にアメリカ大統領行政命令第9066号で日系人の強制立ち退きが行われ、日本人によるあわび事業は完全に消滅したのである。
現在、モントレー市内からポイントロボスまで、車で約20分。モントレーとサンフランシスコの間は、車で約3時間の距離である(約190km)。サンフランシスコからポイントロボスまで、決して近いとは言えないが、当時、日本の皇族や政治家、芸術家らが度々ポイントロボスにやって来た。
1925(大正14)年11月に朝香宮夫妻、1931 (昭和6) 年5月には、世界一周新婚旅行の帰途立ち寄った高松宮夫妻。そして同年9月に衆議院議員の尾崎行雄が2人の娘品江・雪香とともに、小谷宅を訪問した。尾崎はニューヨークのカーネギー財団からの講演要請に応じて渡米したが、サンディエゴで静養中であった妻テオドラの見舞いを兼ねて、日系人排斥の実情を把握するためにカリフォルニア州の各地を視察していた。
関東大震災以降、人気に陰りを見せていた竹久夢二は、再起をかけて渡欧する足がかりとしてアメリカに来た。そこで世話になっていたのが小谷宅であった。奇しくも日本からやってきた尾崎らと記念写真に収まることとなる。
1994(平成6)年8月、ポイントロボスで式典が行われた。モントレー半島に日本人が移住して100周年を記念する行事の一つであった。その席上、小谷源之助らの地元への貢献を認めて、州立公園となっているポイントロボス内の住居跡地を“コダニビレッジ”として公式に命名した。
戦後60年を記念して、2005(平成17)年9月、モントレーからの市民団が館山市を訪れた。日米開戦によって途絶えた交流が、戦後60年を機に復活したのだ。2007(平成19)年には、小谷源之助の息子であるユージンらが来日し、父のふるさと白浜を訪ねた。その歓迎セレモニーには、110年前の1897 (明治30) 年当時の関係者の子孫たちが一堂に会した。すなわち、小谷源之助の息子と孫、仲治郎の孫、野田音三郎の孫、増田万吉の孫たちであった。
現代に生きる我々としては、温故知新のごとく太平洋のかけ橋となった人々の功績を顕彰し、それを地域に活かし、後世に伝えていくことが責務であると思っている。
『太平洋にかかる橋(アワビがむすぶ南房総・モントレー民間交流史)』
NPO法人安房文化遺産フォーラム発行(2005年)
1878(明治11)年 増田万吉、根本村沖で器械式潜水漁法に成功。
1883(明治16)年 増田万吉、真珠貝採取のため木曜島に37人の日本人団を派遣。
1888(明治21)年 小谷仲治郎、東京市牛込区の佐野英語学校で1年間英語を学ぶ。
1889(明治22)年 野田音三郎の渡米。
1890(明治23)年 増田万吉、トルコ軍艦「エルトゥールル号」引き揚げに貢献。
1891(明治24)年 小谷仲治郎、水産伝習所卒業。
1892(明治25)年 関澤明清、館山に転居。関澤水産製造所を設立。捕鯨開始。
1896(明治29)年 野田音三郎、農商務省に水産専門家の派遣を要請。
1897(明治30)年 小谷源之助・仲治郎兄弟と男あま3名が渡米。
1898(明治31)年 あわびダイバー渡米。
1900(明治33)年 カリフォルニア州議会・モントレー郡議会へのあわび漁業禁止法案提出阻止。
1901(明治34)年 漁獲あわびの大きさ規制。
1902(明治35)年 ポイントロボス缶詰会社設立。
1905(明治38)年 サンフランシスコで新聞による反日キャンペーン。アジア人排斥同盟の結成。
1907(明治40)年 小谷仲治郎、日本に帰国。ハワイ等からの日本人転航移民禁止。
1908(明治41)年 日米紳士協約により日本人移民の制限。
1917(大正6)年 ポップ・アーネスト、あわびステーキ普及に尽力。
1931(昭和6)年 ポイントロボス缶詰会社閉鎖。
1942(昭和17)年 日系人の強制立ち退き。日本人によるあわび事業消滅。
1994(平成6)年 ポイントロボスで“コダニビレッジ”命名式典開催。
2005(平成17)年 館山市でモントレー市民団の歓迎セレモニー開催。
2007(平成19)年 館山市でユージン・コダニを迎え、110年前の関係者子孫一堂に会す。